第22話:満ちた悪意
「どうとは、どういうことだ。あれがお前の言う大壁ではないのか?」
「一部はそうです。いちばん上の、右の辺りは。でもこんなに――元の三倍以上です。いえ、大きくなったのはいい。ボクの予想が間違ってなかったら、あの壁は川を塞いでいる」
もう支えていられない風に下ろされた手から、遠見の筒を奪い取る。峡谷の最も低い部分を見たものの、せり出した岩の向こうで川が見えない。
「ワンゴ、登る道はあるか」
「あります。急ぎましょう」
切り立つ崖の真上に顔を向けて問うと、即座に返答があった。力強い、と言うより焦って力んだ声で。
前進を再開して間もなく、ワンゴは「ここからです」と斜面を指さした。たしかにどうにか登れそうだが、人によって壁と分類するような斜面を。
「行けますか」
「他に道がないなら、行かぬ選択肢もない」
分厚い革を縫い合わせた
問題は、一つしくじれば峡谷の底まで真っ逆さまということ。死ぬのはともかく、このタイミングでは間抜けが過ぎる。
「山岳訓練を増やしておくべきだったか」
先を行くワンゴは、整備された階段を進むように危なげない。対して俺は三点支持を呪文のごとく唱え、ゆっくりと進む。体力作りだけに囚われず、実践的な技術の習得にも時間を割くべきだった。
草の一本も生えぬ頂上に着くと、おおよそ夜が去っていた。まだ西の空に、群青の後ろ髪が残る。
今日もきっと、暑く乾いた一日になりそうだ。俺が追い付くのを待ちつつペースを合わせて登ったワンゴは、呆然と大壁の方向に立ち尽くした。
同じく眺めた俺も、まずは息を呑むしかない。
「これは……」
眼へ飛び込んだ光景に汗は凍え、荒く乱れた呼吸さえ止まる。険しい岩山のさらに高い場所から、見えてはならないものがそこにあった。
――
しかもどれだけ広いのか、目測では差し渡しがよく分からない。深さは栓のごとく峡谷を塞ぐ、壁の高さ。およそ二十間はあろう。
そしてもう一度、しかもと言わねばならない。見渡す湖の反対岸へ、さらに壁が築かれている。その奥へも当然のように、同じような湖が美しくきらめいた。
「エッジ。この壁が――壁が崩れたら」
「気休めも言えん。お前が思い浮かべた通りになるだろうよ」
遥か谷底に、今は糸筋のような川が流れた。穿たれた道を辿ると、その先は
これだけの水量を解き放てば、町じゅうが水に浸かる。先んじて砂の民だけが居なくなった、あの街が。
「だが悪意を持つのが俺なら、まだ壁を崩さん。間もなく雨季なのだろう? それを待つ」
「そう、ですね。そうすれば
じわじわと、ワンゴの膝が折れていく。目に見えるほど震え、ぺたんとへたり込む。
いやいやと、首を振る。それでも整理が追い付かないのか、頭を抱えて平たい山頂に突っ伏した。
「……エッジ。あの水をどうにかする方法はありますか」
「先から考えているが、ない。唯一、水量調節の仕組みを使えればだが、当然に見張りが居る」
遠見の筒を使い、近いほうの壁を余さず観察した。まず最も高い部分に、人の住む家が隠れている。
山砦とは言い得て妙。ワンゴの言った通り、その部分が元々の大壁なのだろう。
水の溜まっているのは、村よりもかなり下方。壁の中段辺りからだ。
何箇所か、水を抜くための門らしき装置も見えた。
「そんな、どうしようもないんですか。
「考えている」
「ロタさまが……コルピオも、みんなも。放っておけば、死んでしまいます。ボク、ボクはそんなの嫌です!」
「ああ、居眠りなどしていない」
ワンゴは顔も上げられず、喚き続けた。ひっくり返った声が次第に泣き声へ変わり、俺の脚に縋り付く。
「嫌。嫌です。ボクの街が――」
どう考えても、水を逃がす方法がない。水扉に触れさせてはもらえまいし、下手に壁を傷付ければそこから崩れる。
それこそ天空神に頼み、飲み干してでももらわねば。
「ワンゴ、聞け」
「なんですか……」
「俺の十倍も足のある、お前に頼みたい。
考えていた。二つのことを。
一つは今のうちに、手前の壁だけでも崩せば被害を最小限に出来るのではと。
もう一つはこの悪意をニクが知ったとして、どうしたら皇帝に刃を向けるのか。
どちらもこの場に居ながらでは、知ることが叶わない。
「知らせて、どうするの」
「ロタを手伝ってやってくれ。実際に見た者が居るのと居ないのとでは、話が違ってくる」
「そうじゃない。あなたはどうするの」
嗚咽に震える喉を、ワンゴはどうにか御して話す。甲高く引き攣った声が、常にはひまわりのような少年を儚く枯れさせて見せる。
「俺はバクチを打ってくる。二分八分で敗けるだろうが」
「それならボクも」
きっ、と。常には丸い眼が、怒りの形に歪んだ。その向きは
誤解のしようもない。紛れもない悪意を目の当たりにしては、無理もなかろう。けれど、曇った目はワンゴ自身を危機に落とす。
それはバッグを探る少年の手に、ナイフが握られたことで明らかだ。
「優先すべきを見誤るな。万の人々を動かすには、僅かでも猶予のあるほうがいい。それには俺より、お前のほうが適任だ」
ゆっくりと、低く声を抑えて諭す。しかと事実を指摘する必要はない。この子は賢いのだから。
「死ぬ気?」
「いや、俺は臆病だ。やってみて難しければ、お前の後を追う」
だがそのぎりぎりまで、試す価値はある。そうした結果として、命運尽きるのは仕方がない。
「……分かった。エッジ、無理はしないでください」
「なるべくそうしよう」
俺の脚を支えに、ワンゴは立ち上がった。当人の足はまだ震えているが、健気にもすぐに戻る方向へ踏み出す。
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