第23話:奇襲
見張りの目に気をつけろと言うのを忘れていた。だが去っていくワンゴは音を抑え、砂煙を立てぬように進む。あれなら心配は要るまい。
「さて」
視線の通らぬ位置まで下がり、サーベルを抜く。強い反りと薄い刃厚は、軍で支給された物と異なる。
だがまあ、こんなものかくらいには思えた。
得物が悪い、天候が悪い、体調が悪い。などと、やらぬ言いわけはいくらでも捻り出せる。それをやるのが、人のあるべき道だ。
「しかし芙蓉子。俺はまた、きみを捜しもせず、こんなところへ居る。命を無駄にする気はないが、死なぬと決まっているわけでもない。これは、やるべきなのか?」
懐紙を取り出そうとしたが、それはなかった。仕方なく、マントの裾で刃を拭う。
「いい加減にしろ、と。きみは怒るだろうか」
「――いいえ」
声が聞こえた。
「芙蓉子?」
咄嗟に辺りを見回すが、平たい岩山の上。誰の姿もなく、身を隠す場所もない。
……空耳か。
つくづく柔弱なことよと、己に呆れる。しかしこれは、やる言いわけに丁度良い。他の誰でもない、芙蓉子の許しが得られたのだ。
「ならば、行くのみ」
サーベルを納め、元の道へ。目指すはあの巨大な壁。
斜面を下り、可能な限り近付くには二時間ほども要した。
「……壮観だ。凌雲閣より高いのではないかな」
道は悠々と進めるくらいに広くなり、行く手が二つに分かれた。即ち村へ上るのと、川岸へ下るのとに。
見張りに発見されぬ距離を残しても、見上げた壁はなおさらに高く思えた。浅草に建つ、太日本帝国一の高層建築より。
ただしそれほどの威容に対し、蜥蜴人の姿は三人しか見えない。
それぞれ受け持ち範囲が決まっているのだろう。一定の距離を見回っては元の位置へ戻るのを繰り返した。
ワンゴが自信を持って「エッジでは敵わない」と言う蜥蜴人を、どうにかせねば。対策を求めてそこらじゅうへ視線を走らせ、見つけた。
「――ちょうどいい」
乾いた川底に、若い低木がいくらも生えている。
奴らからは死角となるものを選び、近づく。親指と同じくらいの太さを持つ幹が、根本から七本でひと株。
普段は流れのある時期に水を止め、水底に眠っていた種が芽吹いたのだろう。触れれば瑞々しく、金属のバネも顔負けに跳ねる。
「これでいける」
三間近い高さの先に、
残した幹を束ねて括り、マントを裂いた紐を延長する。
束ねたのをしならせ、短い枝で拵えた止め具に紐を繋ぎ、岩で地面に固定。最後に葉の付いた枝を皿代わりに、幹へ石を載せる。
これで時限式投石機の完成だ。
「うまく動いてくれよ」
手拭い大に裂いたマントに小さな石で重石をし、止め具の支えとなる枝に糸で結ぶ。マントの切れ端を僅かな水の流れに触れさせ、俺はその場を離れた。
来た道を少し戻り、岩陰に身を隠す。蜥蜴人も投石機も見えないが、音で判断するしかない。
発動までは、いささかの時間が必要となる。なにしろマントは雨具でもあるのだから、多少の水気など弾いてしまう。
しかしやがて水を含み、川の流れに引かれるはずだ。そうすれば止め具が外れ、仕掛けた石が発射される。
「――来た」
賑やかな葉音を立て、拳大の石が空を切った。目標は大壁だが、当たらずとも構わない。壁に向けた攻撃と、蜥蜴人が認識してさえくれれば。
遅れて、鈍く重い音が鳴った。どうやら壁に命中もしたようだ。むしろそれで壊れてもらっては困るが。
慎重に、見張りたちの動きを覗き見る。
俺が上司なら、上に居る一人には応援を呼ぶよう指示しておく。そうなったら近付きようがない、撤退だ。
だが、奴らはそうしなかった。
水扉の直衛役である川岸の一人が、高い位置のもう一人と川底へ下りた。油断なく短槍を構え、歩く速度で投石機に近寄っていく。
今なら壁の守りは一人だ。この機会を逃せば、やはり逃げ帰るしかない。
川底を向かって来る蜥蜴人の二人。その頭上、崖沿いの道を進む俺。すれ違い、道が分かれるまでを一気に進む。
上下の分かれ道。俺は迷わず、上るほうを選んだ。中途で止まり、早くしろと願う。うろうろと歩き続ける蜥蜴人が、真下へ来るのを。
「よし、よし」
小さく呟き、機会を計る。あと五歩、三歩――
「南無三!」
サーベルを抜くと同時。四間の空中に身を踊らせた。なに、蜥蜴人の背丈が七尺(約二百十センチ)もある。実質は三間ほどだ。
いまだ気付かぬ敵の頭上へ、切っ先を逆手に突き下ろす。
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