第20話:各々の価値観

 進むうち、足下の感触が変わった。ざらりと靴底を削る、ヤスリめいた岩の大地に。

 目に映る景色も、まばらだった茂みが数を減らした。代わりに突き立つのは、僅かに褐色を帯びた白い岩の柱。

 北国で見た、落葉した白樺の森を思い出す。あれも芙蓉子との道中であれば良かったが、やはり任務中の記憶だ。


「しかしロタが、俺の脱走に勘付いていたとはな」

「いえ? 気付いてなかったと思います。ボクがエッジを訪ねて、宿舎に居ないと驚いていましたから。あ、チキが激怒してたのはボクのせいじゃないです」

「なに? するとワンゴは、俺になんの用があった」


 水の都ワタンの住人は、俺の常識と同じく夜に眠る。ワンゴが特別に夜更かしを好むとしても、気軽に城へ遊びに来れる時間ではない。


「コルピオに言われました。あなたがなにをしているか、見てこいと。ロタさまの頼まれごとがあれば引き受けよ、とも。なんだか分かりませんでしたが、給金を五割増しでくれるそうです。きっとエッジに感謝しなきゃいけませんね」

「コルピオが――?」


 視線のまっすぐに通らない迷路のような地形を、ワンゴは迷う様子もなく進み続ける。着いていく俺のほうが、思考の迷路に入り込みつつあった。

 なんらかの方法で俺の行動を知り、監視役を寄越した。というのが、予想されるコルピオの意図だ。


 であればここで引き返したとして、皇帝の耳に筒抜けとなる――のか?

 いやそれならワンゴなど来させず、捕らえるか足止めするだろうとも思う。だがこれ以外に、合理的に辻褄の合う答えが見つからない。


「蠍人は砂の民に属すると聞いた」

「ですね。それがなにか?」


 もはや隠しだてても、用を成さない。ゆえに核心を問うたつもりなのに、ワンゴはあっけらかんと答えた。

 表情の大半を眼から読み取らねばならない一眼人と違い、狗人はかなり分かりやすい。きょとんと眼を大きくし、歩みを緩めて俺を見上げる。


「ああ。これから悪さをしに行くのに、言いつけられないかってことですね」

「悪さとは随分だな。間違ってはいないが」

「砂の民に見つからない道を、と言ったのはエッジです」


 犬らしくも華奢な白い顎が、「わわん」と笑う。


「なにが目的か知りませんが、殴り込もうって言うんじゃないでしょう? 仮にあなたの剣を使っても、蜥蜴人には敵わないと思いますけど」

「まあな、ちょいと見物に行くだけだ。あちらは見せたくないだろうが」

「えっ。いやらしい話ですか」

「阿呆。それならもっと、人の動く頃合いを目指すだろう。ただ眠っているのを見て、なにが面白い」


 話す間に、傾斜がぐんときつくなった。陸軍本部の階段より、多少は楽という程度。

 いよいよ登山かと思いきや、脇に穿たれた川の窪みも同じ角度で登っていた。


「森の民と砂の民は、いがみあってると言いたいんですね。コルピオが、ロタさまに味方するような真似をするはずがない」

「違うのか」

「さあ、どうでしょう。でもそれは昔のことじゃないですか。八人種がそれぞれどの方向から来たかなんて、百五十年も前の話です」


 そんなものなのか? そうも軽くなかろうと考えかけたが、ふと思う。

 太日本帝国の諸先輩方が、なにかと言えば薩磨さつま長洲ちょうしゅうだと拘るのには辟易したなと。


「たしかに。しかし若いワンゴはそうでも、年嵩としかさの者はどうだろう」

「そうまで言われると、ボクにも分かりません。だけどコルピオの下で、森とか砂とかを意識させられたことはありませんよ」

「そうか、悪かった。お前の上司を悪く言うつもりはない」


 岩と岩の間が狭くなる。前を行くワンゴから、「わふっ」と息の抜けた笑声が聞こえた。


「そんなこと気にしません。ボクにボクの意見があるように、エッジにもそれはある。水の都ワタンで育っていないあなたに、すぐに伝わらないこともある」

「その通りだ。さすが札管理所の受付を任されるだけあるな」


 長い尻尾が、ぴょんぴょんと楽しげに暴れる。だがこれは世辞でない。

 俺が十四の歳に、軍人がなにをするか本当の意味では知りもしなかった。だのにただただ、士官学校へ入ると息巻いていた。


「さあ、谷を越えますよ。そうしたら少し休憩しましょう。ここから登りになります」

「ここから登り、だと?」

「ええ。慣れないエッジには、つらいかも」


 来た道を振り返る。目の粗いブラシのごとき斜面から、真っ逆さまに転げ落ちそうだ。きっと分度器を当てれば、三十度ほどではあろうが。


「望むところだ」

「それは頼もしい」


 十間下に川を見下ろす峡谷は、なるほど案内された場所だけ極端に閉じていた。それでもロープを投げ渡し、宙吊りになる必要はあったけれども。


「見直しました。ハンブルがこれほど簡単に渡るなんて」

「昔、な。いくらもやったものだ」


 予告通り、ワンゴは渡った先で腰を下ろす。この道を行けば、山砦の村マトレまで迷うことはないと指さしながら。

 反物と甲乙付けがたい幅の、絶壁を抱き締めつつのこれを、道と呼んでいいのか。議論の余地は残る。


「落ちる心配のない道が他にあります。だから砂の民と出会うことはないですよ」

「要望通りだ、助かる」


 途中まではそうでも、最後に見張りが居るはずだ。皇帝の企みがあるなら、間違いなく。


「一本道なら、一人でも行ける。ワンゴは戻ってくれていい」

「え、戻りませんよ」

「いや、もういいんだ。頼むから帰ってくれ」


 誰が相手でも、状況の知れぬうちに殺めたくない。だが場合によって、それしかないこともある。

 ワンゴには見せたくなかった。


「無理です。ロタさまに頼まれたので」

「ロタがなんと?」

「エッジが居ないと分かって、聖殿はちょっとした騒ぎになりました。ボクもそのまま帰れと言われました。だけど城を出てすぐ、ロタさまが一人で追いかけてきました」


 俺の腰に結わえた遠見の筒を指し、「それを持って」とワンゴは言った。頑なな割りに、深刻さのしの字もなく。


「『エッジに伝えてください。私も腹を括りました』だそうですよ。それからボクにも、出来る限りでいいから助けてやれって」

「ロタ……」


 独断で動く以上、俺こそ腹を括っていた。ニクの二の舞いになりそうな場合は、俺という存在を消し去るのだと。

 けれども腹を括ったなどと言われては、それで良いのか判断に困る。あの全てを背負い込むような気性が、なにをしでかすやら。


「もう一つ。あなたに関係ない国のために、なぜそんな危険を冒すのか分からないとも言っていました。これはボクも同じく思います」

「おかしいか?」

「おかしいでしょう」


 マントと同じ生地のバッグから、ワンゴは肉塊を取り出す。俺の拳よりも大きな干し肉だ。

 小さなナイフも出して、慣れた手つきで半分に割る。その一方は、俺の手に置かれた。


「あなたはフユコを捜すんでしょう? この国に居なかったら、他の国も。きっと大陸じゅうを回って、それでも駄目なら隣の大陸へ行く。あなたをなにも知らないけど、そういうことをしでかしそう・・・・・・なのは分かります」

「余計なお節介と言われれば、返す言葉がない」

「ですよね。でも、迷惑とは言っていませんよ?」


 干し肉のお返しに、俺の持ち出したパンを半分。ワンゴはそれぞれ両手に握り、ゆらゆら尻尾を揺らして食べる。


「その芙蓉子にな。叱られるんだよ」

「ですよね、早く迎えに来いって」

「あはは、そうじゃない」


 ワンゴの言いざまではないが、太日本帝国の。それとも俺と芙蓉子の間にだけ、存在する空気かもしれない。

 似ても似つかぬ土地の犬の姿をした少年に、昔の話を聞いてもらいたくなった。

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