第9話 ずっと同じ夜を生きているのに

十二月になると、ホテルの部屋から見えるビーチはまるで死に絶えてしまったかのように静かになった。しかし年末の『ピシナム』は手が回らないほど慌ただしい。繁忙期に入っていた。


クリスマスや年末の夜をラブホテルですごす男女は、思っていたよりずっと多かった。この時期になると、海からホテルではなく、近くの繁華街からホテルへというお客様が増える。


 休憩を目的とするお客様が多い『ピシナム』は、通常のシティホテルなどよりもシーツやカバーの消費が激しい。


 九月から少しずつ蓄えていた予備のベッドシーツは、クリスマスを終えた時点で底をつきかけている。シーツを回収するクリーニング業者もてんてこまいで、いつもは一日一回の回収を、朝夕の二回来てもらっているのが現状だ。


 清掃シフトも通常三人体制のところを五人にしている。ホテルの通路をお客様に見つからないように走り回るのは至難の業だ。


『ホテルの仕事って、けっこう大変なんですね』

『この時期は特にね』

『それはそれは……お疲れ様です』

『おかしな人も多いんだ。この前は浴槽に大便が浮かんでて戦慄した』

『え、ほんとですか?』

『排水口に入ったら臭うから、揚げ物料理するときに使うすくい網で残らずすくうんだけど。もう戦場だよ』

『なんだか世紀末ですね(笑)』


 そしてRは、あの長く重たい出来事からまた『ピシナム』を訪れるようになっていた。


 少しずつであるが、サンテンイチイチの話もするようになっていた。


 Rは二年前の話をした日には、よくシーツを使って言葉にはならない部分を伝えた。最近の彼女はチェックアウトする前にベッドの白いシーツを粘土のようにこねくり回した状態で部屋を出る。


 僕はそれを見て、今日はだいぶ気持ちが荒れているようだとか、検討をつけた。しかし僕らの関係とは、成長したり深くなったりするものではなく、ふと心付いてしまうことがあった。


『どうしたの』


 三十分ほど返事がないときがあり、奇妙な不安に駆られて彼女に尋ねたことがあった。

 Rは、僕が便箋を送るといつも山彦のようにすぐ返事を書いてくれるから、それがなおさら気がかりになっていた。


『あ、いま。ちょっとだけ、帰ってたので』


 受付室の壁に取り付けてある部屋番号パネルを見上げる。Rのいる201号室の部屋のパネルは灯りがついてない。まだ彼女が部屋にいるということだ。


『帰ってたって、どこに』

『少し、一五一四キロメートルまで』


 ペンが僕の指先から逃げて、床に落ちた。それを拾う手は、嫌な汗が浮いていた。


『どうやって、帰るの』

『飛んで、いくんです。受付さんは飛べないんですか』


 飛べないと書いて送ると、Rはあからさまに驚いていた。


『飛べますよ。みんな飛べるんです。飛べないと言っている人は受付さんが飛べなくて可哀想だから、ウソを言ってるんですよ』


 彼女はなんでもないように答える。


『わたし、飛べるんです。前は、寝ているときに帰ってたんです。でも最近は、このシュルシュルー。シュルシュルーって音を聴いてると、よく帰れるんですよ。

 いわて銀河鉄道の線路沿いをトンビみたいに飛んで、釜石まで帰るんです。リアス式海岸にある灯台をぐるりと回って、学校のグラウンドにある仮設住宅の白い屋根で少し休んで……。ずっとここにいたいって思うのに、ホテルの部屋に戻ってきちゃう』


 Rは文通のなかで、よく岩手の、特に釜石の様子を話してくれた。秋に開かれる、産業祭が震災から二年で再会したのを喜んでいたし。家族の写真を服に縫い付けて捜索するお爺さんの話もしてくれた。

その一つ一つを、彼女は自分の子どものことを話すかのように、丁寧に書いてくれた。だから僕は、それを嘘だとは思わなかった。


『受付さんも、そのうち飛べるようになります。飛べるようになったら、一緒に岩手に行きましょう。迎えに行きますから』


 Rの誘いに何の言葉も返せなかった。自分は寂しい人間だと思った。

 彼女と一緒に飛べる未来が僕には想像できなかった。それは漠然とした不安だ。


 僕らは別れ際に、お互い宿題を課すようになった。会計の前に『するべきことリスト』をカプセルに入れて送り合った。


 僕は古典が苦手だと言っていたRに、古文単語の書き取りを宿題として出していた。彼女が十八歳なら高校三年生だ。いずれは受験に役立つかもしれない。


 Rはといえば、『海峡大橋の下の岩場を歩いてきてください』とか『吉母の海岸を見てきてください』とか。僕を『ピシナム』以外のどこかに向かわせる課題ばかりを出した。


 大学を休学し『ピシナム』の仕事でしかあまり外出をしなくなった僕にとって、それらの経験は新鮮に感じられた。


 僕は彼女が指定した場所に一人で向かった。しかし僕が思うことはRのことで、それ以外はなかった。彼女と同じ景色を見て、同じことを想う努力をした。一人でいることは、訪れた時間が違うというたった一点だけで、それはとても些細なことだった。


 僕からすればまるで彼女は身体をもたない幽霊のようで。ふとした瞬間に消えてしまうのではないかと、駆り立てられている自分がいる。


 だから彼女が見たものを目にして、感じたものをより深く考えることは、気休め程度だが安らぎを与えてくれた。


『餌の入った袋を君に渡してるけど、ちゃんと金魚にあげてるの?』


 なんとはなしに尋ねた質問に『当たり前じゃないですか』と、Rは心外そうだった。


『ちゃんと男の人が帰ったあとに、あげてますよ』

『まさか裸で金魚に餌をあげてるの』

『金魚だって裸なんですから、お相子ですよ』


 Rはあっけらかんと書いている。

 裸で金魚に餌をやっている少女の構図を想像すると、自然に苦笑が漏れた。


『201号室なのは、金魚がいるからなのか』


 僕にとっては、どこか聞きそびれていた疑問だった。僕がRを気にかけ始めた理由の一つでもある。


『そういえば話してませんでしたね』と、彼女は前置きをして教えてくれる。

『吹奏楽部の、部室で飼ってたんです。金魚』

『世話は、君が?』

『まさか。わたしはたまにエサをあげるくらいでしたよ。金魚のお世話は、ほとんど先輩がしてましたから』

『先輩って、シンバルの?』

『そうですよ』


 Rからずっと先輩の話を聞かされていたせいか、僕にとってもその先輩がまるで親しい友人だったのではないかと思えてくる。


『でも先輩、金魚すごく大切にしてたんですけど、名前を付けなかったんです。おかしいですよね』

『それは、なんとなく分かるよ』


 彼女から初めて白紙の便箋が送られてきた。

 その部室で飼っていたという金魚は、Rの何パーセントを占めていたのだろうか。


『君は知ってる? 金魚の寿命がどれくらいか』

『わかりません。十年くらい?』

『それは、うまく環境に適応できた金魚だけだよ。ふつう金魚は、どれだけコツを守っても三年も生きられない』


 二階の飼育担当はマリーさんだった。

 だからたまに、あげる餌の種類や、時間、水温をマリーさんから教えてもらうことがあった。

魚の寿命が淡水と海水でずいぶんと違うことも、そのときに教わった。


『金魚を飼ってたのは、いつごろから』

『わたしが入部したときにはもう、金魚を飼ってる水槽がありました』


 おそらく、その先輩は金魚の寿命が三年ほどだと知っていたのだろう。もしかしたら、彼が入部した時期と一緒に飼い始めたのかもしれない。

 三年というのはつまり、その先輩が高校生でいる間に金魚は寿命を迎えてしまう可能性が高いということだ。


『その先輩は、情を移したくなかったんだ』

『あんまりピンときません』

『きっと、自身の七十パーセントに入れるのが怖かったんだよ』


 すらすらと、今までにないくらい僕はスムーズに言葉を繋げることができた。

 自分のことのように語れたのが、不思議と胸に落ちた。


『先輩らしいなあ』


 Rが打ち震えている姿が、文字を通して伝わってくる。


『……先輩、シンバルは叩くことよりも引き離しかたの方が大切なんだってよく教えてくれました。同じように離さないといけないって、片方が引っ張られたらダメなんだって』


 読み終わった途端、文字が滲んだ。

 便箋の上に透明な雫が落ちていた。最初はそれが何なのか分からなかった。天井から落ちてきたのだと思った。


 顔を上げると、呆けた顔で泣き顔を晒す男がフィルムガラスにぼんやりと映っていた。僕だった。


 何かが僕に追いついて胸が激しくうずいた。空想上のものではない、はっきりとした痛みだった。そして、喉をせり上がってくる憤り。


 どうして彼女ばかりを傷つけるんだという怒りでどうしようもなかった。


 そしてRの一言一句が、苦痛だった。彼女から送られてくるどんな手紙を読んでも、そこには腐ったような諦めが散りばめられている気がしてならなかった。僕に対しての諦めだ。


 どうせ、分からないでしょ。そんな風に思われているのかもしれないと思うと、胸が苦しくなる。ただただ辛かった。


 Rと文通するなかで、僕は彼女を理解したいのではないかと考えたことがあった。そして、それはRが先輩を想う姿と同じなのではないかとも思った。


 しかし、僕と彼女は根本的に違っている。当たり前だ。僕らは、男と女で、ホテルマンとお客様で、生まれた年も、親も、そして土地も違う。


 そういう当たり前に気が付いた。

 きっと僕は、彼女を理解したいのではなかった。知っていたいだけだ。その一挙一動にどんな意味があるのかを、遠くから観察していたい。それだけだった。知らないことはおぞましいことで、恐ろしいことだから。


 彼女の顔を見たいわけではなかった。きっと、歩み寄りたいわけでもなかった。だからきっと、僕の憤るすべては自分自身がためだった。


『ねえ、受付さん』

『……なに』


 みっともなく、口と手が揃えて動いた。


『次にここへ来るのは新年に、なりそうなんです。一応、センター試験だけは、受けるつもりなので』


 僕より一つ年下のRが、受験生であることは知っていた。ただ、彼女からはそういった話を聞かないし、僕からも書かなかった。


『そうか。頑張って』

『ありがとうございます。よいお年を』

『よい、お年を』


 その日、Rも僕も宿題を出さなかった。お互いに考えることが多くありすぎた。


 僕たちは傷つけ合いたいわけじゃないはずなのに、やり取りが終わったあとはお互い傷だらけだった。


 Rがエレベーターから降りてきて、201号室の鍵をキャッシュトレイに載せる。彼女はペコリと頭を下げると、波が引くようにその場から離れていった。

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