第8話 3月11。14時46分。

 初めて誰かを待ってそわそわするということを覚えて、さらに一週間が過ぎた。


 最初は、Rに謝ることばかり考えていた。しかし二、三日経ってからは別のことを考えた。彼女と僕自身についてだ。


 Rはどういう子なんだろう。何が好きなんだろう。何が嫌いなんだろう。何を信じているのだろう。何を疑っているのだろう。そういうことを考えた。


 しかしその間に分かったことといえば、人間は自分を中心とした関係図しか描けないということだ。


 僕はRをどう思ってるとか。僕はあれが好きとか。これは嫌いとか。そういうことを考えることは容易い。自分のことだからだ。


 しかしRが僕のことをどう思ってるとか。彼女の親は。友人は。Rのことをどう思っているのか。

 どうしてか、そういうことを考えるのは難しかった。Rという少女ことを何も知らないということを、知った。それだけだった。


 その日は水曜日だった。僕はカウンターに座って空いた時間を見つけては避妊具をラッピングしていた。十一月になると近くのビーチで泳ぐ人もいない。十月まではサーファーを海でちらほら見かけることもあるが、『ピシナム』にチェックインするお客様の数は夏に比べて圧倒的に少なかった。


「この扉、バカみてえに重てえなあ! おい!」


 突然、酒で喉が焼けたような男の声がホテルに響いた。

 男はフィルムガラス越しでも分かるほどパリパリに金髪を逆立てて、言葉にもならない声を喚き散らしていた。


 僕は何も言わなかった。こういうお客様も、たまには来る。何か口を出すより、黙って嵐が去るのを待つ方が事を大きくしないで済むと知っていた。


 しかしその金髪が腕を掴んで引っ張ってきた女性のシルエットを見て、思わず息を飲んだ。


「歩くの遅いんだよ。ちんたらすんな」

「……ごめんなさい」


 辛そうに謝ったのは、セーラー服に赤いスカーフの少女だった。

 Rだとすぐに分かった。ずっと待ち望んでいた少女が、望まない形で現れた。


「部屋選びてえんだろ。早う行けや」


 そう言うと金髪の男は水槽を見てガラガラと下品な笑い声をあげた。Rはまた金髪の男に怒鳴られるのを恐れたのか、パネルで201号室を選んでいた。


 部屋の鍵を渡さないといけないのに、どうしてもそうしたくなかった。けれど僕はどうしようもないほどホテルマンだった。自分の意志に反して、ホテルマンの僕が鍵をキャッシュトレイに載せて、彼女に渡した。


「遅いって。何してんだよ。早くしろよ」


 熱帯魚には飽きたのか、金髪の男は再びRを急かして、彼女の細い腕を乱暴に引き寄せる。


 それを見た僕の腕も、痛かった。


 エレベーターに消えたRのことを考えると落ち着かず、心臓がバクバクと鳴る。水のように流れていた時間は、今まで僕に嘘をついていたかのように、鈍く、遅く、なにより重くなったように感じられた。


 腕時計を外して、机に置く。銀色の秒針が進むたびに、僕とRのカラダが切り刻まれているようだった。


 ただただその痛みに耐えるために、身を強張らせることくらいしかできなかった。そうやって視線が腕時計と201号室の満室パネルを行き来していると、エレベーターが一階に降りてくるチャイムが鳴った。


 逆立った髪の毛のシルエットですぐにピンときた。Rと入ってきた金髪の男だ。金髪の男は踵を引きずりながらふらふら歩いて、カウンターのところでピタリと足を止めた。


「ぁああああ!」


 唐突に、金髪の男は背中を反らすくらい吠え始めた。


「クソ野郎! あの女! マジでふざけんな! ふざっけんな!」


 怒り狂った様子でカウンターの壁を蹴り上げる。


「ヤんないなら死ね! ぶっ殺すぞ!」


 そのままの勢いに任せて扉も押し開き、男は絨毯に唾を吐いて帰っていった。


 しばらく何が起きたのか分からず、呆然としていた。

 数分が経って事態は飲み込めたものの、気分が晴れることはなかった。


 掃除用具入れのあるロッカーから雑巾を拝借し、赤いカーペットについた金髪男の唾をふき取ってから、受付の椅子へと戻った。


 しかしRをどれだけ待っても、手紙を送ってくることはおろか、フロントに降りても来なかった。

 金髪の男がホテルを出てから、時計の長針はそろそろ一周しようとしている。

 嫌な予感が、蛇のように背筋を這った。金髪の男に殴り倒され、彼女がうずくまっている姿がはっきりと浮かんできてしまう。

 僕は今からでも、201号室の扉を開けて「大丈夫ですか」とRに声をかけることをイメージしてみたが、どうしても現実味がない。

 想像できないとは、おそらく不可能だということだ。

 僕はホテルマンで、またその仮面を脱ぐことを恐れていた。


 ホテルマンでなくなった僕とRの間には何の接点もない。ただの男と、ただの女が残るだけのように思えた。

 そのとき、気送管ポストからいつもより数段鈍い音が響いた。ガツンと、人の頭を殴ったときのような音だ。


 青いカプセル。201号室からだとすぐに分かった。

 戸を開けてカプセルを開くと、そこには手紙だけではなく割れたティーカップが入っていた。


 彼女が褒めてくれたティーカップだ。拾い集めてくれたのか、小さな破片まで、透明なビニール袋に包んでくれていた。


『今日はごめんなさい。

 びっくりしましたよね?

 わたしもびっくりぎょうてんです。

 あの人、メールだと聖人君主みたいなこと言ってたんですけど、まさかあんな人とは思わなくって。いろいろあって、お部屋のティーカップ割っちゃいました。ごめんなさい』


 割れたティーカップが入ったビニール袋を机の端に避けてから、便箋に筆を走らせた。


『あのお客様に関しては、気にしないで。あの手の輩はどこにでもいるから。カップのことも気にしないで。あとで掃除をしておくから、もう破片には触れないように』


 一通り書くと、不思議と胸のざわめきが引いていった。


僕は受付室で干していた備品の黄色いタオルを濡らして、強めに絞った。


その濡れタオルと書いた便箋を、一緒にカプセルに入れて送る。


 Rからの返事は、思っていたより早かった。


『手紙ふにゃふにゃになってましたよ。どうして濡れたタオルなんですか?』


 濡れたものと紙をいっしょにしたらダメだったと、当たり前なことを反省した。


『君が、殴られたと思ったから』


 今度は便箋の端っこだけ千切って送った。

 しかし濡れタオルが返ってこなかったところをみると、なにかしらの形で役に立っているのかもしれなかった。


『殴られたー。うん、殴られました』


 ひゅっと、呼吸が止まったのかと思った。本当に止まっていたのかもしれない。


『ほんとに痛かった。こんなに痛くてふるえたのは、二度目です』


『一度目は、なんだったの』


『それを訊くんですね』


『じゃあ、訊かないよ』


『うん。訊かないで。訊かないでください』


『でも、君の話は、聴く』


『受付さんは、良い人、です』


『でも僕だって、悪い人かもしれない。僕は、人から良い人だって言われたら、それと同じだけ、僕は悪い人だよって教えたくなる』


『わたしも、悪い子なんです。色んな男の人とホテルに入る、悪い子なんです』


『僕はそれを悪いだなんて思わない』


『わたしは、そう思ってる。そうじゃなきゃ、嫌なんです』


『それじゃあ、僕らは一緒だ』


『そうかも。一緒かも。でも、ちがうかも』


『今日はなんだか、かもしれない星人だね』


『わたしの友達に、そういう子がいたから。ちーちゃんって言うんだけど。その真似っこ』


『ちーちゃんって、この前話してた子か』


『そう。岩手にいたときの友達。唇がちっちゃくて、かわいい子なんだよ。岩手の学校の子』


『遠いね』


『遠いですよ。梶栗郷からだったら、韓国より岩手の方が遠いいかも』


『韓国が三六一キロメートルで、岩手が一五一四キロメートルだね』


『受付さんは案外と物知りですよね』


『韓国はさっき調べたけど、岩手は昔調べたことがあったから』


『岩手まで距離を? どうしてですか』


『僕はものを考えるとき、まず自分と相手に空いた距離について考える。東北で地震が起きたときも、津波が起きたときも、僕は震源地と自分の距離を測った。津波の高さと僕の身長を比べた』


『……やめてください』


『どうして』


『無神経ですよ、そんなの』


『そうさせているのは、君だろ』


『……やっぱり、やめないでください』


『君は、難しいことばかり、僕に書いてくる』


『一五一四キロメートルだから、そう感じるのかもしれません』


『梶栗郷から、岩手までの距離が?』


『わたしと、受付さんの距離』


『それは確かに、難しい距離かもしれない』


『わたし、今でも岩手にいるような気がするんです。だって、今でもこんなに鮮明なんだから』


『僕は、ファッションホテルの受付室にいる。座ってる。ここ以外のどこにも、僕はいないような気がする』


『でも受付さんには、受付さんじゃない時間だってあります。家に帰った受付さんは、いったい誰なんですか』


『普段の自分よりホテルマンの僕の方が、いくらかマシな人間でいられる。だから本当の僕は、このホテルの受付にしかいないんだと思う』


『幽霊みたい』


『そうありたい、とは考えたことあるよ』


『……わたしはですね、釜石駅のホームに立ってます』


『うん』


『赤茶色の鉄骨が二本、雪の積もった白い地面を這いながら彼方まで延びてて、それは決して交わらないんです』


『……うん』


『そうやってホームから線路を見てたら、危ないよって、いつもちーちゃんが話かけてくれました。雪のせいで、電車の音なんかぜんぜん聞こえないんです。だから、ちーちゃんと話してたら、いつも電車がいきなり現れたみたいに出てきて、びっくりして、ちーちゃんと笑うの』


『ちーちゃんって子は、よく話に出てくるね』


『そうですよ。ちーちゃんとは同じ吹奏楽部だし、帰り道も一緒でしたから。学校に着いたら、旧校舎の部室に行ってシンバルを、乾いたぞうきんでふいて、教室まで歩くの。ちーちゃんはトランペットで手入れに時間がかかるから、ここでお別れ』


『……気送管ポストはずいぶんと、遠くまで出張してくれるんだ』


『そうみたいです。シュルシュルー。シュルシュルー』


『シュルシュルー。シュルシュルー。君は、シンバルの音って言ってた』


『はい。シンバルは、うまく引き合わせたときに、シュルシュルー。って、響くんだって先輩が教えてくれました』


『この前書いていた、シンバルの先輩?』


『はい』


『君にとって先輩はなんだったの』


『先輩は特別でした』


『特別って、なに』


『初めて愛した人だったから』


 それは言いようもない特別だった。

 子どものくせになどとは思わない。彼女は大人だ。


 僕は白紙の便箋を千切って、送った。何も書いてはいないのに、カプセルには白く燃える僕の一部が入っているようだった。


『わたしって子どものころから、自分のものにはちゃんと名前を書くタイプだったでしょ』


『君の子どもの頃を知らないけれど、なんとなくそんな気がするよ』


『人に貸したりするのも、イヤだったし』


『それも、なんとなく分かる』


『わたしの持ってる物って、わたし自身となんら変わらない。カラダの延長線みたいな感じなんです』


『人は、独りでは生きられないってこと?』


『ちがいますよ。ずっと使ってるノートとか、自分の席の机とか椅子とか、お気に入りの小物入れとか。そういうものも、わたしなんだって、こと。内臓と同おんなじなんです』


『シンバルも?』


『うん』


『その先輩も?』


『うん』


『それはセックスしたから?』


『そうかも。あんまり話す人じゃなかったけど、優しい人だった。心がね』


『先輩は、どんな人だったの』


『先輩は一つ年が上で、吹奏楽部のなかで一番背が高くて、なんだか伸びきったゴムみたいにひょろっとしてました。物静かな人だった。楽器を触ってるとき、なんだか悲しそうな目をする人でした』


『何が、そんなに悲しかったんだろう』


『わかりません。でも変な人でした、先輩は。メラミンスポンジって、受付さん知ってます?』


『知ってるよ。ホテルの清掃業務でお世話になるから』


『あれって、使ってると消しゴムみたいに削れちゃうんですよ』


『でも汚れはよく落ちるんだよね』


『部室で年末の大掃除してたときに、先輩が激落ちくんで窓枠を磨いてたんです。そしたら先輩、健気だなぁって言うんですよ』


『健気って、スポンジが?』


『はい。自分の身を削って周りを綺麗にしてるのが、健気なんだって言ってました』


『それは、すごく変な子だ』


『そうですね(笑)。変な先輩でした。そういうのを隠すのが下手な人だったんです』


『みんな、隠すのが上手すぎるんだ』


『それほどでもありませんよ。フフフ』


『フ、フ、フ』


『……でも、優しい人だったんですよ。先輩はいつも部室のある旧校舎の、誰もいない教室でシンバルを叩く練習をするんです』


『吹奏楽部の子が音合わせとかで、校内にちらばってたりするよね』


『それは音がかぶらないようにですよ。みんな、ここはわたしの場所だ! って、野生動物みたいな意識があって。そこには絶対に入っちゃいけないの?』


『絶対にダメなの?』


『ダメ。血のつながった親だって、入れないんですから』


『へえ。そこまで』


『先輩は、いつも旧校舎の空き教室に一人でポツンといるんです。シンバルは音の跳ねっ返りも気を付けないといけないから、先輩は、必ず、旧校舎のどこかの教室に、いました』


『そっか』


『先輩は、縄張り意識みたいなのはあったかもしれないけど、わたしが先輩のいる教室を見つけたら、嫌な顔一つしないで、シンバルの叩き方を教えてくれました』


『それは君にとって、特別な時間だった?』


『特別だった。話したりとか、触ったりとか、服を引っ張ってみたりとか、ちょっとずつ、わたしの一部を、先輩にお裾分けしました。

 先輩だけじゃありません。ちーちゃんとか、家で飼っていた猫とか、中学生のときから使ってたボールペンとか。筆箱とか、本とか、家とか。スマホとかスクールバックとか。みんな、みんなそうだった』


『君が言うように、自分以外のもので、できてるのかもしれない。人間ってやつは』


『うん。わたしの七十パーセントはそういうものでできてた』


『七十パーセントは、多い。多すぎるよ』


 次に返ってきたカプセルのなかの便箋は、一言、二言どころではなかった。一枚の便箋のなかには溢れて零れそうなほどびっしりと文字が書き込まれている。


『七十パーセントは、多いですよ。ぜんぶ、流されたけど』


 Rに綴られた文字列は、読んでいるだけでカラダの芯から熱を奪っていく。


『三月だから、もう少しで高校二年生になるってときでした。まだわたし、高校一年生でした。

春休みに入ってたけど、補修の授業があって。わたし、古典が赤点だったから、補修を受けてました。古典の津留崎先生がつくったプリントを解いてました。

 学校には、吹奏楽部と、野球部と……あとはちらほら。学校にはちょっとだけ生徒がいました。

特に吹奏楽部は、次の日にコンクールを控えてました。だから、先輩も学校に来てました。わたしは、メンバーに入ってないから、普通に補修です。でも、朝に、先輩と会ってお話できましたから、少しだけ、良い日でした。

 吹奏楽部の友達は、みんな音出ししてたから、校内のあちこちにいました。みんなの音は、教室にいても、しっかりと聴こえました。非常階段とか、渡り廊下とか、グランドのサッカーゴールの前とか。

 授業中も先輩のことばかり考えてました。先輩は、旧校舎の音楽教室でシンバルを叩いてました。わたしのいる新校舎からは見えません。でも、シンバルの音が聞こえていました。シュルシュルー。シュルシュルー。って。あの音は、先輩とわたしを、細くて、強い針金のような糸でつないでくれていました。

 やっぱり先輩は、わたしの七十パーセントで、それも大きな割合を占めていました。もしかしたら、わたしが先輩の一部だったのかもしれません。お互いが、そう思っていたのかも、しれないけど』


文章はそこで途切れていた。

僕は返す言葉を探そうとしていたが、カプセルのなかにもう一枚、小さな紙きれが落ちていることに気が付く。


『受付さん、今って十四時四十六分、ですか?』


 時計を見た。二十時半より、少し前くらいの時間だった。

 『そうだよ』と、僕は送った。


 文通をしているなかで、Rは一番時間をかけていた。三十分が過ぎたころに、シュルシュルー。シュルシュルー。とカプセルが降りてきた。


 青色のカプセルには、便箋が五枚も入っていた。それをある種の覚悟をもって、開いた。


『建物が揺れてるって思った。でも、校庭の桜の木が揺れてるのを見て、本当は地面が揺れてるんだってわかりました。最初は縦揺れだった。ブレーキの壊れた自転車で獣道を全力で走ってるみたいな、そんな揺れ方です。

 でも横揺れが来たときは、そんなものじゃありませんでした。そんなものじゃなかった。大きな怪物が、校舎を両手で挟んで投げ飛ばしたのかと思って。そうじゃないと、あんなの説明ができない。

 もう、立てなくて。立てないってすごく怖くて。揺れすぎてもう身体の半分は浮いてる感じでした。

死にたくなくて、みんな叫ぶの。先生も、男の子も女の子も、みんな叫ぶの。でもあまりに揺れが長くて、みんな叫び疲れて、だまって、ひたすらに怯えて。強張った顔で泣いて……。わたしも、そうでした』


 息を吐いたのに、僕は吸うことを忘れていた。


 頭の奥の方が冷たくなる。爪で胸を掻きむしりたくなって、ホテルの制服のボタンが飛びそうになるくらい握った。


『補修をしてくれてた津留崎先生は、野球部の顧問で、古文の先生でした。もう六十歳くらいの人で、ずっと岩手で暮らしてた人だから、地震よりも、そのあとの高波が怖いって知ってたみたいでした。だから、まだ少し揺れてたけど、必死になって、生徒を外に連れ出そうって、高台に避難させようってしてくれました。でもね、玄関から外に出ようってなったとき、もう水が、甲子川が溢れて、わたしたちを追い越してた。

 川の水が、山に向かって逆流してるんです。意味がわからなくなくて、それがゾッとするほど怖いんです。信じてくれないかもしれないけど、人って、水で死んじゃうんですよ。

 津留崎先生は、山側まで走っても間に合わないって、きっと分かってたんだと思います。授業でいつも腰が痛いなあって言ってた先生が、職員室まで一生懸命走って、補修を受けてた坊主頭の子に屋上の鍵を渡しました。「屋上に行きなさい。君がみんなを連れていくんだ。君なら、大丈夫だ、大丈夫だ」って。津留崎先生は、校内に残っている生徒がいないかどうか確かめるって言ってた。

 屋上は、寒かった』


 二枚目をめくった。紙に触ったときに親指の腹を切った。じんわりと、血が、流れて、それがまるで自分のものではないかのように思えた。


『校内アナウンスがずっと流れてました。津留崎先生の声だった。授業のときはすごく穏やかな声なのに、そのときだけは聞いたことがないくらい声を張り上げてました。「これは訓練じゃない! もうすぐ津波がくる! 津波が来るんだ! 校内にいる生徒は校舎の屋上に避難しなさい! 友達を探すよりも屋上へ行きなさい! 慌てちゃいかん! 急ぎなさい! 急ぎなさい! 校舎の屋上に避難しなさい!」って。何回も、何回も。あの声は、今でもはっきりと覚えてます。

 放送のおかげで、野球部の生徒も、吹奏楽部の子も、ほとんど屋上まで来てくれました。吹奏楽部の子は、裸足同然だったけど、楽器だけは抱きしめてた。ちーちゃんも、自分のトランペットだけは抱きしめて、そのなかにいました。

 でも、先輩がいませんでした。何回も叫びました。咳がでた。でも呼びました。裏返って、変な声が出た。でも、先輩は、新校舎の屋上へは来てくれませんでした』


 三枚目をめくった。何か、とてつもなく大きなものが迫って、僕を飲み込もうとしていた。それはすでに、僕の最も深くて脆いところに迫っていた。


『ばあーん。シュルシュルー。って、シンバルの音が聴こえました。それが先輩のシンバルだって、わたしにはわかりました。

 新校舎の屋上から見下ろすと、先輩は旧校舎の屋上にぽつんと立っているのが見えました。

 屋上に避難しろって放送がかかったから、新校舎じゃなくて旧校舎の屋上に行ちゃったんだと思います。旧校舎は部室等で三階までしかありませんでした。

先輩だけじゃありません。吹奏楽部の子も数人、旧校舎の屋上にいて、わたしたちに手を振ってくれていました。

 まだ水は校舎のなかにも入ってないくらい浅くて、とても広い水たまり、そんな感じにしか見えませんでした』


 ぽっかりと、一行だけが空いていた。


『先輩は屋上に、シンバルを二組もってきてくれていました。先輩は、わたしのシンバルも持ってきてくれてて。それがもう、十分だよってくらい嬉しかった』


 Rは、僕だけにこれらの言葉を綴っていたわけではないらしかった。

 そういう事実ばかりが、僕の心臓より下を、暗く、重くさせた。


『水かさが増した』


 四枚目をめくると、その一行目が僕の脳天を殴りつける。


『津留崎先生のいる一階が沈んだ。スピーカーからはなんにも聴こえなくなった代わりに、家が割れる音と、重なった叫び声が聞こえた。新校舎の二階が見えなくなった。みんなは、アレを津波だとか高波だなんて言うけれど、わたしはそう思えませんでした。海が青色だなんて、二度と信じられない色でした。

二段重ねになった漁船が川を溯って、家屋を飲み込んで、アスファルトを叩き割って、電柱をドミノみたいになぎ倒して迫ってきた。アレは、確かな意志をもって、わたしたちを殺そうとしてた。わたしには、そういう化け物に見えた。

 旧校舎の三階は、もう見えなくなってた。水の高さは、旧校舎の屋上まで、もう、三十センチもなかった。水かさは、まだ止まらなかった。止まってくれなかった。

 音にならない轟音が響いて、隣にいるちーちゃんの声も、自分の声もなにも聞こえなかった。旧校舎の屋上にいる女の子が何か叫んでた。でも、なんにも聴こえなかった。みんな見たことないくらい口を大きく空けて、顔を固くして叫んでるのに、何にも聞こえなかった。なんにも』


 五枚目をめくった。最後の一枚だった。


『でも先輩は、喘息もちの人で、大きな声をあげられる人じゃなかった。先輩、まるでお迎えがきたみたいだって、じっとわたしを見上げるから、わたし、それに怒って、泣いて、手を伸ばしたのに、そんなの届くわけないって分かってるみたいに先輩がくしゃって笑うから、セーラー服も脱いで、フェンスの下から出したのに、先輩、手も伸ばしてくれなかった。

あのとき先輩、両手にもってた、わたしのシンバルを叩いたよね。


 ばあーん。シュルシュルー。

 ばあーん。シュルシュルー。

 ばあーん。シュルシュルー。

 ばあーん。シュルシュルー。


 なんにも聴こえないのに、先輩のシンバルだけは、ちゃんと耳まで届いたよ。

 黒くうごめくアレは、先輩のふくらはぎくらいまでの高さしかないから、まだ大丈夫って思ってたのに。でも、信じられない勢いで足をすくって。

 あっ。って、声をあげたらもう先輩がどこにいるか見つけられなかった。

アレは、先輩のいる旧校舎を丸ごとかみ砕いて、飲み込ました。わたし、それを見てました。ついさっきまで先輩がいたところには軽トラックとか原付が流れてきてた。でも、シンバルの音は、シュルシュルー。シュルシュルーって。まだ確かに、聴こえていました。先輩を見つけられなくても、しばらくシンバルの音はわたしに届いていました。だから、きっと、どこかの木の枝にでも引っかかってるんだって自分に言い聞かせた。じゃないと、わたし新校舎のフェンスから飛び降りてしまいそうだったから。

 でも引き潮になったとき、あらゆるものが海へとさらわれました。車もそう、家もそう、岸に並んでた漁船も、校庭にあった桜の木も、車も、冷蔵庫がいっぱい浮いてた。

それは先輩のシンバルの音もさらっていきました。そのとき、また、泣きました』


 彼女の書いた便箋のなかには、手のひらから零れるくらいの地獄があった。


『それで、わたしと、少しのコンクリートだけが、残った』


 最後の行には、それだけが書かれていた。


 乱れた筆跡は、自分より一つ年が下の女の子が書いたとは信じられない。あまりにも苦しそうな文字だった。


 いま、自分のなかにいるRという少女は、顔つきはまるで大人のようであるのに、丸裸の赤子のように怯えていて、僕がかけるどんな言葉も無神経なもののように感じられた。


『僕は、二年前、高校二年生だった』


 何をしたいのだろうと、自問しながらペンを動かした。強く自分に問いただしても、暗闇で文字を書いているような気持ちがずっと続いた。その間も何かが、ペタペタと子どもみたいな足音を鳴らしながら僕を追いかけくる。


 そいつは人の型をもしていて、薄っぺらいのに僕に覆いかぶさろうとするほど大きかった。


 自分を追い脅しているのは罪悪感だった。


 そいつが、じっとりと僕を見据えている。


『通っていた高校も梶栗郷にあって、そこは揺れなんて感じなかった。学内放送で流れた、下校時は海沿いに近寄らないようにって呼びかけにも、緊張するよりもどこかワクワクしてた』


 来るな。来ないでくれ。

 罪悪感を振り払おうと叫んだつもりが、声になってなかった。そいつはもうすでに追いついていた。うずくまって震える僕の代わりにペンを握っていた。


さらけだせよ。と、しゃがれ声でそいつが言った。


『対岸の火事でしかなかった』


 胸にわだかまっていた感情を吐き出すと、強張ったカラダからごっそり体重を失ったみたいに力が抜けた。

僕は、楽になりたいわけじゃなかったのに。


『そっちは、揺れませんでしたか』

『揺れなかった』

『……そうですか』


 謝りそうになるのを、腹に力をいれてぐっとこらえた。それは、意味のないことだったからだ。


『わたし、避難所にいるとき、あの屋上で、見た光景が日本の、そのさらに端っこでしか起きてないって信じられませんでした。あの時は、わたしだけじゃない、地球に生きる人のすべてが同じ光景を見て、同じ苦しみを受けてるんだと思いました。そしたら、少しだけ我慢できたから』


 岩手を離れたとしても、Rは新しい暮らしに傷つけられていたはずだった。新しい筆箱を買ったとき、吹奏楽部の音出しを聴いたとき、男の人と話すとき。Rは、自身を形作っていた七十パーセントを想って、どうしようもなくなる。


 彼女はそういう人間な気がした。


『受付さん』


『なに』


『……地面が、いつまでもそこにあるって思ってるでしょ』


『ああ』


『海がずっと青色だと思ってるでしょ』


『……そうだね』


『自分は海に飲まれても、泳げるって思ってるでしょ』


『つい、さっきまでは』


 Rは僕を責め立てる他にも、両親が無事だったこと、暮らしていた家の一階に泥や船のオイルが浸水したせいで、市の体育館にテントを張って生活したことを書いて寄越した。


彼女にとって、それらは取るに足らないことのように書かれていた。


『三月三十日に、先生の離任式があったの』


 僕は白紙の便箋を返した。

 空の鍋を沸かしているような、行き場のない熱が全身を焦がした。


『お母さんが気を遣って、友達に会いに行ってきなさいって言ってきて。そのときのわたし、とにかく酷かったから。お母さんも、鬱陶しかったのかも』


白紙を送った。


『ボランティアの人から借りた自転車で坂を下りたら、米軍の人がつくってくれた道があるの。それ以外はないんですよ。空から、爆弾が落とされたのかって思うくらい。でも、土色の冷蔵庫と電子レンジがいっぱい転がってた。一回だけ、一回だけですよ。自転車を降りて、冷蔵庫の中を、そっと覗いたんです。

でも、泥しか入ってなかった』


 白紙を送った。


『ああ、もう、ダメだ。って、なった。ここには、いられないよ。って、涙みたいなものを、拭きながら、また自転車を漕ぎました』


 白紙を送った。


 そうする以外の術を持ち合わせていなかった。


 次に返って来たカプセルのなかには、千円札が三枚と、中身が見えないように折り畳まれた便箋が置いてあった。


 折られた便箋には『ごめんなさ、い。今日はこれ以上、話せそうに、ないです』と書かれていた。その言葉によって安心したのは、僕の方だった。


 もう、十分すぎた。


 Rが血を吐くように綴る言葉の数々を目にしても、彼女の苦悩の一部さえも理解できていなかった。そう思うと、本当に他人のようで。


『もう、いいよ。大丈夫だよ』と、慰めに似せたエゴを返すことしかできなかった。


 Rは、自分を痛めつけたくてどうしようもないのだ。だから、残った三十パーセントを抱えて、わざわざ海に近いホテルに訪れている。


Rが部屋から出たあと、201号室を掃除するためにマリーさんと受付を交代した。


 ドアを開けて入ると、部屋のなかは金髪の男と諍いがあったとは思えないほどもとのままだった。送ったはずの便箋も、どこにもなかった。唯一、割れたティーカップの僅かな破片が丸テーブルの下に飛び散っている。


 いつもと違ったことといえば、ベッドシーツに深く皺が寄っていたことだ。


 くたびれたシーツはまるで、すべてが流されたあとの波打ち際を眺めているようだった。


その生まれたての憎しみに、どう触れていいか分からず、僕はしばらくベッドの前で立ち尽くしていた。

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