第11話:見知らぬ景色

 日没の祈りがある、とロタは聖殿に下りていった。案内させるから待つように言われたが、侍祭だという男が直ちにやって来た。


「ハンブル――いや、エッジ。あなたの寝床へ案内しよう。食べ物、飲み物、衣服、敷物。要望があれば聞くように言われている」

「雨風と陽射しをしのげるだけで十分だ。きみも立場上そうもいかんのだろうが、さほどの気遣いは要らんよ」


 やはり二つ目は受けが悪いらしい。言葉のまま、あまり構わないでいいと遠慮をしたつもりだった。

 が一眼人の侍祭は、はっきり聞こえるように舌打ちをする。


「着いてこい」


 僅かながらも保持していた、態度を取り繕うこともやめたようだ。

 なぜそうなったか、見当がつかない。しかし問うたところで答えてもくれまい。案内された部屋の扉が荒々しく閉じられるのを、苦笑でごまかすくらいしか出来ることはなかった。


「干からびる心配はなくなったな」


 部屋の広さは七、八畳。壁ぎわの床に草を編んだむしろのような物があり、それがベッドということらしい。

 腰を下ろすと、すぐに寝転びたくなった。欲求に従うと、畳に似た匂いを懐かしいと感じる。


「一般官舎は四畳半だったかな」


 陸軍で下士官に至らぬ者たちは、狭い一室に四人が押し込まれた。直に士官学校へ入った俺は、その経験がないけれども。

 卒業後に過ごした官舎は、水場と隔たれた六畳が一つあった。将官官舎など、四つに増える。


 閣下と呼ばれる身で官舎を使うなど、独身か男やもめがほとんどだ。そんな奴に広大な城を占拠させてどうせよと言うのか。

 ――などと。美しい妻を蔑ろにした、俺の言えることでない。


 あの頃。列強諸国に睨まれつつ、海を隔てた西と北の大国と矛を交えた。太日本帝国という島国が、いつ沈没するかと冷や汗を流し続けた。

 芙蓉子が笑って暮らせる世を作るためには国を富ませ、強くせねばならなかった。


「……と、信じていたんだがな」


 妻のために。

 そう考えていたのは本当だ。だが結局。芙蓉子の命が尽きたその日にも、まだまだ先行きは遠かった。

 北豊島の我が家に寄り付くのは、月に一度あったかどうか。それさえやがて、ふた月に一度、よ月に一度と繰り延べた。


「芙蓉子。きみの見た兒島の天井も、これほど殺風景なものだったか」


 己に繋がる者の居ない土地。空と土の色、野に這う草さえ見慣れぬ場所。

 日の暮れた砂漠の風が、凍えるほどに寒くて震えた。


 明けて朝。部屋の扉がノックされた。正確には殴りつけたのだろうが、それは良い。ともかく音の主は、ニクだった。


「エッジ、飯を食え。それから出かけるぞ」

「朝飯もきちんとあるとはありがたいが、出かけるとはどこに?」


 昨夜うとうとしかけたころ、夕食が差し入れられた。

 焚き火へ放り込んだように黒焦げのパン。に似たなにかと、おそらく羊肉の塩からいスープだ。

 パンは焦げを剥がせばうまかったし、スープも最初のひと口を吐き出しただけで残りは食べきった。自分で考えている以上に、塩分を失っていたらしい。


「ロタさまの言いつけだ。お前が断っても連れていくしかない、観念しろ」

「それは怖い」


 表情が読めずとも、気安げな言い方だった。それに、声を上げて笑いもした。悪い話ではあるまいと判断した俺も笑って返す。


 聖殿へ連れて下りられ、そこに朝食を発見した。二十人が一度に掛けられるテーブルに、汚れた皿が残っている。

 だが俺とニクの他には誰の姿もない。やはり「ハンブルと同じ食卓は勘弁」のようだ。


「今日は芋だ」

「芋か、腹に溜まっていい。ん、ニクも食うのか」

「なんだ、俺には食わせない気か」

「いや。お前は気にしないのかと思っただけだ」


 なんの話かとニクは首を傾げる。しかし改めて口に出すのも野暮というものだ、「なんでも」としらを切る。

 すると彼も「変な奴だ」と言うだけで、それ以上は問わない。


「そうだ、ゆうべ部屋まで案内した侍祭が居ただろ。あいつ、あれでも四十を超えてるんだ。若作りだから分かりにくいかもしれないけど」

「ああ――それは気付かなかった。気を付ける」


 今の自分が二十歳ほどの若者と、どうも意識が薄い。ろくに鏡もなく、どんな顔か忘れそうだ。


「ロタさまの厚意で残ってるだけの奴だ、忘れてもいい」


 また笑いながら、ニクは鍋の中身を皿に入れてくれる。芋と聞いたはずだが、どろっとしたクリーム状の物だ。

 だが口に含むと、たしかに芋の味がした。ジャガイモとサツマイモの中間のような。土臭い、懐かしい味わいだった。


「食い終わったら行くぞ」

「なにをしに行くかくらい、聞いても良いように思うが」

「行けば分かる。それよりエッジ、絶対に俺から離れるなよ」

「ん? 分かった、離れない」


 食卓は片付けなくていいと言われた。軍人としては、散らかったままの風景が落ち着かない。けれども後始末を仕事にしている者が居ると聞いて、思い留まる。


 もったいぶるニクに従い、城門を出た。行き先は町の中のどこかのようだ。ロタに連れられた時と違い、街の人々はこちらを見ない。

 太陽の位置からすると、午前八時というところか。誰もが皆、己の目的にまっすぐ目を向けて歩く。


 多くは泉へ水を汲みに行くのだろう。農作業という風体の者も居る。元気に走り回る子どもの相手をしつつ、大きな鍋のもりをする女もあった。

 ニクは小走りで、行き交う人と人の間をすり抜ける。それほどの混雑でない、まあまあ人気の商店街という程度だ。

 速度も全く苦にならなかった。やれと言われれば、駆け足で五里でも十里でも行ける。若いこの身体なら、その倍も。


「おいニク、待ってくれ」


 けれど、離れてしまった。ニクの真後ろを、二歩の距離であったのに。

 一人、誰かが割って入った。それから五歩も駆けぬ間に、七、八人が隙間を広げていく。

 まずい。そう思った時には、もう殴られていた。後頭部を、顔も見えない誰かの拳で。

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