第25話:哀しみの雨
……空が暗い。なかなか焦点の合わない眼にも、ぼんやり黒雲と分かる。
背の硬い感触が、湯に浸かったような温度を伝えて心地がいい。反対に、頬や首すじをくすぐる風は冷たかった。水仕事で冷えた芙蓉子の手のごとく。
「ここは……」
声が嗄れている。咳を払おうとして、腹に力が入らない。身体じゅうが、ひどく重い。
ここはどこだ。視界にあるのは曇天と岩ばかり。まず屋外に寝転んでいる理由も不明だが、それにしても東亰にこんな景色があったろうか。
さておき、このままでは風邪をひいてしまう。居場所を知るためにも、起き上がらねば話にならない。
情けない腹筋には見切りをつけ、うつ伏せになろうとした。
「
息が詰まる。にも関わらず、痙攣する喉と胸が呼吸を強要した。
「はあっ、は……ああっ、ふうぅぅぅ」
激痛は右腕と、反対のわき腹。表皮から遠く、体内の深いところで、誰かが鉄棒を突き込み続けているように。
「そうか、蜥蜴人に」
そうだ、俺は槍で突かれたのだった。一つ思い出すと、あとの記憶も鮮明に蘇る。
なぜだ。なぜ俺は生きている?
「くうっ……!」
立たねば。
痛みを無視し、折れようとする膝に平手で括を入れる。
杖はないが、頼る持ち手には困らなかった。もう少し握りやすくと注文を付けたいが、岩の大地の設計者など見つからない。
その代わり、妙な物を見つけた。俺の身体にだ。
「包帯が――」
細く布を裂いた、粗末な物ではある。意識すれば、ほのかに薬草めいた臭いも漂った。これは誰かが俺の治療をしてくれたのに疑う余地はなかろう。
だのに、思い出せない。
槍で突かれ、すぐに気を失いはしなかったように思う。朧な意識と視界に、誰かにどこかへ運ばれた感触も残っている。
それがここなのか、また別の場所かも分からないが。
砂の民が?
まさか、だ。奴らに言わせれば俺はハンブルで、裏切ったという森の民の手先。しかも溜めた水を流せと、実力行使までした。
生かしておく理由がない。
「分からん。分からんことだらけだ」
岩壁を伝い、十数える間に一歩か二歩を進む。作戦が失敗した以上、残る責務は基地への帰還。ワンゴが伝えたよりも詳細を、指揮官どのに伝えねばならない。
「違う、ロタだ」
朦朧とする意識を現実に繋ぎ止めようと、ロタのことを思い浮かべた。
同族である一眼人を。仲間である森の民を。出来れば、敵となった砂の民でさえ。手の届く限り、救おうとする女。
一人の腕の長さには限界があるだろうに、少しでも伸ばそうと悪あがきする女。
手伝ってはやれなくても、せめて邪魔をしたと言われたくない。
「くそ、目が」
あれからどれだけの時間が経ったか。流血は落ち着いているようだが、傷の塞がるほどではない。
気付けば目を覚ました時より、包帯の赤みが拡がっている。
白と薄い褐色。岩の色が油絵のように、輪郭を曖昧にしていく。
それでも足は動く。手に感触があれば、方向を定められる。足が止まれば、這ってでも行ける。
「帝国軍人に、諦めという言葉はない!」
我ながら笑えるような、痩せ我慢の言葉。そう言い聞かせでもしなければ、このだらしない男は怠けてしまう。
芙蓉子、
と、すぐに助力を求めるほど情けない人間だから。
「芙蓉子……」
たしかに呼んだ。心の中でだが、はっきりと声に出した。
本当に方向を教えてもらおうとは思わず、正気を保つ活力が欲しかった。愛する妻の姿を浮かべれば、それに十分だった。
芙蓉子が、ここに居るはずはないのだ。それなのに、見える。ここまで来なさいと言うように、両手を差し伸べてくれている。
そうか、そちらに
「英治さん、生きてください。あなたなら、多くの人を守れるはずです。私の分も」
「ああ、ああ。きみのことだから、誰も見捨てるなと言うのだろう。約束する。なんでもする。ただし、きみもだ。必ず見つける」
もしかして、既に俺は倒れているのかもしれない。これは今わの際の、幻想なのかも。
だとして、歩みを止める理由にはならん。
岩を踏みしめるたび、激痛が脳天を衝く。しかしそれでも辿り着いた。芙蓉子の両手に、俺の両手を重ね合わせた。
抱き締めてくれた芙蓉子は、お天道さまの匂いがした。
「エッジ! エッジ! しっかりしてくださいエッジ! ロタさまが治してくれるまで、死んだら承知しませんよ!」
きみはいつから、こんなにも力強くなったのか。それに髪も白髪だらけだ。ふわふわとして気持ちがいいけれど。
俺を背負い、林立する岩の間を駆け抜ける芙蓉子。自動車も顔負けの速度で、山頂が遠のく。
やがて
強い、強い雨が。
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