閑話
第14話:閑話 花言葉は清き心
芙蓉子は、物静かな女だった。
妻は夫の意見に従うのみ。と、母親の実践に倣ったのだろう。とは推測だが、事実として二人はそっくりだった。
造作でなく、立ち居振る舞いが。
祝言の後、大島の家に呼んでいただいたとき。大島閣下と対面する部屋への出入りが、音では聞き分けられなかった。
そんな芙蓉子との逢瀬は、婚姻までに片手の指で足りた。
たとえばある時。毎度週明けに大学へ提出していた研究資料を書き上げたのが、土曜の二十七時ころだった。
一張羅の背広に炭アイロンをかけ、午前十時五十分に約束の洋食店へ。芙蓉子がやって来るのは、ちょうど十一時。俺の中学時代の同輩が、自家用車で送ってくれる。
フォークはどちらに持つのだったか。迷う俺に、さっと差し出してくれるきみ。
俺ならひと口の量を、さらに三つに分けるきみ。
あの時俺は、とても可愛らしいと思っていた。結局それを、口に出すことはなかったが。
腹を膨らませた後は、たしか不忍池へ行った。これも同輩が、今度は俺も乗せて送ってくれた。
せっかくの休暇を、一日潰してくれるとはありがたい限りだ。待つ間の遊興費にと、五円を渡していても。
「寒くはないか」
「いえ、全然。極楽に居るようですから」
梅雨の明けたばかり。池の畔に吹く風は冷えていた。
この時だけでないが、きみは絶対に寒いとかつらいとかを言ってくれなかった。そのくせ俺が、気付かれぬようにそっと風上に立てば「風神さまが遠退きました」と。
にっこり笑うきみを、抱き締めたくてたまらなかった。
「きみは本当に蓮の花が好きなのだな。自分の名前に含まれているからだけか?」
常には凜としているのに、どうして。問うと恥ずかしそうに俯いた。
「蓮は好きです。泥の中から冷たい水を経て、暖かい陽の下に顔を出します。人もそうあるべきと思います」
寸前がどうであっても。問えば必ず、素に戻した顔を向けてくれる。きみの強さは、いったいどこから来るのだろう。
「それは大島閣下のお言葉かな」
「いいえ、父は花の名など知りません。兵隊の皆さまを動かすことにしか、労を割きたくないとか」
武人として、閣下の考え方は正しい。だが認めてしまえば、芙蓉子とのこの時間はなんだとなる。
「すると――いや、意地悪をしたいわけでないのだが。閣下は奥さまと、つまりきみのお母上と、どうして結ばれることになったのだろう」
「上官のどちらさまかに勧められたとか。さすがに断れずお見合いをして、ご縁がなかったと」
「結局はお断りになったのか、なんと一徹な」
上官の言葉は神託も同じ。従わぬには、それ相応の理屈と覚悟が必要だ。軍の鉄則を基に、驚きが言葉として出た。
だがすぐ、本当にそうか? と自問する。
「兒島さまは、勧められた縁談をそのまま受け入れられますか。正しい判断と思います」
「いや、すまない。見合いの相手を、きみと想定していた。だがそうでなければ、俺も断る。咄嗟に嘘を吐いてしまったようだ」
正直に白状した。すると芙蓉子は、先よりも深く俯いた。
なにか悪いことを言ったろうか。どう取り繕うか迷う俺を尻目に、きみは大きく息を吸った。
頬を膨らませ、なにやら唇を噛んで堪える気配。だのに「いいえ」と、きみは直ちに答えた。
「実は私も、嘘を申しました。いえ蓮は好きです。でも先ほどは、可愛い蛙が跳ねていました。葉から葉へうまく飛ぶので、見入っていました」
吸った息の続く限り、きみは一度に捲し立てた。そうして後は、萎んだ紙風船のごとく。いや俯くだけでなく、両手で顔を覆ってしまった。
攻め手の速さで芙蓉子に一歩譲ったが、受ける堅さでは俺も負けていなかった。
屋外であり、俺ときみはまだ未婚の身。度を外したきみの奥ゆかしさを、黙って見過ごした俺は褒められて良いと思う。
「兒島さま。私を妻に迎えたいと、お気持ちは変わりませんか」
小一時間ほど、四方山の会話を楽しんだ。俺は練兵のこと。芙蓉子はお父上とお母上のこと。
ひとしきり、互いに言葉が途切れた後。きみは不意に、俺の気持ちを問うた。
「変わるわけがない。日々、むしろ強まっている」
「それなら良うございます。私も兒島さまのお側に置いていただきたく思います」
「……それは」
はっと、息を呑んだ。大島閣下の咎めがなくなり、誘えば芙蓉子は快く会ってくれた。
しかし考えてみれば、俺のことをどう思っているか聞いたのは初めてだ。
言葉にならない俺の問いに、芙蓉子は深く深く頷いた。柔らかな、菩薩のような笑みを浮かべて。
「でもそれには、一つだけ。賜りたいものがあります」
「なんだろう。俺の持ち物くらい、なんでも渡してやれるが」
「いいえそれは、物ではありません」
きみを、美しいと思った。迎える前から身内びいきか、と笑われてもいい。
見てくれだけでなく、心の底から。俺の妻より美しい者などどこにも居ない。そう思った。
「兒島さま。あなたの生涯かけて、私になにを約束してくださいますか」
と。
今にして思えば、あれが唯一最大の。最初で最後の、きみ自身による意思表示だった。
芙蓉子は己の一生、何もかもを俺にくれると言ったのだ。だからその代わり、俺からも一つだけ寄越せと。
俺の全てとは言わない。どんなものがいいと注文もつけない。自分で定めた約束を、ただ叶えてくれ。そんなきみの大きな心根に、気付くのが遅すぎた。
今からでも、間に合うだろうか。きっと、きっと見つけ出すから。
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