第21話:守る者
「俺は妻に教わった。目の前の、世話になった人々の話も聞かぬ者が、どうして大望を果たせるかと」
「なかなか厳しいことを言う奥さんですね」
「いや今のは芙蓉子に言われて、俺が考えたことだがな」
怖ろしやと肩を竦めたワンゴに、慌てて言いわけをする。あの穏やかな芙蓉子が、俺のせいで鬼嫁にされては申しわけが立たない。
「昔のことだ。俺が戦争に出て戻ると、元気だったはずの父親が死んでいた。急な病で」
「悲しいですが、そういうことはありますね。ボクの両親もです」
「そうか。大変だったろうが、今は楽しそうだな」
「ええ。きちんと仕事をすれば、蠍人は約束を守ります。中でもコルピオは、気前のいいほうですし」
言って少年は、干し肉の最後のひとかけを俺に示した。それからいかにも冗談めかし、わふわふ笑いながら口へ放り込む。
「分かった分かった。また今度、なにか持って行く」
「いえいえお構いなく。それでお父さんがどうなったんです?」
「もちろん弔った。それはいいが、芙蓉子に言われたのだ。家督を継いだと、世間さまにお知らせしようとな」
「家督とは大層ですね。果物、食べますか」
なんでも出てくるバッグから、今度はオレンジに似た柑橘。また半分を貰って、お返しが大変だ。
「大層な家じゃないんだ。だから俺は、そこまでしなくてもと答えた。しかし芙蓉子は、違うと言った」
「違うって、なにがです。実は貴族だったとか?」
兒島の家は長く続いていたし、俺を士官学校へ入れるくらいの蓄えがあった。しかし間違いなく、それ以上ではない。
ゆえに俺にも、芙蓉子がなにを言わんとしたか分からなかった。
「妻はこう言った。『英治さん、あなたはなんのために戦へ行かれるのです。あなたの帰るこの家と、家を預かる私を守ってくださるのでしょう? でも私が家を守るのに、留守番をするだけでは叶いません。見守ってくれる辺りの方々、ご近所さまがあるからです。芋を作り、布を織り、道具を譲ってくれる方々があるからです。それを総じて、世間
「だからきちんと知らせようってことですね。ご立派な――優しい考え方です」
ワンゴは神妙に、二度頷いた。優しいと付け加えたのがどういう意味か、あえては聞くまい。
「俺もそう思った。妻が自分で辿り着いたなら素晴らしいし、お父上の薫陶かとも考えた。だがどちらも違った」
「と言うと?」
「芙蓉子は胸を張って答えた。あなたの、つまり俺の母親に教わったと」
そのころ母は健在だった。父を亡くし、腑抜けたようになってはいたが。
ただ、芙蓉子の言うようなことを聞いた覚えがない。親の発言と、聞き流したのかもしれないけれど。
「なんとしても、フユコを捜し出さないといけませんね。どうもあなたには、絶対に必要な人物みたいです」
「どうもそうらしい」
「ええ、頑張ってください」
「なんだ、手伝ってはくれないのか」
とは冗談だ。ワンゴにはワンゴの生活がある。
「無理ですね」
と、少年の返答もあっさりしたものだ。もちろんそれで構わない。
しかしワンゴは、バッグを肩へ掛け直しながら言葉を続けた。
「コルピオの世話になっていますし、ロタさまに恩返しもしていません」
「仕事をくれるコルピオは分かるが、ロタはどうしたことだ? さま、と付くのも彼女だけとは」
細くうねり、勾配のきつい道を進み始める。もう案内の必要はないのに、やはりワンゴが先へ立って。
縁に触れても欠片の一つとして落ちないのが、せめても救いだ。
「サンドレア帝国に、孤児を預かる施設はありません。同じ人種同士、助け合うことが多いせいでしょう。でも狗人は、八人種の中で数が少ないほうです。独りになった時まだ六歳だったのもあって、ボクは誰を頼ればいいのか分からなかった」
「それをロタに助けられたのか」
何度も振り返り、俺の足下を気にしてくれるワンゴ。一人でなら、ひょいひょいと進めるのだろうに。
けれどもこの問いの後、二十歩ほどは前を向いたままだった。
「そうです。ロタさまは一年くらい、傍に置いてくれました。ボクが立ち直ると、面倒を見てくれる人を探してくれました。わざわざ自分で」
「それでコルピオのところへ行ったのか」
「最初は断られましたけどね、人数は足りてるって。でもしばらく経って、空きが出来たと言われました」
皇帝と並ぶ立場のロタは、森の民のために秘密の畑さえ持つ。だがその一方で、蠍人にも頼みごとをする。
これを節操がないと言うのは簡単だ。けれど本当にそうだろうか。少なくとも今振り向いた少年の顔を見て、俺には言えない。
「今でもはっきり覚えてます。ロタさまはボクを連れて、たくさんの人に頼んでくれた。あのロタさまがですよ」
街を行けば誰からも。少なくとも森の民からは、絶大な信望を得ていると目に見えるロタ。
少年が言うのは、そういう姿だろう。ありがたく思う気持ちはよく分かる。けれども同時に、ロタでさえと感じる。
ロタでさえ多くの人を回って頼み込まなければ、子ども一人を食い扶持に入れることは難しいようだ。同族の繋がりが濃い、この土地でも。
「ボクはたまたま一人でしたけど、年に数人は同じような孤児が出ます。ロタさまは、知れば必ず助けています」
「見上げたものだ。たまたま一人でも凄いが、その人数となると
「そうですとも」
崖際の道を進む間ずっと、ロタのことばかりをワンゴは話した。毎日とても忙しくしているとか、皇帝と折り合いが良くなくてかわいそうだとか。
親のように、姉のように。心から彼女を好いていると、よく分かった。
「そろそろ見えるはずです。
「大壁とは?」
「聖戦の名残りですよ。ハンブルの主力を三眼人が
町を出て、もう随分と時間が経った。遠い空が明け始めたのを見ると、七、八時間も要したか。
自分たちの本物の拠点を囮にした、陽動作戦。なかなかの戦略だ。
「砂の民の知恵は素晴らしいが、まだ暗い。見えると言われてもな」
「なにを言ってるんです、それがあるでしょう」
幾ぶんか広い足場で、ワンゴは立ち止まった。「それ」と指が向けられたのは、俺の腰だ。
「ん、遠見の筒か。これを使えば見えるのか?」
「もちろんです」
聖戦で使われた、一眼人の宝物。名前から想像できるのは望遠鏡だが、それでは暗い視界を明るく出来ない。
とは言え疑っても益はなく、論より証拠と袋から出した。ずしりと重い、凝った装飾の筒を右目に。
「……お、おおぉぉぉ!」
独りでに声が上がった。見間違いかと、筒を目から離してもみた。
けれどもやはり、もう一度覗いた筒の中は昼間だ。丸い視界に、峡谷の姿がくっきりと見える。
いや本来の昼間でも、峡谷自体の影でここまでは明るくない。
「見えましたか? 遠見の筒は夜の闇も水の中も、どんなところも見通すんだそうです。気が済んだらボクにも見せてくださいね」
水中までもとは凄まじい。おそらく石や木の壁にでも阻まれない限り、目視を妨げる何ものも除外してしまうようだ。
「ああ、そうだ。ハンブルを撥ね返した大壁だったな、はしゃいで忘れていた」
「やれやれ、子どもですね」
改めて見ると、少し先にそれらしい建造物があった。おそらく、あと半時間ほどの距離。
上から下まで。峡谷を埋め尽くす巨大な壁は、想像を超えた。
「この壁も凄いな。木造と言え、いや木造だからこそ、これほどの物を拵えるとは。今日は驚かされてばかりだ」
「ええ? おかしいですね、ちょっと見せてください」
遠すぎるせいか、ワンゴの目にも壁が見えていないらしい。筒を渡すと、怪訝に首をひねりながら覗いた。
少年もまた、目から筒を外す。俺の顔を見て、また覗く。どうもその様子が、遠見の筒の性能に驚いているのとは違って見える。
「……エッジ。これはどういうことですか」
三度。筒を覗き直したワンゴが、ようやく喋った。なぜか、その声は震えている。
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