第7話 僕ら。サン、テン、イチ、イチ。
次の水曜日、Rは『ピシナム』に現れなかった。
午後九時以降の清掃シフトもマリーさんに代わってもらい、受付に座っていたがRは姿を見せることはなかった。
その日はまるで大事な仕事をやり残したような気分で、タイムカードをきった。
僕やマリーさんの入っている深夜の業務は、早朝五時に次の時間帯のパートさんたちに引き継ぐ。
外はまだ夜の帳が薄い膜のように広がっていて、太陽の光を拝むにはもうしばらく時間がかかりそうだった。
始発の電車が走るまでコンビニで買った温かい缶コーヒーを、僕とマリーさんは店先のベンチでちびちび飲んでいる。
この時間はお互いしゃべらない。ホテルマンだった僕らは、暖かくて苦いコーヒーを飲んで、ゆっくりと氷を溶かすように現実の僕らへと戻っていく(ホテルマンの僕は、何者でもない僕に戻る)。
まるで何かの儀式のようで、お互いにその時間を邪魔することは今までになかった。
「あの女子高生、今日は来なかったね」
だからマリーさんが話しかけてきたのは予想外だったし、マリーさんの指摘にも驚いた。
「気づいてたんですか」
Rが女子高生であることにマリーさんは気付いていたらしかった。
だったらどうして追い返したりしないのかと尋ねると、マリーさんは煙草に火をつけながら息を吐いた。
ほの暗い夜の空気に、煙の白がよく映えた。
「追い返したよ。若いうちにこんなところに来るんじゃないってね。でもね、あの子はけろっとした顔で必ずホテルに来るんだ」
マリーさんは煙を吹くと、嘆息した。
「あの子に、あんまり深入りしないほうがいいよ」
「……深入りなんてしてませんよ。声だって、かけてない」
嘘は言ってなかった。僕は彼女の顔も知らない。知っているのは、少しの言葉だけだった。
缶コーヒーを持つ手に力が入る。
マリーさんは僕の声などに耳を傾けなかった。
「あの子だけはダメだよ。やめときな」
重く、硬い。実感がこもった口調だった。
二人だけのベンチで空いた距離は、扱いが難しかった。これ以上遠いと他人のようだし、近づくと親しい間柄のように見える。
だから僕はマリーさんの方へ身体を向けることなく、そのままの距離で淡々と尋ねた。
「だから、どうして、あの子がそんなにダメなんですか。かわいそうじゃないですか」
「あの子はダメだよ」
「だから、どうしてなんですか」
語気が強くなる.
僕らは同じところをぐるぐると回っていた。
「……アタシね」
マリーさんは、その後何度か低く沈んだ声でアタシね。アタシねと。呟いた。
「アタシ、あの子に注意したことがあるよ。来るんじゃない、入ってくるんじゃないって。でも、あの子に、帰りなさいって、言えなかった」
マリーさんは缶コーヒーをベンチに置いて、短くなった煙草を胸ポケットにしまってあった携帯灰皿に押し込んだ。そして新しい煙草に火をつけると、唇にあてがい長く息を吐いた。煙草の煙が頼りなく、辺りを漂う。
「あの子にとっては、あの部屋が家なんだよ。……たぶんね」
シュルシュルー。と、気送管ポストにカプセルが落ちる音が、耳の奥で響いた気がした。
「あの、マリー、さん」
言葉がつまる。
「二年前の、三月十一日って、どうしてましたか」
できるだけ自然な声音を出そうとしたが、舌がうまく動かなかった。
「二年前って……サンテンイチイチの日?」
三月十一日と言うのと、サンテンイチイチと聞くのでは、持つ意味がまったく異なるような気がした。
「それがどうしたん」
それがどうした、と何気なく口にできるくらいには、僕たちの間で『あの日』は風化していた。
マリーさんは「あの子に関係あるの?」と訊いてきたが、僕の無言で察してくれたのか深く追求してはこなかった。
「夜に『ピシナム』の仕事が入ってたから。子どもを保育園に預けてる間は寝てたと思うんよ。そうだね。夕方ごろに目が覚めた。子ども迎えに行く途中の……。ほら、電気屋さんがあるでしょ。あそこの店先に並んでたテレビを見てさ、大変なことになってるなって思ったのが最初かも。同じシフトになったパートさんとかに、大変なことが起きたねえって話したよ」
マリーさんの話を聞いていて、そしてその続きを待っていたが口から出てくるのは、話の続きではなく煙草の煙だけだった。
「それだけですか?」
「それだけだよ」
まるで肩透かしをくらったかのようで、聞き返すとマリーさんはまるで自虐的に笑った。
「アタシが寝ている間に数万人が死んだなんて信じられないくらい空は晴れ晴れとしてたし、梶栗郷の海岸は子どもが遊べそうなくらい静かだったね」
ああ、でもね。と、当時を覚えていない自分をかばうように、マリーさんは言葉を並べた。
「磯辺クン、テレビってよくないわよ。ボタン一つで津波の映像があんな簡単に流れちゃうのは、違う意味でショックだったわ。現実味がなくて」
すべてではないが、マリーさんの言っていることは納得できるところもあった。僕にとって東北の地は外国となんら変わらなくて、だから三月十一日も慌てたふりしてどこかのほほんとしていた。
それに、マリーさんの話を聞いて心のどこかでほっとしていた。自分だけではないのだという、言い訳がむくむくと膨らんでいく。
なんとかそれを誤魔化そうと、話題を無理に変えた。
「す、みません。変なこと訊いてしまって。……今日は清掃シフトまで変わってもらってしましたし」
「べつにいいよ。ルームメイキングも嫌いじゃないし」
手をひらひらと振って返してくれる。
マリーさんは腰を上げて、足早に歩き出した。時計を見ると、始発の時間がせまっていた。ベンチに置きっぱなしになっていた二つの缶コーヒーのうち、マリーさんが飲んでいた缶だけをゴミ箱に捨てて駅へと歩きだした。
「磯辺クン、もっと喋りなさいよ」
「……はい」
「あの子のことを知りたいなら、磯辺クンも自分のことを話さないと」
マリーさんは厳しくも、柔和に諭した。
「でもね……できたら、もうあの子のことで悩まないでよ。考えたって、どうせ分からないんだからさ」
背中より後ろで、空き缶がアスファルトに落ちる音がした。カラカラと、僕の背中を見て嘲笑っているようだった。
立ち止まりはしたが、振り返ることはなかった。
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