閑話
第26話:閑話 雨に浮く芙蓉
雨と言えば。あれは太正六年のこと。猛烈な台風が迫り、
堤防の決壊は、多すぎて書き取りきれぬ。太阪市の大部分が浸水。終いには村ごと町ごと流失したなどと、耳を疑うばかりだった。
東亰の者たちは、知人縁者、見も知らぬ誰かのためにも祈った。
そして自分たちのためにも祈る。どうか海に逸れてくれと。
「兒島少将、ご自宅はよろしいのですか」
頼みもしない玉露を差し出され、喉が渇いたなと気付く。副官の少佐どのと直接の上下関係を結ぶのは、かれこれ三度目だ。
デスクに広げた報告書と地図から顔を上げ、ありがたく湯呑みを取った。熱すぎず、ぬるすぎず、実にうまい。
「問題ない」
「しかし奥さまが伏せられて、もう随分になります。なにかあった場合に、お一人ではどうもならないでしょう」
普段は冗談にも、俺個人のことに踏み込まない。だがこんなときには、ぴしりと痛いところへ意見を叩きつける。
得がたい男だ。
「なんだ、そう田舎と侮ってくれるな。北豊島郡にも巡査屯所はあるし、最寄りに派出所も新築されたばかりだ。
「そんなお戯れを仰っている場合ですか!」
ちらり。眼を向けた窓が、油でも塗ったようにべたりと濡れた。叩きつける雨音は、実は砂粒だろうと疑いたくなる。少佐の声量がいや増すのも、致し方ない。
「ご自身の職務に精励されるのは分かります。そのような閣下のお姿に、私たちは惚れておるのです。ですが、だからこそお申しつけください。
谷中は俺の自宅が建つ地区の名だ。少し先に荒川が流れ、氾濫すればどうなるか分からない。
だがそれを
「連隊長の俺に、服務違反をしろと言うのか」
「砦を堕とさんとする時にはそのものだけでなく、周囲の地形や気候、住む人々の食い物にまで目を向けるもの。と申し上げております」
「ものは言いようだな」
「おそれいります」
分かっている。正しいのは少佐の言葉だ。同輩にも先輩にも近郊に自宅を持ち、そういう応用を利かせる人は多い。
だが、たとえばその頼みを少佐が引き受けてくれたとして。彼の身はどうなるのか。
未曾有の災害を既に見聞きした中、どうやって送り出せと言うのだ。彼にも妻と子が居る。
少佐になにかあって、しかも宮城に異変があったらどうするのか。
階級が低く妻子のない者なら良い、という話でもない。結果として部下に無茶をさせたと悲しむのは芙蓉子だ。
「俺の生まれる前から居てくれる乳母も一緒だ。ご近所さまとも仲良くしていただいている。どうにかなるさ」
「今宵が限りとなっても、後悔なさらないのですか」
書類挟みのごとくお盆を脇に抱え、直立不動で敬意を示し続ける。逆の立場なら、俺はもう姿勢を崩しただろう。
それでも。意地悪をするつもりはないが、即答できない。答えは決まっているのに、他の言葉を探して。
「……後悔しない。はずがないだろう」
「では」
とうとう見つからず、隠そうとした答えを口にする。
ようやく観念したとでも思ったのか、少佐は緩く微笑む。しかし俺はその先に続くだろう提案を聞かず、水平に首を振った。
「いや、駄目だ」
「なぜですか!」
「妻の住むこの帝国全てを守るのが、俺の仕事だ。それは俺一人で叶うことでない。お前たちの誰一人、私情で傷つけるわけにはいかん」
そう望むのが芙蓉子自身と、少佐は知らない。いいから黙って守られろと、納得もさせられぬ情けない夫とも知らない。
彼はどう呑み込んだのか、深く頭を下げた。
「分かりました、差し出がましい口を挟みまして申しわけありません」
「いや。気持ちはとてもありがたい」
「さて、では別件ですが」
先の会話などなかったように、少佐は別の報告書を持ってくる。
赤阪周辺の地図が入ったものだ。これまで見た他の報告書には重要な部分に朱が引かれていた。が、これには見当たらない。
「ご覧の通り、我々の兵舎周辺の状況です。宮城までの道すじを含め、特筆する災害は過去にありません。しかし今回は、前例のないことばかりが起きています」
「慢心していては宮城に駆けつけるどころか、我々自身が危険かも。か?」
治安維持にしろ戦にしろ、なにかあってから対応を考えるのでは遅い。頷く少佐の言い分は、もっともだ。
「その通りです。進行経路と付近の河川を見渡せる拠点を定め、少数の監視要員を前進待機させるべき。と、大隊から意見が上がっております」
「うむ、もっともだ。人員の調整は各大隊長に任せる。ただし、万全の装備を与えること」
「了解。早速そのように伝達して参ります」
退室した少佐は、また何度も連隊長室を訪れた。隊の内外を問わず、俺の耳に入れるべき事柄は数えきれない。
もちろん俺からの指示も、彼を経由して該当者に伝わる。
台風が過ぎ、雨の上がった翌朝まで。俺はデスクで、数分ほども居眠りをした。だが彼は、きっと眠っていないはずだ。
だから通常の交代時間に、「帰って休め」と言った。被害の後始末は必要だが、不眠不休では務まらない。
「お言葉に甘えて、妻子の顔を見てきます。閣下もお戻りになられますか、谷中に被害はなかったと聞き及んでおりますが」
「被害がなかったのなら、戻る必要はない。あの田舎まで、誰かに送ってもらうのも悪い」
それから結局、俺が自宅へ戻ったのは十日後のことだ。事後処理はまだまだ山積みだったが、上司である師団長に帰れと言われては逆らえない。
「英治さん、お帰りなさいませ」
乳母に背中を支えられ、芙蓉子は布団の上に上体を起こしていた。悪い中でも具合いが良かったのだろう、青い唇で笑ってくれる。
「台風のさなか、部下の方々がお越しくださいました」
「そうか――やめておけと言ったのだが」
「ええ、その方たちも仰っていました。英治さんには止められたと。でも別任務の途中、道に迷っただけだから責めるなと」
なんとも壮大な迷子もあったものだ。だが正直、「やはり」と思う。
あの日少佐は芙蓉子を保護することから、急に周辺監視へと話を変えた。なんとなく予想はしていたが、副官の言葉をいちいち疑っていられない。
という言いわけで、俺は黙認したのだ。
「気兼ねだったろう、悪かった。しかし俺は、部下の狂った磁石に感謝してもいる」
「いいえ、心強かったのは間違いありません。英治さんの私を思ってくださる強い気持ちが、洩れ出てしまったんでしょう。私にはそれだけで、幸せがはちきれそうです」
ありがとうございますと深く頭を下げ、芙蓉子は咳き込んだ。それから俺の休息時間が終わるまで、調子が戻ることはなかった。
迎えの車内で、俺は悩む。芙蓉子の気持ちは分かるが、俺はどうするのが正解かと。
お父上に厳しく育てられ、自身を二の次、三の次と考えているのだと思う。そこまでとは知らず、俺は約束した。
添え木や肥料を与えたくとも、あの花は拒んでしまう。どうやって可憐に咲かせばいいのか、結婚二十年目にしてなお、答えが見つからなかった。
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