我が生涯を愛する妻に捧げよう

須能 雪羽

第一幕:冬来りなば

第1話:芙蓉子との約束

兒島こじまさま。あなたの生涯かけて、私になにを約束してくださいますか」


 そう芙蓉子ふゆこは問うた。二十六年前。俺と結婚すると決めてくれた時の、十八歳の姿で。

 懐かしい。

 白地に紫の差し色が入った結城紬と、浅葱色の草履。当人の名の通り、蓮の花になったようだとお気に入りだった。

 だからあの時、こう答えたはずだ。


「俺の人生にたった一輪の花があれば、他はなにも要らない。全身全霊、その花を可憐に咲かせ続けることが、俺の生きる意味となるだろう」


 しかしあり得ない。それから彼女は、俺の妻になってくれた。ずっと変わらず美しかったが、相応に歳を重ねた。俺を呼ぶのも、恥ずかしながら「英治えいじさん」と。

 だからこれは、現し世の夢想に過ぎない。


 さて。ならば俺は、なにをしているところだったか。

 たしか午後八時ころに陸軍官舎を出て、久方ぶりの我が家へ戻るところだ。若い者が車を出して、自宅まで送ってくれた。丁寧に頭を下げた彼が、走り去るのも見送ったように思う。


「では兒島閣下、お気を付けて・・・・・・


 こちらは家の前。あちらはまた陸軍本部まで車を走らせる。若さゆえの不器用な気遣いを思い出して、笑ってしまった。

 さておき。東亰とうきょう府と言え北の果てに、人車の姿はまばら。我が家から通りを照らす灯りには、俺のほか誰も映らない。


 半年ぶりの我が家は、夜の闇に溶けていた。芙蓉子が口を聞いてくれなくなって、はや二年ほどが経つ。乳母は居るはずだが、もう休んでいるのだろう。

 鍵を取り出すのに、どこへ収めたか少し迷った。この体たらくではと、己を笑うしかない。

 先の笑いと違い、ひどく胸に苦しいものだが。


 革の長財布のポケットに、小さな鍵は張り付いていた。

 芙蓉子が小遣いをはたいて贈ってくれた品物だ。五年ほど前だったか、大切に使ったつもりだが綻びが目立ち始めた。直しの職人を探せば、綺麗になるだろうか。

 彼女がなにかをくれるなど、もう望めない。既にある物に縋るしか、選択肢はないのだ。


「つくづく、甲斐性のない男だ」


 もう、笑えなかった。怒りと侘しさの入り交じった、はらわたを油で煮るような感情。

 独りごちた言葉は、痰を吐いたようなものだ。誰が聞いているとも想定してはいない。


「陸軍中将ともあろう方が、甲斐性なしなどとあり得ますまい」


 門を開け、一歩踏み込んだ。その目の前を、何者かが塞ぐ。

 黒づくめの、声からすると若い男。国会議場辺りで聞いた気もするが、しかとは思い出せない。


「何者か」

「我らに言わせれば、閣下は甲斐性があり過ぎたのです。もうお若くもない御身、大事にされるべきでございました」


 男の言葉を裏付けるように、背中へ熱い感触があった。

 刃物だ。さほど長くないが、肺まで届いている。分厚い軍服の上着と、外套を通してなお。

 痛みよりも焼きゴテを押し付けられたような、喉を噎せさせる息苦しさが厳しい。


「これしきに気付けんとは。諫言、痛み入る」


 歳だけのせいではあるまい。なにかにつけ、注意が散漫だった。理由はもちろん、芙蓉子だ。

 またこのような有り様を彼女に知られれば、機嫌を悪くさせる。その心配だけはないのが、良かったと言えば良かったのかもしれない。


「ほう、お笑いになられるとは豪気な。しかしいつまでも苦しめるのは、我らも寝覚めが悪うございます」


 鼻と口を覆った布の下で、男はきっと笑った。

 すうっと手が差し上げられ、それが合図だったらしい。背に刺さった刃物が、ぎゅっと捻られた。

 人体構造の知識はさほどだが、我が身体となれば分かる。傷付いてならないどこかが破れ、大量の出血を起こした。


「ああ、そうだ。最期になにかお言葉はございますか」


 急速に兒島の家が遠退いていく。あとは玄関の扉まで辿り着くだけだったのに、飛び石が千里の道に変貌した。

 なおも去っていく景色の中、男が尋ねた。もう立っているだけの力もなかったが、背後の男に支えられた俺の耳元で。


「俺の望みは……」

「はい、なんでしょう」


 この期に及んで、国を左右する遺言でもせよと言うらしい。男は神妙を装って耳を傾けた。

 が、そんなことはどうでも良かった。一生をかけ、守るべきものが俺にはある。


「天に御座す大神よ。願わくばもう一度、芙蓉子とまみえさせ給う」


 夜が更けていく。もはや視界に映るものなく、黒だけが――。

 いや、芙蓉子だ。すぐそこに、俺の妻が立っている。震える手を伸ばし、触れようとした。

 だが届かない。俺の手はかように短かったかと、疑念に愕然とする。


「今度は守るから。約束を、きみを守るから。たった一人、屋敷で死なすなど絶対にしないから」


 彼女は笑わない。ただ眠っているだけのようだと、死に顔を見て思った。それと今とで違うのは、目を開けているか否か。

 呆れているか、憤っているか。いずれにせよ仕方がない、俺はそれだけの仕打ちをしてしまった。

 だから、叫ぶ。罪滅ぼしなどと偉ぶった、傲慢なことは言わない。これは俺の、単なる身勝手だ。


「芙蓉子。俺はきみだけを、永遠に愛している!」


 巻き上げを忘れがちな腕時計を信じるなら。太正十一年十月十八日、午後九時〇八分。俺はこの世を去り、芙蓉子の居るであろう世界へ旅立つこととなった。

 享年、五十二歳。あまりに要領の悪い人生であった。

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