第三幕:花と嵐
第27話:息を呑む
「芙蓉子――」
柔らかな布を被さり、まあまあの寝心地だった。ただし頬を撫で続ける風に湿り気は濃く。その冷たさに、妻の幻は遠ざかる。
その代わりに戻ってくる、現実の記憶。
貯水した
「目が覚めたようね」
頭上で誰か
すると俺は芙蓉子に。いや誰かに負われ、
「どれだけだ。あれから、どのくらいが経った」
「まあ。起きるなり随分な態度ね」
優しげだが、沈んだ声。
なにかあったのか。考える俺の耳に、轟々ととめどない激流の音が届く。
「水がっ!」
「ええ。あなたのおかげよ」
上体を跳ね起こす。開いた目に、薄闇へうずくまる多くの人影が映った。
夜、ではない。見上げれば布が張られ、しとしとと今なお雨が落ち続ける。暗くはあったが、分厚い空の奥に太陽は在るらしい。
腹の底を揺らす轟音が辺り一面を埋め尽くし、どの方向からか分からない。屋根の外は倒れる前に見た岩山と似ている。
「こっちよ」
枕元へ座っていたロタが立ち上がる。俺の手を取り、流れの見える場所へいざなってくれた。
見回せば、砂の民の住むほど峻険な地形ではない。ひと際高い場所らしいが、斜面はなだらかだ。
けれども一方だけ、行く先がストンと見えなくなっている。切り立った崖の縁まで、ロタは手を引いた。
「ああ……」
眼下に、海が広がる。燃え尽きた白灰の色が渦を巻き、うねって崩れた波頭は牛の乳がごとく純白だった。
なにもない。
そこには、たしかにあったはずだ。命の泉に集い、寄せ合って建てられた家々が。
食い物を、服を、道具を商い。互いを助け、明日への対価を得るための大通りが。
砂漠の熱風にも耐え、強く育つ作物の畑が。
なにもかもが、白く濁る水流の下。
「ああ、よね。それ以外に、なにも言えることなんてないわ。でもあなたが知らせてくれたから、みんな助かったの」
「俺など」
知らせたのはワンゴだ。俺の成し得たことは、一つもない。
震う手を拳に変え、並んだロタよりも一歩前に進む。十間以上も下へぶつかる波が、つま先に飛沫を散らす。
「三日よ。あなたが家出をして、ワンゴが背負って戻るまでに二日。すぐに怪我は治したけど、目覚めるのに一日かかったの」
「この水は」
「昨日、日が沈む前。あなたの知らせで、どうにか避難が間に合ったわ」
俺のおかげと、ロタは繰り返す。その気持ちが申しわけなく、また否定する声は出ない。
振り向くと彼女は地面に腰を下ろし、硬そうなパンを差し出した。
「食べられるなら、食べたほうがいい」
「いただこう」
パンを受け取り、対面に座る。するとロタは風呂敷のような布を広げ、どれでも食えと勧めた。
焼き菓子に干し肉、酢漬けの野菜。飲み物を頼むと、山羊の乳が入っているという水入れが出てきた。
「聞いたと思うが、
「聞いたけど。どうしてそんな無茶をしたの」
ずっと、ロタの声に抑揚がない。
いやそれは楽観的観測で、俺の独断に怒っている可能性も十分に高い。
「なんだ。それにも答えたんだが、ワンゴは伝えてくれなかったのだな」
「いいえ聞いたわ。目先の困った人を助けもせず、大きな目的には辿り着けないって。奥さんに言われたんでしょう?」
伝わっているなら、付け加えることはない。そう言いたいところだが、どうもロタは納得しないようだ。
読めない表情が、なおさら凍りついたように強張っている。
「そうか、迷惑をかけたからだな。ロタがハンブルをけしかけたと思われては困る。分かっていたし、問題にならんよう考えてはいたんだが――言いわけもできん」
あの膨大な水量を見ては、選択肢がない。気付かれぬようにこっそりと水を抜く、という程度では間に合わなかった。
だが実際に非難を受ける立場のロタには、関係のないことだ。
「そうじゃない。私が聞いてるのは、あなたのことよ。あなたには目的があるでしょう。奥さんを捜して、幸せになるんでしょう。なのにどうしてこんなことを」
「俺の?」
芙蓉子の何十倍も大きな眼が、じっと見据える。噛んだ唇が怒りを堪えているように見えるけれど、そうではないと彼女は言う。
俺のこと。芙蓉子を見つけるという目的の前に、妻との約束で死んだのでは本末転倒。
おそらくロタの言い分は、そんなところだ。分かるが、答えに困る。
芙蓉子自身を。その言葉を。どんなことも蔑ろにしたくないと言ったのでは、納得すまい。
ならば、別の答えがあるだろうか。
ひとたびは息絶え、再び呼吸をする俺は、芙蓉子のためだけに在る。それ以外に、
「きみのためだ」
「え……?」
深く考えようとしたが、意外なほど近くに答えがあった。俺はロタを助けたいと考えたのだ。これは嘘でもお世辞でもなく、本当に。
「事の成敗は天に在り。だが人事を尽くさずして、天、天と言うなかれ。これは先輩の言ったことだが、その通りだと思う。ロタ、きみは神に仕えながら、己の力で使命を果たし続けている。俺はそんなきみの、助けになりたいと思った」
その結果に迷惑をかけていれば世話はない。しかし理由を問うているなら、これがそうだ。
食べかけのパンも置いて、真剣に話した。にも関わらず、ロタはしばらく口を噤む。その上、石にでもなったように動かない。
どうしたことか。どうしたものか。なんと声をかけたものか、俺も言葉に迷う。
するとやがて、彼女の大きな眼がまばたきを思い出した。暗い空にも、濡れた瞳が美しく輝く。
息も忘れていたのか。すうっと大きく、荒く呑み込む。
「なっ、なにそれ。私のため? こんな時になにを言ってるのか、さっぱり分からないわ」
残念なことに、伝わらなかったらしい。ではなんと言えば良いのか、悩む前にロタは立ち上がった。せっかく広げてくれた食い物も、乱暴に包んで。
少し食って、空腹を思い出したところだ。だのに彼女は、追われるように早足で立ち去った。
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