第8話:冷たい水
「そう言えば、あれも冬になるころだった」
なにから話せばいいか。考えると当人でなく、芙蓉子の父親の顔がまず浮かんだ。
「芙蓉子と結婚させてほしい。と、頼みに行った。雪はまだだったが、もう地面は固く引き締まっていた」
「冬って? それに雪とはなにかしら」
水の流れへ足を浸し、ロタは岩に腰かけた。俺も対面で同じようにする。この冷たさは、あの時と正反対に心地いい。
あれは俺が死んだのと同じ、十月末のことだった。
「この土地にはないのかな。太日本帝国には、四季があった。暖かに花が綻び、かんかんとした日射しに草木が萌え、涼風に実り、厳寒に種子が力を蓄える。雪とは、天から降る小さな氷の粒だ」
「氷が降るなんて、悪魔の仕業みたいで嫌だわ。雨季になれば寒いと思うことはあるけど、ちょっと想像がつかないわね」
ロタははきはきと、思ったことを素直に言う。こんな風であれば、芙蓉子ももう少し長生きを――いや、察しなかった俺のせいだ。
詮ない思考を繰り返す己に、苦笑が漏れる。
「芙蓉子のお父上は、上官に当たる
「戦争、ね。うん、それから?」
「学長宿舎は、大学の敷地内にある。だから芙蓉子も、よく見かけた」
うんうん。と頷いた次には、「大学ってなに?」と問う。こう臆面もなく聞かれれば、話の腰が折れたとも思わない。
先とは違った笑いが、どこからとなく込み上げる。
「大学。学校とは、学問をする場所だ。軍の幹部となるために必要な知識を得る者が集まる」
「へえ、いいわね。サンドラのことを知る学校を作ろうかしら」
「やってみるといい。分かることなら手伝える」
「ほんと? ありがとう!」
脱線して大げさに喜んでも、「それで奥さんは?」とすぐに修正してくる。思った以上に機知に富む女だ。同僚などであれば、楽しく任務の遂行が果たせるやも。
「十七歳の芙蓉子は、毎日違う着物を――俺の国独特の衣服を身に着けた。見目美しいのは認めるが、そのような贅沢をと俺は気に入らなかった。大学に通う者のおよそ全員が好いた相手にだ」
「それはなに。美人を娶ったと惚気ているの?」
「まあ、そうだ。芙蓉子はこの上なく綺麗だった」
じっと、ロタの眼が俺を見る。やはり感情は分からないが、少し冷えた空気ではあっただろう。
怒らせるようなことを言っただろうか。己の言葉を反芻する俺に、彼女は「ぷっ」と噴き出した。
「いやねエッジ。あなた、冗談が通じないと言われるでしょう」
「そんなことは。いや、そうかもだ」
「うん。でも好きな人を堂々と褒められるのは、とてもいいことだわ」
どうもからかう試みがあったようだ。しかし気付けず、悪いことをした。
それでも満足げに、ロタは目を閉じて頷く。これは微笑んでいると俺にも分かる。
「ある時、聞いた。あなたは学長の娘として、どう在りたいかと。焦がれる男どもから頼まれてだ」
「エッジだけは中立と思われたのね」
「そうだ。芙蓉子には、好く相手が居なかった。だがそう聞けば、望みありと考える阿呆はいくらでも現れる。嘘でも決めた相手が居ると言ってはどうか、と告げた」
大学の音楽室で、芙蓉子はピアノを弾いていた。軍楽の楽器置き場と化した部屋で、音楽に親しむなどと経験のない俺が、妻の演奏にはしばし心を奪われた。
「そうね。真実を言って誰かを傷付けるよりも、優しい嘘というものだわ」
「そう言ってもらえると、俺も救われる。しかし芙蓉子は、そんな嘘を言えないと答えた」
首肯してくれるロタ。否定に首を振る芙蓉子。今と昔とで、目に見える景色が違う。
「なぜ?」
「芙蓉子はこう言った。『私の父は、じきに国を率いる立場となります。その父に断りなく、好く相手は決められません。毎日違う衣を着るのも、父の言いつけです』」
大島閣下に断りなくして、嘘の一つも吐くことは出来ない。芙蓉子がその時笑ったのはお父上への気持ちなのか、それとも俺への失笑なのか。これはいまだに分からない。
「奥さんは、王族かなにか?」
「そうではないが、俺の国では家長に従うのが当然だった。とは言え、芙蓉子ほど頑ななのも珍しい」
さすが閣下だ、教育が行き届いてらっしゃる。
たしかにそう思ったが、同時に反感も持った。ここまで徹底しては、まるで奴隷でないかと。
「で、口説いた」
「はい?」
「相手が居ないと言うなら、俺を選んではどうかと言った」
「ええっと。ちょっと繫がりが見えないのだけど」
まつ毛を撫でるのは、考えるときの癖だろうか。ロタは首を傾げ、当然の疑問を口にする。
「だろうな、俺にも分からん。今どうしても理屈をくっつけるなら、きっと解き放ちたかったのだ」
「鳥かごから?」
「たぶんそうだ」
「なんだ。結局あなたも、最初からやられてしまっていたのね」
そうかもしれん、と笑うしかない。実際、俺を偵察に出した連中からも袋叩きに遭った。いや馬鹿者ばかりで、最後には酒盛りになったが。
「しかし難敵は、やはりお父上だ。芙蓉子自身、『全ては父の許可を得てからです』と言うくらいで」
「自分の気持ちがどうでもいいなんて、氷が降ることより分からないわね」
知らぬ者からすれば、そう思えるのは理解できた。咄嗟に擁護の言葉もなく、苦笑でごまかす。
「それでまあ、その通り俺は大島閣下に許可を求めた。学長宿舎の玄関で、土下座をして」
「それが寒い時期のことなのね。許可はもらえたの?」
「いや、閣下はこう仰った。『大学で既に大尉となった手腕は認めるが、兒島などという馬の骨にやれる物はない』と。その割りに、桶一杯の水を頂戴したが」
その日の課程が全て終わり、訪ねたのは午後六時ころだった。夜通しでも説得させていただこうと、土曜日に。
だというのに、いきなりの洗礼だった。ロタは口元を、両手で覆う。
「それは寒いわね? 身体を壊してしまうわ。でもエッジなら、すぐ次の日にでもまた申し込んだのね、そうでしょう」
「いいや」
俺は否定の方向に首を振る。あの日の全身を痺れさすような寒気を思い出しつつ。
地面に突いた両手と折った脚とが、土と一体になった心地がした。寒いのは当然のこと、制御出来ない震えと痛みに耐えたあの夜を。
「そのまま居残った。閉じられる扉に、許していただけるまで動かないと叫んで」
「――どうなったの」
音を立てて、ロタは唾を飲み込んだ。きっと遠目に俺を見ていた同輩たちと同じに。
「どうもこうも。次に扉が開くまで、そこへ居た。それは翌朝のことで、出てきたのは芙蓉子だった」
「許してもらえたのね?」
「さあな。大島閣下からは、いまだに許すと言われていない。祝言の席でも、おめでとうとは言われなかった」
ただでさえ大きな眼を見開き、期待に満ちた声。答えられなくて悪いが、閣下の対応はそういうものだった。
しかしロタはがっかりする様子もなく、「いいじゃない」と笑う。
「それからずっと、逃げ隠れしたわけじゃないんでしょう? それでダメと言わないなら、いいってことよ」
「ああ、そう思う」
「それより奥さんよ。出てきてくれたとき、なにか言われなかったの?」
あれは何時ころだったのか。陽はすっかり昇っていて、早朝という時分は過ぎていたが。
「なにも言わなかった。芙蓉子は真っ白な顔をして、新しい着物を着ていて、手には毛布があった。汚れるのも構わず俺を抱き締め、毛布で包んでくれた」
「……いいお話ね」
「そう思うか? きみには理解しがたいかと思ったが」
「幸福に終わるなら。過程がどうでも、いいお話なのよ」
その先結婚したと知っているから、そう言ってくれたのかもしれない。ここまでの話を幸福と考えられないのは、きっと俺のほうだ。
「ねえ、他には?」
「他にか。そうだな――」
自然に流れる水を飲んだ謝礼だったはずだが、当然のごとく追加が要求された。前のめりに顔を近付けてくるので、仰け反って避けねばならなかった。
一巻の終わり。続いて二巻目、と話すのはもちろん構わない。けれど、そうはならなかった。
「ロタさま! ロタさま、どこにお出でですか!」
慌ただしく彼女を探すニクの声が、何度も頭上を過ぎ去った。
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