第7話:砂漠の潤い

「おやロタさま。一眼の村モーノにご帰省だったのでは?」


 空中を魚が泳いでいる。

 いや違う。扉から出てきた者の頭が、魚と同じなのだ。俺の三倍は分厚い唇に、ぎょろっと金色に光る両目。首の辺りにはエラまでも。

 獣の頭を持つ者ばかりの景色には、どうやら慣れた。けれども絵の具で塗ったような青色の、ぬめぬめと鱗の光る様に唾を飲み込む。


「その予定だったわ。でも途中で、荒くれに襲われたの。きっちり鎧を着た、三眼人の山賊よ」

「クッ。クッ。ああ、それで。なるほどなるほど」


 魚であるなら、なんの種類だろう。鰯か鯖のように見えるが、図体は横に広い。纏った布の下になにも着けていないらしく、ぶよぶよとたるんだ腹が白く目立つ。

 腰を紐で縛っているので、浴衣姿の相撲取りにも思える。背の低い上に、このだらしない身体では、とても幕内に入れまいが。


「なに、聞いていたの?」

「いやいや。あたしはただ、宝物の祭壇へ祈りを捧げていただけで。そうしたらたまたま、ですよ。まあどの道、仰っていたのは誰も考えることだ。問題にもなりません」


 ギョドと呼ばれた相撲取りの後ろに背の高い、墨で塗ったような肌の男も居た。こちらも見慣れないが、鍛えた鋼のような上半身を晒している。特にこれと興味なさげに、無言でギョドの頭頂を見下ろす。


「はいはい、扉のすぐ向こうで祈っていたのも偶然よね。ギョド、なにか用があるんでしょう? 早くお行きなさい」

「クッ。クッ。ええ、ええ、そうしましょう――ああ、そうだロタさま」


 しゃっくりのような、喉をひきつけた独特の声は、どうも笑っているらしい。目的の言葉を避けて話す厭らしい喋り方と合わせ、好ましく思えない。

 ロタに言われるまま一旦は出口に向かう素振りをし、すぐに振り返った。そのわざとらしさもだ。


「どうであれ、ハンブルを頼るとは汚らわしい。言っていただければ、いつでもお役に立ちましょう」

「考えておくわ。どうせ遠見の筒を寄越せと言うんでしょうけど」


 話す二人の視線が同時に、一眼人の扉へ向く。が、すぐにギョドは身を翻す。また不気味な笑声と共に。


「それはもちろん。クッ。クッ」


 魚の顔を持つ二人は、正門へ向かう扉を出て行った。閉じきる前に「やれやれ」と、疲れた声を発したのはニク。


「今のは?」

魚人マリルの司祭だ。損得にうるさくてな、聖戦の時にもこちら側へついたのはたまたまだったそうだ」

「それはあの男がでなく、種としての話か」

「そうなる」


 唾を吐きたかったのだろう。ニクは口元をもごもごと動かした。さすがにこの、教会めいた場所では控えたけれども。


「町の西に川がある。北へ下ると、海へ辿り着く。その沖に見える岩礁の島が、奴らの棲み処だ。だから水の都ワタンに居るのは、基本的に今の二人だけでな。他の魚人を見たら、気を付けたほうがいい。家は綺麗でも、住人は腐ってる」


 唾の代わりに、毒が吐かれた。その中身と印象が一致して、無理もないと苦笑した。


「気を付けろとは、遠見の筒とやらか。察するに一眼人の宝物だろうが、窃盗癖でもあるのかな」

「否定はしないが、他にもだ。奴らは耳と鼻が利く」

「そういう手合いか」


 斥候、素っ破の類だ。頭と手先が器用でなければ務まらない。たしかに戦となれば、そういう輩が敵と味方では雲泥の差になる。

 皇帝や三眼人と言い、魚人と言い。油断のならない相手が多い。そんな中で統治者の側に居るのは、途轍もない労苦を背負うことだろう。

 同情の目を向けたが、ロタはそこに居なかった。


「ロタさま、どちらへ?」

「気が替わったの。エッジの寝床を、侍祭の子たちに頼んでおいて」


 ギョドが開けたままの扉を、ロタはくぐる。ニクの問いかけにも、足を止めない。


「護衛はどうするんです」

「町からは出ないわ。エッジも居るし」


 ご指名は俺のようだ。そう言うのにだけ彼女は振り返り、またすぐに正門へと向かう。


「はあ、困ったもんだ。悪いがエッジ、ロタさまを頼む」

「構わんが、そこまで信用していいのか。まだ出会っていくらも経たんのに」

「企むような奴は、自分からそんなことを言わんさ。それにまあ、俺でなくとも誰かが見てる」


 分かるような、分からないような。ともかく行けと背中を押され、ロタを追いかけた。


「ロタさまは気紛れだからな。見失うなよ」


 と、当人にも聞こえたはずの忠告を背に。


「ひどい言われようね。私が我がまま放題と聞こえるじゃない」

「要人の守り手は、誰でも同じように思う。気にするな」

「経験がありそうね」

「近衛歩兵の隊長をしていた。もう少し若かったが」


 太陽が随分と地面に近付いた。夕刻と思うが、まだまだ明るい。どこを向いても真っ白な道と、建物のおかげだろう。

 ほっそりとした体躯の割りに、ロタはさっさっと素早く歩く。どこまで行く気か、体力が持つのか心配だ。


「若い時って、あなたいくつ?」

「五十二だ。この顔は二十歳くらいに見えるが、おかげで身が軽い」

「なんだ、私が歳上と思ったのに」

「聞いてもいいのか」

「なにかいけないの? 二十五よ」


 一眼人の表情も読めないが、年齢はもっと分からない。街に佇むどれかは年寄りのはずだが、全く区別がつかなかった。


「ニクは?」

「彼はもうすぐ二十歳ね。私の前の司祭長の子で、おしめを替えてあげてたわ」


 ロタは迷いなく、通りと路地を縫うように進む。彼女が歩くと、住人たちは誰もが手と足を止めた。進む邪魔になれば道を空け、親しげに声をかけてくる。


「ロタさま、今日も水と風は滞りありませんな」

「ロタさま。お出かけなら、飲み水を差し上げましょうか」

「ロタさま。おととい生まれた山羊に、サンドラの祝福をくださいませ」


 ロタさま。ロタさま。三眼人の居ないせいもあるだろうが、司祭長は相当の人気者らしい。

 鼠、鹿。あれは、狐か? 種を問わず、半獣半人の人々が呼びかけると、彼女は必ず答えた。


「ロタさま。雨乞いの花が咲きました、お持ちください」

「あら、ありがとう。サンドラに捧げさせてもらうわ」


 一眼人の女が、白い花を差し出した。縁が少しだけ紫に色付く、蓮によく似た花を。

 受け取った三本から一本を、ロタは俺に突き出す。布から手を出せば、天火オーブンの中のごとし。それでも花は瑞々しく、たおやかに揺れる。


「いい匂いよ」

「ああ、たしかに。だがこれほどの日射しで、よくも花など育つものだな」

「川のこちら側は、元々湿地なの。だから水が豊富だし、乾いていても涼しい風が南から吹くわ」

「南から?」

「ええ。北に行くほど暑いものでしょ?」


 南半球ということか。俺の認識とは、寒暖の方角が逆さまのようだ。

 ロタの指した北には、なだらかな丘が見える。あれもまたこの町を熱波から守っていると彼女は言った。


「いい場所に街を拵えたものだ」

「そうよ。私たちの先祖は砂漠を旅して、ようやくこのオアシスを見つけたの」


 しばらく歩き、すっかり町を横断したようだ。ロタが足を止めた先に、もう建物はない。

 代わりに深い溝があった。幅は七、八間もあるか、底にか細い水の流れがある。どうやら川とは、これのことだ。


「なんとも頼りないな」

「今年は涸れ方がひどいわね。でもあちこちに泉があるし、もうすぐ雨季だし。問題はないわ」


 川の対岸には僅かながら、緑が見える。だがいくらも離れぬ先から、ずっと砂ばかりだ。

 多少の岩もあるけれど、それも風化は時間の問題だ。見渡す限り、真白の平原と真白い山。美しくも、渇きと熱しか存在しない地獄がどこまでも広がる。


「どうして俺をここに?」

「どうしてって、気分を替えたかったから。言わなかった?」

「――聞いたかもしれん」


 そう言いながら、ロタは跳ねた。岩と砂の窪みを、底へ底へ。ニクに頼まれたことでもあるし、俺も行かざるを得ない。

 追い付くと、彼女は儚い流れに両手を浸す。漬物石の二つ三つで堰き止められそうだが、清い水だ。


「飲んでみる? きっと気に入るわ」

「そうだな、歩いて喉が渇いた」

「どうぞ、いくらでも。お代はそうね、あなたの奥さんの話でいいわ」


 なるほど気紛れで、好奇心も強いらしい。倣って手を濡らすのを、少しためらった。しかしすぐに思い直す。記憶を語るくらい、どうともないと。

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