第10話 遠くて、見えなくて、余震。

 新年、二〇一四年を迎えてから二週間が経った。梶栗郷は海沿いの街だから滅多に雪は降らない。ひたすらに、建物の隙間を冷たい海風が吹き抜ける。


 クリスマスも、年末年始も終えた『ピシナム』の客足は自然と穏やかになっていった。


「磯辺クンにプレゼント」


 受付にいたとき、マリーさんが僕の頭の上に紐のついた布のようなものを乗っけてきた。

 なんとなく予想しつつも手に取ると、収まっているのは水色のブラジャーだった。それもちょっと大きめの。


「何号室の忘れ物ですか」

「アタシのって言ったらどうする?」

「お返ししますよ」

「冗談よ。304号室の。たぶんさっきのOLのやつ」

「あ、それなら忘れ物かごの中に入れといてください。ファイルの方には僕が書いておきます」

「はいよー」


 西暦が変わるのを節目に、僕の肩書きも「研修生」から「遺失物管理責任者」へと等級が上がっていた。お客様の忘れ物を一旦預かる仕事だ。


 役職をもらうと、お客様を見る目も変わる。


 お客様の手荷物や、身に着けてるものをよく観察するようになった。特によく気を付けるのは女性のお客様だ。


 不思議なもので、男性のお客様は忘れ物をほとんどしない。部屋に荷物を置き忘れるお客様のほとんどは女性だった。


 バッグやネックレスや指輪。誰かからもらったものというのは持ち主が現れる場合が多い。しかし、カーディガンや下着といった自身で買われたようなものは、いつまで経っても持ち主は現れなかった。


 知らない女性の下着を捨てるのは、気が引ける以前に何か怖い。


「201号室で、お願いします」


 そしてRも新年に入ってから、また『ピシナム』へと訪れるようになっていた。最近の彼女は、一人でホテルに来ている。週二回のペースで201号室を利用していた。


 訊くとどうやら、勉強部屋として使っているらしい。


『ホテルの方が、家より勉強がはかどるんですよね』

『たしかに、図書館とかカフェで勉強している子をたまに見かける』

『そうじゃなくて。なんかラブホテルとかって、普通のホテルとちがって、強い花の匂いみたいなのがあるじゃないですか。それが、すごく落ち着くんです』


 自分の家の匂いを他人から指摘されたときのように、いまいちピンとはこなかった。

 それでも、いつか君と同じ香りを感じたいと思った。そういう風なことを書いて送った。

 そんなやり取りから何事もなく一週間が経ち、水曜日になった。


 いつも通り十九時に受付に入ると、その日はすでにエントランス前のソファーにRが腰かけて、参考書を読んでいた。受付室にある部屋パネルを確認すると、201号室は使用中になっていたからだ。


 201号室が空室になるのを待っていると、ホテルの正面の扉が開いた。入ってきたのは男女の二人組だ。


 女性は派手なパステル色のドレスを着ている。でも、それがなんとなく似合わない。そんな年頃だった。学校の制服を着ても、まだなんの違和感もなさそうな、そんな少女だった。


 ドレスの少女はまるで死んでしまったみたいに顔が蒼白としていて、どこかぐったりとしていた。

 一緒に来たスーツを着た男は、そんなドレスの少女の腕をがっちりと掴んでいる。


「嫌! 嫌なの!」

「だから何が嫌なんだよ」


 スーツの男は、少女を引きずるようにホテルのなかへ入れたが、ドレスの少女は男の腕を振り払おうとして、口論となっていた。


 そのやり取りは、Rと金髪の男のことを彷彿とさせた。おかしいと思い始めたのは、スーツの男が困っているように見えてからだ。


「嫌、嫌よ……!」

「だから、嫌って、何が、嫌なんだよ。こっちは、お金も、お店に、払ったし、な? 今さら、チェンジも、できないだろ? 時間だって、あるんだから、な?」


 スーツの男は今にも怒鳴りそうなところを抑えているのか、唇の端が固くなっている。同意を求めようと、何度も語りかけるが少女は首を横に振るばかりだった。


 スーツの男が途方に暮れたようにしている様子を見て、いよいよ雲行きが怪しいと身構えた。


 ドレスの少女の方は、おそらく派遣型の風俗嬢だろう。スーツの男は、お金は払ったと言っている。無理やり連れ込んでいるわけではないようだった。


「ここはイヤ……。海が、近、い……」

「はあ? 海? それが、いったい、なんだっていうんだ」


 スーツの男は、自分が怒鳴りそうになっているという自覚があるのか、一言、一言、理性をのせ、堪えるように区切っていた。


 受付の前まで、なんとか引っ張ってきたが、ドレスの少女は周りをぐるりと囲う水槽を見て、ますます暴れ出した。


 それはRが座るソファーのすぐ近くだった。


「ここは、嫌! 嫌よ! 別のホテルにしてよ!」

「だから! なんでそんなに嫌なんだ!」


 スーツの男がぶつけた言葉の重みに耐えきれなかったのか、ドレスの少女はぺしゃりと崩れ落ちて、耳を塞いでしまう。


「津波が来たらどうするの……」


 何を言ってるんだ、コイツは。とでも言いたげにスーツの男が「はあ?」と声を返した。


「津波が来たらどうするの!」


 ベッドシーツを引き裂いたような声が、フロントに響き渡る。


「だって! こんなに揺れてる! 津波がくるの! 分かるでしょ!」


 僕は足をつけている床を見た。揺れてはいない。けれど座り込む彼女のカラダはあんなにも震えている。

 彼女が座り込む半径三十センチのずっと深いところには、今でも震源があるように見えた。


「ねえ、わかるでしょ……? わかるでしょ!」


 悲痛な訴えが届いたのは、目の前のスーツの男ではなかった。


Rは、ドレスの少女を見据えていた。エントランスに立ち込めた不穏な空気を他所に、その姿を目にした僕は一切を悟った。


「……わかった。わかった。もう、いい。君は、キャンセル、する」


 スーツの男はもう恐る恐るといった面持ちで、ドレスの少女に近づこうとしなかった。そのまま彼は、風俗店にキャンセルの電話をしながらそそくさと正面扉から出ていってしまう。


 残されたドレスの少女は堪えたものを吐き出そうと、一生懸命に泣いた。いろんな泣き方を工夫しているようだった。


しかし、どんな泣き方をしても胸に詰まっているものはなくならない。「うううううっ。うううううううううっ。ううううっ」と、ドレスの少女は嗚咽をもらした。


 それがまるで、何かのサイレンのように聞こえた。


 ふとRを見ると、彼女はソファーから立ち上がっていた。Rはドレスの少女に歩み寄ると、視線を合わせるように膝を折り、その肩を抱いた。


「そうだね、帰りたいね」


 赤子をあやすように、Rはささやいた。


「帰りたい。帰りたい、ね」


 背中をさすり、とんとんと柔らかく叩いて、Rも一緒に泣いていた。


 ドレスの少女が帰りたいところと、Rが帰りたいところは同じなのだと、僕にはわかった。


 しばらくすると少女は泣き止んで、ふらふらと覚束ない足取りで正面扉に歩き始めた。


 Rは、ソファーに置いてあった荷物をまとめると、ドレスの少女に連れ添って『ピシナム』から出ていってしまった。


 僕が『受付さん』でいられるうちにRは帰ってこなかった。


 Rがいなくなってからも、僕のなかで「帰りたいね」という彼女の言葉だけが、何度も何度も繰り返された。


 Rが帰りたい場所が『ピシナム』ではない、一五一四キロメートルも離れたところにしかないことも、わかった。

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