第2話:ここはいずこ

 やがて芙蓉子の姿は消え、息苦しさと痛みだけが残った。

 常世だの極楽だのと死後の世界に興味はあったが、これはどうやら地獄行きらしい。戦に明け暮れた軍人の末路など、やはりたかが知れている。


「芙蓉子、俺の身を案じてくれるのは嬉しいが。御守りと御札と両方を持てとは、いかがなものだろうな」

「大神さまと仏さま。どちらも尊いお方ですから、そんな狭量を仰らないでしょう。むしろまだまだ、十でも百でも掻き集めたいくらいです。それで英治さんが守られるのなら」


 あの御守りと御札は、芙蓉子の亡骸と共に焚き上げた。それからも二年近くを怪我なく来られたのは、神仏よりあらたかな加護があったに違いない。


「くぅっ……!」


 背中の痛みに顔をしかめ、目を瞑った。死してなお、致命傷とはこれほどこたえるものか。ならば次は、どうされるのが最善だろう。

 いや、次などないわ。俺も馬鹿なことを考えるものだ。


 ――と思ったのだが、再び目を開いた俺は己の正気を疑った。

 先まで。ほんの数秒前まで、光のない海に揺蕩うような心地だった。しかし今は、日射しを浴びている。どこだか見たことのない野道に、俺は立っている。


「まだ倒れんか、死ねえ!」

「また刺客かっ」


 背中の側で、誰かが気を吐いた。刺さっていた刃が抜かれ、振りかぶる気配がする。

 咄嗟に、腰のサーベルへ手を伸ばす。これほど近しく二度目となれば、木偶のごとき俺でも身体が動いた。

 振り返りざま、小刀を掲げた不用心な男を抜き打ちにする。だが、手応えが重い。


「鎧を持参とは周到な!」

「歯向かうとは、生意気な小僧だ」


 金属の板を貼り合わせたような、見慣れぬ鎧。我が国で見かける防具でないが、値踏みは後だ。

 問題は、打ち付ければこちらの刃が折れてしまうこと。それに背中の傷が、やはり絶命に至るものということ。


「く――目が」

「目がかすむか? 若いのに難儀だな」


 ぼやけた視界の中、からかう声がする。五十二の男を捕まえて若いとは、どういう皮肉だか。

 けれど余裕ぶって手加減をしてくれるなら、願ってもない。


「心頭滅却すれば火もまた涼しと言うだろう」

「あん? どういう意味だ」


 冷静に、ひと呼吸。やっと像を結んだ男の鎧は首と肘、それに腰から下を守っていない。


「貴様の功は一簣いっきくということだ!」


 突き上げる腕力はなかった。ゆえに倒れ込みつつ、太ももの内側を切りつける。

 倒れまいと右足をも出したが、膝が地に着いた。もう動けない。痛みを無視しても、身体に力が入らない。

 それでも。閉じようとするまぶたを宥めすかし、視線だけは外さなかった。反撃を避けようもないけれど、誇りに関わる。


「うおっ、ぐあぁぁ!」


 相手の男は絶叫を上げて倒れた。あまつさえ死を早めるだけというに、地面を転げ回る。

 男として情けなくはあるが、悲痛な叫びを長く聞くのも心地良くない。男の首がちょうど近くへ来た時、サーベルを突き下ろした。


「武士の情け、だ」


 ぴたり、男の声はやんだ。

 だがそれで、俺は二つの事実に驚いた。一つはこの場で争っているのが、俺たちだけでなかったこと。

 動きを止めても剣戟の音が響き、人の荒い呼吸が幾つも聞こえた。


「これは……」


 そしてもう一つ。死した男の額に、尋常ではないはずの物がある。

 目だ。

 黄金色の髪をした男の顔立ちは、バテレンの人々を思い出させる。けれども彼らとて、眼は両側に一つずつ。額と合わせ、三つの眼など聞いたこともない。


「ここは、どこなんだ」


 噂に聞く物の怪かとも妄想が働いた。しかしそれにしては、誰も活きがいい。幽霊だのという類は、柳の下か物陰にひっそりと居るものでないのか。

 それがここでは、また二人の鎧姿が俺を目がけて駆け寄ってくる。小剣を振りかざす奴らの額にも、たしかに眼が見開いていた。


「ちぃっ、膝が言うことを聞かん!」


 じきに死ぬとしても、抗せる限りは抗したかった。相手が人外などは、思料の材にもならない。だのに己が身体への苦情さえ、絶え絶えに震える。

 二度も凶刃に屈するとは、思っていた以上に使えん男だ。


 四肢への命令は途絶えさせず、せめて視線で射殺すことを試みる。無論、そのような異能の持ち合わせはない。

 だがさらに、その視界さえ誰かが横入りに奪った。俺の三歩先を、全身に褐色の布を纏った何者かの背が塞ぐ。


「大丈夫ですか、息はありますね」


 もう一人。俺の後ろから、容態を尋ねたのは女の声だった。

 振り向かねば何者か知れないが、重心を崩せば倒れてしまう。それを良いことに、女の手が背の傷に触れた。


「なにを――」

「怯えないで」


 強い口調のそのひと言だけで、説明をする気はないらしい。

 ただ、痛みが増すことはなかった。傷とその周りが、火傷をする寸前の湯へ浸かったように熱を持つ。

 絶妙に心地良く、少なくとも危害を加えられてはいないと分かった。


「砂漠の鷹よ、傷付きし者に癒しを与え給え」


 朗々と響く声は、祈りなのだろう。この女がどんな神仏を見ているか知らずとも、それは伝わる。


「癒しとは、気休めでもありがたい」


 息が楽になった気がして、礼を言った。すると、声が聞こえる。潰れた蛙のようだった俺の声が、まともにだ。


「気休めではないわ。もう戦えるはず、敵を討ちなさい」


 気の強い女だ。発した言葉と声と、両方が示している。だけでなく、ぐっと力強く背中を押されもした。


「それが出来れば苦労は……」

「出来ないの?」


 言いかけて気付いた。押された背に痛みがない。まっすぐ立つのに、普段より身軽な気がした。


「いや、出来る」


 鎧姿は、残り五人。褐色の布を纏うのは、女を入れても四人。不可思議な出来事を問う猶予など、今はない。

 ただしひと言、礼を告げるくらいの間はあるだろう。いまだ声だけを知る女に、さっと首を向けた。


「どうかした?」


 驚いた。この歳になって、こうも立て続けに声を失うことがあろうとは思わなかった。


「あ、いや。助かったと」

「余裕ね。でもそんなことでは、また怪我をするわ」

「気を付けよう」


 女の頭には薄い茶の髪が生え、顔の輪郭もすっと細面という雰囲気だ。けれどやはり、目が二つでない。

 彼女の顔のほとんどを、巨大な一つの眼が占めた。真っ黒な、底知れぬ夜の泉のような濡れた眼が。

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