第8話 忘却の貪羊 後編

忘却の貪羊 後編

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 凰家には久方ぶりの来訪者が有った。

「まあ、三春様、我が家へいらっしゃるなんて何年ぶりでしたかしら。お越しになるなら、仰っていただければ良かったですのに」当主の茜が三つ指を着かんばかりに出迎える。

 夕姫と弥桜は凰温泉を観てみたいという三春を連れて三人で凰邸に戻って来た。

 三春は事前に連絡すれば要らぬ気遣いをされるのがイヤであえて突然に訪問させてもらった。

「茜様、どうかお気遣いなきよう。ちょっとウワサのお風呂をいただきに参っただけですから」三春はいつもの儚げな笑みを浮かべていた。

 手には入浴セットと着替えを持っている。ここまで送ってくれた龍光は名残惜しそうに帰っていった。

 三春の足元を見るとしばらく消えていた黒猫ペンタがまとわりついている。弥桜とバロン以外にこんな事をするなんて珍しい。夕姫や輝虎になんか絶対にすり寄ったりしない。

 (あ、美味しいんだ)ペンタは化け猫なので人の気か精を糧としているが、弥桜とバロンからは陽の気が発しており、精を吸わなくても側にいるだけで良いらしかった。

 三春からも陽の気が出ているようだ。あるじとしている弥桜を差し置いてペンタが三春にすり寄っているのはさすが太刀守の次期党首、美味しい気が出ているようだ。

「ペンタちゃん、いい子ね」三春が黒猫を抱き上げた。

「知ってるんですか?」夕姫がいぶかしげに二つの意味を込めて尋ねると

「ええ、私達お友達なんですよ」三春が微笑むが余計に夕姫は不安になる。三春のお友達というのはどこまでのことなんだろう、夕姫の脳裏には共犯者という文字がよぎった。

「ニャア」ヘヘンという感じに三春の腕の中でペンタが鳴いた。


「ああ、本当に良いお湯」三春が湯船に浸かると思わず声が出てしまう。旅慣れてはいないので、他の温泉と比べることは出来ないが、効きそうなのは本能でわかる。

 三春は身長で弥桜を越し、バストで少し及ばないが夕姫より大分大きい分、普段から肩こりが気になっていた。

「お肌もスベスベになりますけど、血行が良くなって肩こりがスゴク楽になるんですよ」既に常連になっている弥桜が察して解説する。

 夕姫がモデル体型、弥桜がグラビア体型だとすると三春はバレエダンサーのような均整のとれた身体つきをしている。

 たいという大太刀を振り回せる筋力が有るようなので、膂力りょりょくは夕姫以上かも知れない。

 夕姫は三春達の胸を見て自分の火力不足を痛感するが、相手は重量級達だと思い意識しないようにする。

 夕姫自身は劣等感を感じているが、里の中では人気の未婚女性と胸の大きさのトップ3が今この風呂場に集中していた。

「良かったらいつでも利用してください。門下生も利用していますのでご遠慮無くいらして下さい」夕姫の申し出に

「あら本当に。でしたら白月さんも連れてきていいかしら。彼女、この温泉に興味が有って紹介してくれって言っていたの」白月は肩こりはあまりしないが、願望が叶うなら肩こりくらいお安い御用だと思っている。

「三春先生、そろそろ…」弥桜が含みのあるお願いをした。

「ええ、いつでも良いわ」三春が頷くと

「では夕姫ちゃんへのお仕置きタイムに入りたいと思います」弥桜が大きな胸を揺らしながら高らかに宣言した。

「え、え?ナニ?」夕姫は突然の宣告に戸惑った。

「夕姫ちゃん、ごめんなさいね、エイッ!」謝りつつも三春が気合を放った。

「な、何を、ぐぎぎっ?」夕姫は危険を感じ湯船から立ち上がったところで動けなくなった。

「フッフッフ、さあ観念なさい、夕姫ちゃん。積もりに積もったウラミをここで晴らさせてもらうわ。夕姫ちゃんの弱点が分かっちゃったんだから。その為に三春さんに協力してもらったの」三春の気迫による金縛り状態の為、逃げるに逃げられない夕姫に弥桜が手をワキワキしながら近づく。

「くっ、コロスならコロセ!」動いても亀の歩みほどしか動けない夕姫が観念したが

「殺さないし、痛いこともしないわ。ただ夕姫ちゃんには生きたまま天国を味わわせてあげるだけよ」笑顔で弥桜が死ぬより酷い極楽を味あわせると迫る。

 夕姫は怒らせてはいけない人間を怒らせたのだ。ただひたすら笑顔が怖い。

「及ばずながら私もお手伝いしますわ。好評ですのよ、私のマッサージ」いつの間にか夕姫の背後にまわり、ニコニコと笑いながら背中をなぞる三春だった。

 実は三春は全寮制の女子校で、幾人もの同級生や後輩達をお風呂でスペシャルマッサージの毒牙にかけたテクニシャンだ。

「ほ、本気?」往生際の悪い夕姫は愛想笑いを浮かべ翻意ほんいうながすが、復讐に燃える巫女は急成長した胸を鷲掴みにして

「ヤダなぁ、夕姫ちゃん、こんな事冗談で言う訳ないじゃない」弥桜の目を見た夕姫は獲物の前の猛獣を思い起こした。

「いやぁー、お、お止めになって!あ、あ、そんなところ、まだ誰にも…ウソ!こんなところまでそんな事…ダメッ、嫌……おかあさーん!!」夕姫の悲鳴が浴場に響くが茜も誰も助けに来なかった。

 夕姫は天やら階段を昇ったかもしれなかった。


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「だから言ったのに…いつか後悔するって」茜がソファーでグッタリ脱力している娘に声をかける。昔から剣の稽古も手を抜かぬよう口酸っぱく言っていたのだ。

 弥桜はやり過ぎちゃったかなぁという顔でのぼせ気味の夕姫をうちわで扇いでいる。

「ごめんねぇ。夕姫ちゃん可愛くって三春さんと悪ノリしちゃった。だって、いつも男前の夕姫ちゃんがあんなに女のコな反応するなんて、ついついエスカレートしちゃった」悪びれ無い弥桜はテヘっと一応謝罪する。三春の方は満足してご機嫌で帰っていった。

「…母さん、私もうお嫁に行けない…」涙を浮かべた夕姫は母親に訴えかけるが

「良いじゃない、輝虎君を婿にとるんだから。大げさねぇ、たかが女の子同士のスキンシップでしょう?」茜は相手にしない。

「アレが?少しは娘の貞操にも関心持ってよ!クーッ、弥桜に金縛りを悪用されるとは」さすがに弥桜のゆるい気迫には金縛りされる事は無いと油断していた。よもや三春と共謀きょうぼうするとは。いつの間にか色々悪巧みする仲になっていたらしい。

「ママも心配してたのよ。輝虎君相手に剣術の稽古するから大丈夫って言ってたから。あの子優しいから本気で夕姫ちゃんに向けて闘気なんて放てないんじゃないかと思ってたんだけど、案の定ねぇ」茜はヤダわぁと頬に手を当てため息をつく。輝虎は技術を教えるのは得意だったが、少々気を遣いすぎて厳しさに徹しきれない。

 そういう意味では勉強とはいえ、サディストとまで呼ばれたバロンの方が自分の為にはなるかもしれない。

「お姉ちゃん、三春様と弥桜お姉ちゃんに喰われちゃったの?」

「喰われちゃったの?」

「あら、お姉ちゃん、もう中古品なのねぇ」集まってきた三雀が口々に勝手なことを言う。

「女の子が喰われたとか中古なんて言うな!元はと言えばあんた達が弥桜を怒らせたのが原因でしょ!良いわ、あんた達には北海道のお土産はナシ!」夕姫が罰を高らかに宣言した。

「「「ええーっ!」」」

「ごめんなさい、お姉ちゃん。だから渋い恋人は買ってきて!」

「瑠璃は熊の置物!鮭咥えたヤツ!」

「私はバターサンドが良いわねえ」

「だから買ってこないって言ってるでしょう!お土産のリクエストなんて聞いてないの!…熊の置物は食べられないわよ」勝手なことを言う妹達に怒るが、熊については冷静に指摘した。

「そうねぇ、母さんと仕方ないから父さんの分は買ってくることにするわ。後は美味しいお土産をあんた達の目の前でいただくことにするわ」

「ごめんなさい、本当にごめんなさい!だからお土産だけは買ってきて!」必死に謝罪する紅。

「瑠璃のは食べられないから買ってきてくれるよね」変なものばかり集めている瑠璃が自分のコレクションだけは確保しようとしていた。

「滅多に賞味出来ない北の味覚を独り占めしようなんて…鬼姉!」翡翠は抗議した。

「まあまあ、お土産、ちょっとなら私が買ってきてあげるから、仲直りしなさい」弥桜が少しは責任を感じて申し出ると

「ホント?弥桜お姉ちゃん神様」

「女神様」

「さすが私のライバルね」三雀達は口々に弥桜を褒める。

「いやぁー、それ程でもぉ。その代わり仲直りしてよ」

「「「ハーイ!」」」


「ペンタちゃん、また猫飼さんのところへ行ってたの?」鬼退治の時も陰の気を避けて猫飼理弧のところで待機していたペンタだった。里に入るとペンタは日中、ほとんど理弧の家に入り浸っている。

「ああ、そうだ。美味しい物をくれるからな。それに事情を知らない里人にいきなり襲い掛かられてはたまらんしな。大丈夫だ、北海道には付いて行くぞ」弥桜がいる客間で携行食のビーフジャーキーを齧りながら答える。もちろんジャーキーは人間用だ。

「そうなの、てっきりウチに残るって言うのかと思ってた」弥桜は不思議がる。気の供給問題は主従契約によって解消されている。

「美味しい物が沢山有りそうだしな。それに三春と約束した。通訳だそうだ」

「通訳?」


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「夕姫、北海道に行くそうね」ようやく落ち着いた娘に居住まいを正した茜が声をかける。

「ええ、お聞きしたいんですけど、里の人は北海道を避けているけれど何故ですの」師匠モードになった母に夕姫もあらたまって疑問をぶつける。

「あの地は太刀守にとっては忌み地です。初代の光明様が怪や精霊、忘れられた神の居留地としました。以来余程のことが無い限りは踏み込む事も許されておりません。もし北海道へ訪れる時は怪を狩るための法具を持ち込む事、攻撃に用いる法力の使い手の侵入は禁じられています」

「そうか、だから宝剣類を真田の蔵に預けさせられたのか…んー、弥桜の能力は宝剣が無ければ予知と治癒のみか…バロンも剣が無ければ、ほぼ人畜無害だし」

「若と姫もあなた達を見込んで、そのような地に遣わすでしょう。充分覚悟して赴きなさい。ところで話というのは他でもない、貴方が凰で預かっている宝剣の担い手か試す為に呼びました」


 茜は道場の奥にある蔵に夕姫を伴った。凰の蔵には弓と矢の備蓄が整然と並べてあり、いつでも弓箭で戦える備えが出来ていた。夕姫も子供の頃、遊びに入り、かくれんぼなどに興じた馴染みの場所だ。

「こんなところに何が有るんです?」蔵の中は隅から隅まで知っているつもりの夕姫は母に尋ねる。

「あなた達にイタズラされない様、厳重に隠してあるのです」そう言って茜は古い鍵束から茶色に変色した鍵を掴み、蔵の最奥の壁のよく見なければ気付けない穴に差入れ回す。ガチャリと音がして鍵が外れると、茜は壁だと思っていた場所を押す。それは隠し扉でその向こうに一坪程の黒い壁の部屋が有った。

「こんなの有ったんだ…弥桜が見たら喜びそうね」夕姫は自分の遊び場だった場所のすぐ隣に隠し部屋が有ったことに驚く。

「まさかと思うけど、この他にも座敷牢とか無いでしょうね」

「まさか…そんなの有ったらあなた達の反省坊として利用してます。…アレです」茜が壁のスイッチを押すと裸電球が点き、部屋の中央に古い三方が置かれており、その上に赤い漆に金の鳳凰があしらわれた鞘の、見事な拵えの太刀が載せてあった。

「抜いてごらんなさい」茜に促され夕姫はズッシリと重い太刀を鞘から抜こうとする。

「これが試しですか…ナニこれ?」夕姫は太刀をズルリと鞘から抜いて見たが、刀身は黒く焼け焦げたようにボロボロで鞘から抜いただけで崩れてしまいそうだった。茜はジッと観察していたがあきらめたようにため息をつく。

「貴方も護人もりびととしては認められましたが、担い手ではなかったですね。やはり狩野かのうの者が担い手なのですね…」茜は残念そうに言う。

「どういう事ですか?この火事場から拾ってきたような刀身が宝剣なのですか?」夕姫は納得がいかず母に尋ねる。

「この鳳翼刀を抜けるということは貴方がこの宝剣の護手として認められたという事。紅は抜けましたが瑠璃と翡翠は抜けませんでした」

「じゃあ、紅はこの家に残る可能性が有ると?」

「そうなのかもしれない。本来の担い手が抜刀すれば、たちまち炎が吹き出し、刃が生まれ火焔の太刀となると聞いております。いわばこの爛れた刀身は不死鳥の灰。貴方達はその宝剣を抜くことは出来ましたが、刀身は復活しませんでした。もちろん私もですが」

「そうするとやはり狩野の血統が本来の持ち主という事?」狩野とは凰の本家筋の射手の一族ではあったが、元々銃火器に傾倒けいとうしていた事や、太平洋戦争中のある事件をきっかけに里を離れた。

 元来、狩野が里の老の資格を持っていた為に凰は代行となっているのだ。

「考えたくは無いけど、やはりそうなのでしょうね。できれば我が娘の内から担い手が現れないかと期待していたのだけれど…」茜は心底残念な顔をする。

「狩野の末裔ってまだいるの?」

「龍光君と同じ学校の同学年に一人いるそうですよ」


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「お帰りなさい。あら、弥桜ったら変なモノ背負って来て…コレは祓える類いでは無いわよ」北海道に向かう羽田発の飛行機に乗るため、関東に向かった四人は白桜神社に立ち寄った。そこで開口一番に弥桜の母、雪桜に指摘される。

「変なモノって?」弥桜は薄気味悪く自分の肩を視るがわからない。

「やっぱり鬼討伐に駆り出されたのね。ウーン、バロン君と輝虎君も貰っちゃってるわよ。ソレねぇ、鬼の怨讐おんしゅうみたいなモノだからはらえないの。相手の鬼が滅びるまで取れないわよ」雪桜が解説してくれたが

「ソレ背負っているとなんか障りが有るんですか?」直接鬼とやり合っていなかった為に一人だけ背負わなかった夕姫が尋ねるが

「そうね。別に呪いでは無いから健康被害はないと思う。しいて言えば他の妖怪達に襲われ無くなるわ。手を出したら鬼の獲物を横取りする事になるから。厄介ね…バロン君、近々もう一度鬼とやり合う事になるわよ。覚悟してね」雪桜は額にシワをよせて、残った少ない力で未来を見通した。

「僕がですか?あの両腕を斬り落とした鬼と?」バロンは意表を突かれた。あの鬼はもう再起不能だと思っていた。片腕ならともかく両腕の無い鬼に迫られるのは想像できない。

「ええ、お気の毒だけど今度は独りで立ち向かわないとならないかもしれない…」雪桜は頑張ったが特異点であるバロンの未来は絶えず振れ、弥桜共々鬼に殺される姿や、バロンが鬼と相討ちになり、弥桜が縋りついて泣く様子なども視えたが、大筋でバロンが鬼を下すらしいとは捉えられた。

 これは念入りにこちらも仕込みをしないといけないかもしれないと雪桜は感じた。

「いいわ、私も特別なお守りを準備してあげる。…ところで夕姫さん、あなたは背負ってきては無いけど、物凄く強い恨みを買っているわね。これでやっと判ったわ。夕姫さんに災難が降りかかる予見の正体が」雪桜は夕姫の方が厄介に視えたので眉をひそめる。

「…そんなに酷いんですか?この間、風呂場で娘さん達に散々ヒドイ目に会わされましたが…」夕姫はもちろん弥桜と三春にされた事をまだ根に持っている。

「娘の件はあんまり聞きたくないけど、あなたに降りかかる災難はあなた自身が招いたようよ。夕姫さん、あなた最近、人を射たでしょう。その男がひどく恨んでいて報復を企んでいるわ。多分、避けられそうにない…」雪桜が夕姫を気の毒そうに見つめる。

「…なんとかなりませんか?」さすがに夕姫も心配になってきた。お守りとかで避けられないものだろうか。

「そうねぇ。日記…そう!日記を書いておきなさい。出来事中心でなく、できるだけ自分の内心について恥ずかしがらずに書いたほうが良いようよ」

「日記ですか…」夕姫が腑に落ちない顔をする。日記なんて小学生の夏休み以来書いていない。その上出来事ではなく心情を記せと言う。まったく理由がわからない。

 しかし雪桜が告げたことが想像とは違っても、間違っていた事は今まで無かったのでしたがうことにした。


 バロンは吉野母娘から各々お守りを貰った。雪桜からは

「はい、武運長久の御守りよ。怨敵退散の御守りは相手が悪いと壊れちゃうけど、これはバロン君に向けて効果が有るから付けていれば死ぬまで有効よ。ウチの婿になってもらうんだから頑張ってよ」と今度は緑色の石で出来た腕輪念珠を渡された。

 雪桜からなにか指南を受け、ナニやら準備をしていた弥桜からは御守り袋を貰った。

「いい、絶対に中を開けちゃダメよ!それから肌見離さず身に付けてて。失くしたら許さないんだから!」いつになく語気強く、真っ赤になった弥桜から渡された。雪桜がニヤニヤしているのが気になったが

「ありがとう。大事にするよ。濡ちゃうからお風呂は外すけど、寝るときも離さないようにするよ」バロンが感謝を述べると

「あ、悪用しないでよ!バロン君がしたいって言うなら止めないけど…」さらに真っ赤になった弥桜が意味不明な事を言った。

「悪用?本当にナニが入ってるの?」バロンが胡乱うろんげだった。

「いいの!気にしないで!」

 雪桜が何故か含み笑いをしていた。


「弥桜、あなたの魂の妹からよ」雪桜は娘にも御守りを渡す。

「ソレ、結構念がこもってるわよ。坂田さん、わざわざここまで届けに来たの。鬼退治に同行出来ないからせめても、って」雪桜はまたもニヤニヤする。

「うぇ、ここまで来たの?」弥桜は露骨に嫌な顔をする。

「そんなに毛嫌いする事無いわよ。あんなに慕ってくれてるじゃない。それにその御守りは相当強い力が込められてるわよ。術の系統が異なるから詳しくは判らないけど、私の見立てではソレに救われる事になるわよ、あなた。愛の力ねぇ」

「う~、そうなの?持ってかないとダメかぁ」弥桜は嫌々ながら懐に納める。

「この御守りを追って何処までも鏡子ちゃんがついてくるなんて事無いでしょうねぇ?」


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 北海道についた四人は空港を出てロータリーに向かった。

 途中、舞い上がった弥桜があちこちのお土産に食いつくが、行きに買う事をどうにか諦めさせた為、バロンと夕姫はグッタリとしてしまった。

 ロータリーで迎えの車と待ち合わせになっており、犬神のピカピカのバンはすぐに見つかったが

「お疲れ様です」出迎えたのは朝顔だった。

「はな、朝顔さん、どうしてここへ?」聞いていなかった予定にバロンが代表して尋ねる。

「兄は欠格者でしたので、この度は私が皆さんをサポートいたします」朝顔こと犬神花子が理由を説明する。

「欠格って?」輝虎が気になって尋ねると

「兄は若干ですが法術が使えます。あの程度の力でも能力者である為に皆様と一緒にこの地で行動出来ません」犬神の力がどの程度かは判らないがバロンの予想を裏付けする。

「よろしくお願いします。朝顔さん」朝顔は体術オンリーらしい。

「…皆様方もよろしくお願いします。くれぐれも不純異性交遊は行わせないよう仰せつかっておりますので、そのおつもりで」朝顔の目が猜疑心でキランと光る。

「い、いやだなぁ。僕達、高校生ですよ。ねえみんな」バロンは弥桜の胸に目が行きながら弁解する。さすがに自分から催促が出来なくて、まだご褒美は貰っていない。輝虎と夕姫は目をそらす。

「一夏の想い出…ステキ…」言ってるそばから弥桜は明後日の方向を見て目を輝かせる。

 転校してしまっている為、夏休みの宿題は無効だと弥桜は思っているので、高校二年生の夏休みを全力で満喫する予定らしい。

「そうですか?でも特に夕姫さんの家は茜様と言う前科が有りますので、目を離さないよう注意いたします」茜は高校生活中に妊娠して、卒業してすぐに夕姫を産んだ。それも犬猿の仲と言われる真田の次男坊の子だ。

「お荷物と猫はもう宿に降ろして有ります。どうぞお乗りになってください」


「うわー、雰囲気があるー」事務局が用意した宿は牧場にほど近いログハウスだった。男子用、女子用と風呂場のプレハブの3棟が用意された。夏休みの旅行としては最高のロケーションだ。

「じゃあ、やっぱり食事は男子棟ね」夕姫が宣言する。朝顔も含め、女性陣は寝起きなど見られたくは無い。必然男子棟での料理と食事になる。

 朝顔的にも女子棟だけ監視すれば必要以上のイチャつきは防げると想定している。そう多分大丈夫なハズ…

「やあ、ペンタお待たせ」ソファーで気持ち良さそうに寝ていた黒猫はバロンの足元にすり寄る。


「お聞きの通り、今回は牧場の職員を中心に原因不明の記憶喪失が多発している事件の調査と可能であれば原因の排除です。ご存知かもしれませんが、ここ北海道では神の眷属、精霊はもとより、魑魅魍魎や付喪神等の怪を傷つける事は許されておりません」女子棟に入った四人はリビングで朝顔の説明を聞いている。四人とは朝顔、夕姫、弥桜にペンタだ。何故女子棟で行っているかと言えば

「例外は現地の精霊達を代表するものからの許可が得られた場合のみです。よってペンタ殿の力を借りる事となったのです」バロンに見られたら困る少女姿に化けたペンタは、ソファーに座って足をブラブラさせながらグラスに入ったサイダーを飲んでいる。

「どうしてペンタちゃんなんですか?」弥桜が最もな質問をする。本人は通訳と言っていたが、ペンタの性格を考えると最も不適格な気がする。気まぐれでいいかげんだし、すぐに食べ物に釣られる。

「精霊達は人間の前には姿を現しません。たとえ、いる場所が特定できても近づく前に逃げてしまいます。そこで警戒される事は有っても、逃げ出されないと思われる変化のペンタ殿に仲介をお願いした次第です」朝顔が淡々と説明する。

「あんた、そんな事出来るの」夕姫が疑いの眼差しでペンタを見る。

「絶対とは言わんが、全力を尽くす。ミハルとはそういう約束だ」ペンタは契約主以外と勝手に約束したという。

「ペンタちゃん…」弥桜が複雑な表情で飼い猫を見る。

「そうよね、三春さんに懐いていたものね」夕姫が呆れる。

「ああ、ミハルの気は美味しいのだ」ペンタは悪びれない。

「バロンや弥桜より?」イタズラ心が湧いた夕姫が尋ねると

「例えて言うならバロンはソーセージ、ミオは焼き魚、ミハルはチョコレートだな。比べようは無いが、人間でもたまには甘いものが欲しい時が有るだろう?」

「や、焼き魚…」自分の使い魔に心外な物へ例えられた巫女が落ち込む。

「ちなみに私やテルはどんな味か判るの?」夕姫の好奇心は収まらない。

「あまり舐められた事が無いので印象でしか無いが、テトラは牛肉、ユキは焼き鳥か唐揚げの匂いがするな」

「焼き鳥ねぇ」夕姫は納得いかなそうな顔をする。

「なんか、父さんの晩酌みたい」ペンタが大三の晩酌に張り付いていた事を思い出す。

 最初は不気味がっていた弥桜の父だったが、ペンタがよく食べるのを面白がるようになり、いつの間にか仲良くなっていた。

「話は戻しますが、ペンタ殿の強い要望でバロン様に正体を明かさないで事を進めるようになっています。従って精霊達の代表とのファーストコンタクトは我々女子だけで行う予定です。具体的には本日夕刻にパトロールと称し、男共と別行動を取ります。すぐにわたりが付けられる精霊と遭遇できれば良し、さもなければ弥桜様の神呼びの神楽にかけてみたいと思います」


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 バロンと行動出来ないと知って夕姫は先手を打った。

「妖精達と話を付けないと、ここでのお務めは始められないのよ。早く見つかると良いわよね」当然ペンタの事は伏せてバロンに話してみる。

「そうだね。きっとすぐ見つかるよ」人生、順風満帆で生きてきたバロンが楽天的な言葉を発する。そのせいか

「やっぱりね…」夕姫がため息をつく。

「なんだ、見つけたくなかったのか?」ペンタが不満げに尋ねる。先行したペンタが捜索を開始し、ものの5分も経たず小人のような人型の精霊らしき男女を連れてきた。夕姫の仕込み通りバロンの能力、お伽草子は離れていても効果が有ったようだ。

「ヌシ達が光明殿の一党か」髭を生やした男の方が口を開く。

「ええ、そうですが、光明様をご存知なのですか?」驚いた朝顔が思わず聞き返してしまう。朝顔も精霊らしき者が言っている光明が初代のことを指しているのは理解している。この北海道で光明と言えば初代しかあり得ない。

「ああ、光明殿は我々をこの蝦夷の地に導いてくれた。歓迎しよう、タチガミの一族よ」


 携帯でバロンと輝虎を呼び戻し、ロッジで精霊の二人と向かい合う。

「はじめまして。富士林楓太郎です。一応このチームのリーダーです。今回は原因不明の記憶喪失の原因の調査と排除をする為にここに来ました」バロンが代表して自己紹介をする。ペンタは黒猫に戻り弥桜の膝の上にいる。気持ち良さそうなペンタを少し羨ましく見るバロンだった。

「我々は遠い昔、この蝦夷の地に渡ってきた者だ。人間からはコロポックルと呼ばれている一族の先祖霊と言って良い。神に愛されし子よ」

「神に愛されし子?僕がですか?確かに僕は恵まれた環境に生まれたかもしれませんが…ところで先祖霊って貴方達は幽霊なんですか?」バロンは世界の紛争、貧困地域を回ってきて、自分の衣食住に困らない出生がどれだけ幸運か知っているので勘違いする。

「幽霊というかな、子孫が自分らを祀ったのでこのような形になった。しかし我が一族も人間に住む場所を追われ数を減らした。あと何年持つか…」

「そうですか、すみません」

「謝ることはない。時の流れによる必然だ。ここもたどり着いた時は静かだったが、こう人間が増えるとな。ところで原因不明の記憶喪失という事だが、我らにも覚えが有る。精霊達にまだ被害は出ていないが、悪い匂いの者たちが暗躍しているフシが有る」

「悪い匂いですか?」弥桜が興味を覚え身を乗り出す。

「人間と闇の匂いの混ざった様な嫌なモノだ。誰かが蝦夷の地に持ち込んだモノやもしれん。我々の中にも闇の匂いを放つものがおるが、あれ程攻撃的な匂いは発しない」コロポックルの男神は不快な顔をする。

「その匂いはどこから来るんですか?」抽象的な話が続いている為、夕姫が情報を引き出そうとする。

「人間の牧場の中からだ。羊の中から漂ってくる。羊の待遇がどうあれ、あそこまでの怨念は普通ではありえん」

「本題なのですが、僕達がこの北海道で調査をしたり、その嫌な匂いのするモノを退治しても構いませんか?」

「約定では精霊や魑魅魍魎でさえもこの地では害する事は許されんが、アレはどうも人間が持ち込んだモノのようだ。我がこの場で許可はできんが有力な精霊達に話をつけよう。それまで探索については黙認しよう」

「よろしくお願いします。ところで約定ってどんなものなのです?」バロンは北海道に来るにあたり、宝剣や攻撃的法術が使える者を侵入させない約定に興味が有った。里ではそうなっているからとしか聞けなかった。

「我々、精霊や人間達から迫害されていたものが蝦夷から秋津洲あきつしまに戻らない事を条件に、この地ではタチガミの一族等から害されないというものだ。タチガミの者以外からはその限りではないが、他の退魔師も遠慮してこの地で我々を害する事は行われていない。そのかわり、我々はこの地で人間を害する事は行わない。しかし秋津洲に残った者はこの約定に含まれん」

「そうなのですか。初代光明は何を思ってこんな事を取り決めたのかしら」夕姫が腑に落ちない表情をする。

「光明殿は予言に従って行ったと聞いた。王の再来の為の露払つゆはらいだと」

「王か…あの赤き王のことだよね。なんでだろう」夕姫はやはり納得出来なかったが本題では無いので、この話はそこまでにした。

「とにかく犠牲者が出た牧場と羊の関係を洗い出そう。それでこの人達の決断を待とうじゃないか。確認するが、向こうから掛かって来た時は応戦して良いんだよな?」輝虎がコロポックルのご先祖に確認する。

「ああ、約定を守らん者は我々も擁護ようごするつもりはない。こちらもなるべく早く意見をまとめよう」


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 コロポックルの男女神を見送るとバロン達は作戦を練ることにした。精霊達の裁定が出るまで漠然ばくぜんと待って被害者の増加を見過ごす訳には行かない。それに

「早く終わらせれば夏休みの残り、北海道で遊べるしね」弥桜がいつになく乗り気である。三春からのボーナスで新学期が始まるまでは北海道で夏休みを過ごせる事になっている。

「その為にも原因を突き止めないと」テーブルには犬神浩二が妹、朝顔に託した事件の起きた場所をマーキングした地図と、被害の詳細をまとめたレポートが広げられている。

「この地図で見ると事件現場どうしは結構隣接しているね。被害者の周囲には必ず羊の群れがいたとも書いて有る」バロンはレポートと地図を見ながら確認する。

 この程度はバロンと夕姫は移動中に閲覧済みだ。問題は輝虎と弥桜の方だ。チーム全員が認識を統一しておかなければ。

「牧場関係者が多いわね。症状に共通点は?」夕姫がおさらいするフリをして二人に確認させる。

「赤ん坊のように何も出来なくなってしまう人から、ここ数ヶ月程度の記憶が無くなる程度までピンからキリまでだ。あまり症状に共通項は無いようだね。どうする?被害者に会ってみる?」バロンが被害者への面会を提案する。

「そうねぇ。でもこれ以上の被害を抑えるのも緊急性があると思うの。手分けをしたらどうかしら。私とテルは目立つから羊牧場の捜索。バロンと弥桜は朝顔さんと面会可能な被害者達への事情聴取ってところでどう?」夕姫は高身長な自分や大柄な輝虎は目立つので被害者や関係者に警戒されても困ると思い、多少見た目は良いが悪目立ちまではしない三人に面会を任せようと意見する。

「そうだね、幸いテトラ達の足はバイクが有るしね」バロンが輝虎のバイクに言及する。犬神に手配してもらい、ここに移送してもらったのだ。

 輝虎はお務めに活用しようと思っただけだ。決して夏の北海道で夕姫を乗せてツーリングしたら気持ち良いんじゃないか、という下心が有ったわけではない。多分。

「わかった。とりあえず明日はそうしよう。バロン、左手どうしたんだ?」輝虎がバロンの左手首に巻いてあるスポーツ用のサポーターに気が付く。バロンがしているとテニスプレーヤーみたいだ。

「あ、ああ、コレね。ちょっと手首捻っちゃっただけだから心配しないで」バロンが何故か動揺している。

「そうか。いつも龍神の剣の腕輪していたから変な具合に見えるが…しばらく稽古やめとくか?」輝虎はバロンの体調を心配して稽古の中止を提案するが

「とんでもない。こんな事くらいで休めないよ。敵は体調の良い時ばかり襲って来ないよ」バロンがムキになって稽古を要望する。

「そうか、なら良いが」輝虎はそこでこの話をやめた。


「アダンの具合はどうだ」無事に帰還した豺牙が霞原の秘密研究施設を訪れた。夕姫から受けた矢傷は治療が終わったが、思った通り左腕は動きがぎこち無い。

「ハイお兄様、新しい腕の接合も終わり、拒絶反応も起きていません。これからこの個体をアダン改めアグンと呼称することにします」アグンの調整を行っていたエルが出迎えた。

 アグンと改名した鬼神は強化ケージの中で薬物により眠らされている。新しい名前を貰った鬼神は新しい能力も備わった。

「アグンは新しい両腕により人間を消し炭にするほどの火焔を放ちます。この腕の元の個体は本体が耐えきれず、腕を残し焼失してしまいました。幸いアダンの本体は硬度だけではなく、耐火耐熱にも優れていたので充分に耐えられました。火焔が想定より範囲が狭まりましたが、放射はされました。しかし、無理な接合を行った為に人型には変化できなくなりました」

「構わん。太刀守の奴ら、特に凰の小娘とフジバヤシとやらのチームを血祭りにあげられればそれで良い。そうでなければ左腕がうずいてたまらん」豺牙は怨嗟えんさのうめきをあげる。左腕はこのまま満足に動かす事はもうできないだろう。

「お兄様…」エルが心配そうに豺牙を見つめる。

「ところで北海道の方はどうだ?まんまと太刀守の奴ら食いつき、フジバヤシのチームを派遣したぞ」豺牙はこれから起る惨劇を予想して暗いよろこびに震える。

「ハイ、コユンには凰の特徴を覚えさせ、優先的に襲うように仕込んであります」エルが抜かりない事を伝える。

「そうか、凰の小娘め、目に物見せてやる。念には念をだ、アグンを北海道へ送れ。最悪のタイミングで奴らにぶつけてやろう。光明に並べて首を送りつけてくれる。そうだな、首尾よくいったら、フジバヤシの首はお前にくれてやるぞ」

「ああ、お兄様、愛していますわ」恍惚こうこつとしたエルが豺牙の胸に飛び込む。


 31


「ねえ弥桜、バロンにご褒美あげたの?」夕姫は好奇心から弥桜に尋ねた。作戦会議が終わり女子棟に戻ってきたので周りに男共はいない。朝顔には聞かれて困るほどではない。

「えっ、ま、まだだけど。夕姫ちゃんには関係ないじゃない。それに私、バロン君の活躍見ていないし」未成年のくせに鬼寄せのお酒を呑んで前後不覚になった挙げ句、記憶も飛んでしまった弥桜はタイミングを失い、バロンに胸を触らせてあげる約束を果たしていない。

「あーあ、バロンあんなに張り切っていたのに。あの晩だけでテルの記録を抜いて怪の撃破数トップに躍り出たっていうのに。カノジョがポンコツじゃあ報われないわねぇ」夕姫が呆れたように言う。

「ポ、ポンコツゥ?ひどーい、夕姫ちゃんのイジワル!」弥桜は心外だと抗議する。

「良いじゃない、触らせてあげれば。そんな大きなのぶら下げてるんだから。他に使い道無いでしょ?それに坂田さんにも妹達にも散々触らせてるじゃない」

「触らせてるんじゃなくて、勝手に触られたの!それにバロン君に安いオンナと見られたくないの。安易に触らせて何時でも触らせてもらえると思われたらダメな気がする」

「良いじゃないですか。触らせてあげれば。良いですか、オンナの売り時は短いですよ。高い時に売っておかないで後悔するよりもあのような好物件、咥え込んで離さないことです」今まで黙って聞いていた朝顔が突然口を挟み、経験者のように語りだす。朝顔の過去にナニがあったのだろう。

 確かにバロンは好物件だ。ルックスは良いし、父親側の祖父は東京に小さいながらも5階建てのビルのオーナーである。あのビルを相続すれば家賃収入でも遊んで暮らせるだろう。父親自身も子供に小遣いとしてビルを買える程の金をポンと渡したり、日本国内に数台と言われる外車を免許証を持てる年齢に達していない息子に置いていったりしている。

 母親の方を見れば詳細な係累については不明だが、祖父は大会社の経営者であるし、母親は有名な慈善活動家だ。余程のことが無い限り親のスネを齧っても食うには困らないはずだ。バロンがそんな事をするはずは無いが。

「く、咥え込むって…」弥桜がナニを想像したのか真っ赤になる。

「失礼、意気込みを申し上げただけです。でも宜しいのですか。バロン様は女性には誰でも優しいですよ。もしグイグイ想いを寄せてくる方が現れたら抗えないと思いますよ」

「そうよね、演技とはいえ坂田さんにも誘惑されてたもんね」夕姫が追い打ちする。

「オス猫は誘われたら誰とでもついて行くぞ。だが、人間はつがいになったら嫌になるまで一緒に暮らすのだろう。このままではミオは負けネコになるやもしれん。なにせムネは重いがオツムは軽いからな」鮭とばをかじっていたペンタまで主人をけしかける。

 頭にきた弥桜はつかつかと歩み寄り、使い魔から鮭とばをとりあげる。

「おお、悪かった。ミオはムネもアタマも詰まっているぞ」ペンタは返せ、返せとばかりに飛び上がるが届かない。

 弥桜との契約があるので悪口ぐらいは言えるが、取り上げられた物を力づくで取り戻すことはできない。

「アナタも私の使い魔なら、私とバロン君の仲が進むように手伝いなさいよ」弥桜は不満をもらす。

「それはできんぞ。契約に入っていないし、そもそもワシがバロンに正体をバラさず、ミオとの仲を取り持つなんて器用な真似できるわけなかろう」ペンタは開き直る。ペンタにも事情はあるのだ。

「頼りにならないわねぇ」弥桜はそう言いつつも鮭とばを返してやる。

「ところで坂田さんの御守りって何だったの?」夕姫が気になっていた事を尋ねた。

「ああ、アレね。強力な符が入っていたの。殺傷能力のない目眩ましの。きっと、珠子さん謹製のモノよ。アレを切って相手が怯んだうちに逃げろって事じゃないかなぁ」使わないで済むと良いけど、と弥桜。

「じゃあ、弥桜がバロンにあげた御守りにはナニが入ってるの?…まさか下の…」夕姫はあんなにかたくなに中を見るなと言っていた内容ブツに尋ねながら思い当たった。

「言わないで!…だって母さんが太古から続く強力なまじないだって言うから…」弥桜は真っ赤になって弁解する。

「アレですか。確かにアレは最強と聞いています。戦時中までは愛しい殿方に持たせて弾除けにしたそうですが。その上、今里でも人気急上昇中の巫女殿のものとなれば効きめ抜群、大金を積んでも欲しい方はごまんといるでしょう。しかし、そのような送る相手がいるだなんて羨ましいやら、恨めしいやら…」美人だが目付きの悪い朝顔に睨まれる。

「そんなモノが入っていたのね。だからあれ程中身を見るなって言ってたんだ。良かったじゃない、バロン寝るときも外さないって。どう?体の一部を彼氏に身に付けてもらう気分」夕姫はからかうが

「…夕姫ちゃんもどう?御守り袋の予備は持ってるから自分のりっぱなの入れてテルさんに渡したら?」弥桜はイジワルそうな顔をして夕姫にも勧める。

「えっ、私も?…ど、どうかなぁ、今回は私の身に危険が及ぶって聞いてるんだけれどなぁ。うーん、考えとく」そう言いつつも夕姫はまんざらでもなさそうだ。なんだかんだ言いつつも輝虎の身が一番心配らしい。

「夕姫ちゃん、母さんに言われた日記、ちゃんと付けてる?」弥桜が災難の件を思い出し、夕姫にその後を尋ねる。

「ええ、アレね。一応ノート買って書き始めたけど、何書いていいかわからないのよね。何故かテルの事ばかり…な、何でも無い!」夕姫は口が滑りそうになり、慌てて口をふさぐ。

「ふーん、へーんそうなんだ。やっぱり」弥桜が訳知り顔で頷く。

「若さって良いですね」朝顔はため息をつく。


 32


「じゃあ、行ってくるね。危ない事はしちゃダメだよ。なんか有ったら迷わず逃げて連絡してね」朝になり、記憶喪失の被害者に面会する為に朝顔の運転するバンで町の病院に行く事になったバロンと弥桜だった。

 輝虎と夕姫は観光客を装って羊を飼育している牧場をバイクで回ることになっている。最初に事件現場を回り、時間が有ったら予想される羊牧場を巡回する予定だ。

「判ってるって。じゃあな」輝虎が手を振って夕姫を乗せて走り出す。

「良いなぁー」弥桜が羨ましそうな顔をする。

「でも、アレ三人乗りは出来ないよ」バロンはなだめるが

「そういう事ぢゃ無いの。バロン君のドンカン!」弥桜がそっぽを向く。


 被害者の中で話を聞けたのはわずか三人だった。軽度の被害者は日常生活に戻って病院におらず、重度の者は会話が困難だった。

「それでなにか気付いた事は有りませんか?」今回は大学の精神科研究者の肩書を使って面会の機会を得た。

 朝顔の肩書は偽物だが、身分証明書は里の岩崎がやっている大学が発行した本物だ。バロンと弥桜は年齢を詐称し大学生の助手という事になっている。

 バロンはともかく弥桜は大学生と言い張る為に薄化粧をしていて、いつもと違う雰囲気に相方をドギマギさせていた。

「…気付いたも何もオレはまったく事情が分からねえんだ。記憶を失ってるって言われてもオレにはさっぱり…息子と名乗るやつにここに連れてこられて検査の連続だが、オレには悪いところなんかねえぞ。病院じゃ酒もタバコもやれねえ。早く出して欲しいね」牧場主だという男は不満タラタラで愚痴を返してきた。

「では、最近変わった事とか気づきませんでした?」朝顔は表情を変えず、忍耐強く質問を続ける。

「変わった事ねぇ。そう言えば妙なモノを見たような…確かウチの羊の群れの中にナニか…あー、思い出せん。これが記憶喪失って事か?」牧場主は頭を抱える。


「やはり証言は役に立ちませんでしたね」表情を変えずに朝顔が残念がる。

「そうでも無いです。あの人にも呪いが掛かっていました。かなり複雑でバロン君の時と同じ匂いがしました」お化粧のせいでいつもより大人っぽい弥桜が神妙な顔で話した。

「でもソフィアさんはもうこんな事はしないって言ってたし、呪詛を行ってたのって船から身投げしたエルっていうおっかないお姉さんでしょ」バロンが異議を唱える。

「でもあのソフィアってオンナはともかく、エルっていう性悪女は死体も見つかってないんでしょう。ああいう根性悪は簡単には死なないわよ。きっとあのオンナなら単独でもやるわよ」バロンの口から他の女の話が出たので、ムッとしながら弥桜は反論する。

 朝顔の話では無いがバロンは女性に甘すぎる。クルーザーを貰ったとはいえ、ソフィアには執拗しつように命を狙われたのに簡単に信用しすぎる。

 しかし、あのエルが霞原衆に救われ、手を結んだとはこの時は想像も出来なかった。

「じゃあ、呪いを解いてみる?北海道には持ち込めないけど青森辺りに龍神の鈴輪を持ってきてもらって解呪するとか」

「きっと駄目よ。呪いは解けるけど記憶もそこで固定されちゃうだろうから、奪われた記憶は二度と取り戻せなくなると思う」

「どうしたらいいんだろう?」バロンは困ってしまう。

「やはりこういうケースは呪いの元を断つのが定石かと」朝顔が正論を提示する。

「そうすると謎は羊の群れの中か…テトラ達大丈夫かなぁ」


 被害が有った羊牧場を回った輝虎と夕姫だったが、まったく手掛かりは掴めなかった。

 防犯カメラを設置されている所などほとんど無く、有っても警察が既に調査済みで異常は確認されていなかった。

 二人が出来たことは牧場を外から眺め、怪しい痕跡が無いか確認するぐらいだった。 

「なんにも無いねぇ」北海道とはいえ夏の日中は暑い。夕姫はヘルメットを脱いで手で顔を仰ぎながら辺りを見回しながらグチる。

「バロンの御利益も効かないか」輝虎が諦め半分でため息をつく。

 パトロールする事で被害が防げていれば、それでも意義は有るのだが、実際遭遇してしまったらどうなるか分からないとはいえ、手掛かりすら見つからないのはもどかしい。

「そろそろ次の発生予想地域に行ってみない?」飽きてきたわけでもないが、夕姫のやるからには結果を出したいという意外と生真面目な部分が出てしまう。

 夕姫の本音を言えば輝虎とこうしてバイクで二人きりでいるだけで嬉しいのだが、怪異を放っていける程不真面目でもない。

「そうだな。しかし吉野さん位に霊感が働けば跡を辿れたのかな」輝虎と夕姫の霊力の感受性は低い。

 事件の現場から嫌な気の痕跡は感じられるのだが、ソレがどちらに向かったかまでは感じ取れない。

 輝虎は今日何も見つからなければ明日はバロン、弥桜と一緒に牧場を回ろうと思った。


 33


 発生予想された場所の中に観光牧場が有った。羊達と戯れたり、ジンギスカンが食べられたりできる牧場だ。

「…おなか空いたね」ジンギスカンが焼ける匂いが漂ってきた。

「…ああ」なんとなく日中から焼き肉を、それもお務めの任務中に食べるのが後ろめたく思わないでもない二人だったが

「食べちまおうぜ。どうせバロン達もお昼は食ってるだろうし、吉野さんも朝顔さんもいるんだ、きっと美味しいモノ食べてるって」輝虎がそう切り出す。

 輝虎の予想通りバロン達は朝顔のリサーチによる人気の海鮮丼の店で舌鼓を打っていた。

 里の人間は北海道に来られる事が滅多に無いので、朝顔は綿密な下調べを行っていたのである。


「あー、おいしい!…でも羊を見ながら食べるのって罪悪感有るわね」そう言いながらもすでに五人前は平らげている夕姫だった。

「そう言やあ、バロンはナイフ一本で羊を解体できるって言ってたぜ。羊一頭を毛皮と肉に別けて料理と保存用に処理したことがあるって」さすがの輝虎も生きてる羊を見てうまそうだとは思わないが、広い世界では違うらしい。

「さすが世界を股にかける母親と歩いただけは有るわね。でもお肉おいしいね。大人になったらお酒が欲しくなるんだろうけど、今はコーラが一番ね。…ねえ、覚えてる?最初の間接キスは萬屋の店先のコーラだった事」夕姫がいたずらっぽく笑いかける。

「ブフッ!あ、あれはまだユーキのことを男だと思って回し飲みしただけじゃねえか」思わず吹き出した輝虎は抗弁する。

「そうだったよねぇ。あー、あの時のイタズラは人生最大で最高に上手くいったと自負してるわ。あの入学式の後のテルの顔ったら…今思い出しても笑えるわね」夕姫は小学校に上がる前に輝虎が勘違いしたことを良いことに、男の子として野山を共に駆け巡った。さすがに小学生になり、同じクラスになれば発覚したのだが。

「あの頃のユーキは後ろも前も真っ平らだったじゃねえか。誰が女の子だと気付くんだよ!」輝虎は真っ赤になって抗議する。

「おかしいと思わなかった?一緒にいても絶対にトイレに行かなかったでしょ?テルはその辺でホイホイ放り出して用を足してたけど。あーあの頃はあんなに可愛かったのに大きくて凶悪になっちゃって」夕姫がシレッと言いのける。幼い頃に男の子に興味津々で見ていた時と、弥桜の家の脱衣所で輝虎の全裸を見た時を比較しているらしい。

「…見てたのか」

「見たわよ。ホラ、自分のモノになるかもしれないし…」夕姫は目を合わさず白状する。自分に無い器官の成長に興味が有った事は否定しない。

「……」

「……」二人共に恥ずかしさのあまり、少々気まずい雰囲気になったところへ救いの手があらわれた。

「よう、ご両人、ツーリングデートかい?北海道へようこそ。これはオレのおごりだ」体格の良い中年男性がマトンが山盛りになったトレイを差し出す。

「良いんですか?」二人共に五人前平らげたがこの位の量はまだまだ余裕だ。しかし身に覚えの無い親切に疑問が有った。

「若いモンが遠慮すんな。見てて気持ち良い程の食いっぷりだったし、ウチの牧場もシーズン真っ盛りだって言うのに、客足が減っていてな、余っちまいそうなんだ」この観光牧場のダンディなあるじがグチをこぼす。そういえば夏休みだと言うのに客足はまばらだ。

「なにか有ったんですか?」夕姫にはもちろん心当たりが有ったが、聞き役に徹した方が情報を引き出せる事もある。

「最近、牧場の間で妙なウワサが流れていてな、牧場関係者に記憶喪失になったヤツがいるらしい。おおかたマヌケなヤツがすっ転んで頭でも打ったんだろうが、ウワサが広まるのは早くってな」牧場主は渋面で話す。

「この近くで起きたんですか?」夕姫が質問を続ける。どうせ聞くなら美人の方が口も緩む。

「それが参ったことにウチみたいに羊を放牧している所らしいんだ。羊から病気やなにやらで記憶を失うなんて聞いたことは無いし、単なるウワサさ」牧場主は肩をすくめ、去っていった。


 34


 参考になるかどうかはわからなかったが、追加の肉もぺろりと平らげ食事を終えた輝虎と夕姫は牧場を歩いて見て回ることにした。牧場の柵の破損や、毒草等も調べて回ったが収穫は無かった。

 輝虎がもう引き上げようかと考えながら夕姫と目の届く範囲で離れて歩いていると携帯電話が鳴った。バロンからだ。

「もしもし、輝虎だ。なにかそっちで判ったか?」


 輝虎が電話に出るのを見ながら夕姫は羊の群れに囲まれた。人懐こい羊たちで夕姫の腰やらお尻等を鼻先で押してくる。 

「いや、もうそんな所、突かないで。テルみたいにお尻が好きなの?あ、ちょっとくすぐったいってば。食べちゃうぞ」夕姫は羊達に囲まれこそばゆかった。その視界の端に不愉快なナニかがよぎった気がした。


『やっと繋がった。ソコ、電波悪いみたいだね。何度も電話したんだ』バロンが言いたいことがあるらしく、少し早口で話している。

「ああ、被害牧場を見終わって、予測地域の観光牧場に来ていたんだ。例の件は噂にはなってるらしい」

『そう、その事なんだ。被害者の数名に会ったんだけど、弥桜ちゃんが言うには呪いが掛かっていて、そのせいで記憶が封じられているんじゃ無いかって』

「じゃあ、呪いを解いたら良いんじゃねえか?」

『弥桜ちゃんと朝顔さんの見解によれば、無理に呪いを解くと記憶喪失が固定されて、二度と記憶を取り戻せなくなる可能性が強いそうだ。最良なのは呪いの元を断って解呪するのが一番だって。他にも気になる事を弥桜ちゃんが言っているんで、一旦戻って対策を練らないかい』そう聞いた輝虎が夕姫の姿を探すと、さっきまで羊とたわむれていた彼女が呆然と立ちすくしていた。明らかに様子がおかしい。輝虎は青ざめる。

 夕姫は落ち着きが無いと言われることは有るが、風景などにうっとりするところは見たことが無い。

「ユーキ!」輝虎が思わず大きな声で呼ぶと夕姫は呆けた様な顔でこちらを見て

「…誰…」


 35

 

 輝虎の連絡で駆けつけたバロン達は記憶を失った様子の夕姫を、牧場に悟られないように連れ出し、朝顔の運転するバンで非常用に指定されている病院に飛び込んだ。

 輝虎は呪いの主を探して牧場中をシラミ潰しに探したが日が暮れる頃、一緒に残った弥桜に諦めるようにさとされる。

「テルさん、気持ちはわかるけど、もう…」弥桜には痕跡は感じたが呪詛の発生源はすでに去った事を感じ取っていた。

 輝虎も頭ではわかっていたが、気持ちがどうにも収まらず、何かをしていないと崩れ落ちそうだった。

 輝虎があんな表情をした夕姫を見たのは初めてだった。笑っている時はもちろん、怒っているにしてもあそこまで無表情という事は無かった。

 あの赤くて辛いバレンタインの時でさえ激怒していたかもしれないが、無関心では無かった。

 あの時は針のむしろ状態だったのでわからなかったが、それなりに愛情が有ったからこそだったのだ。

 牧場で呪いに掛かったと思われる夕姫は輝虎を初め、朝顔はもちろん、バロンも弥桜もわからなかった。自分の名前はかろうじて思い出せたが、実家や家族構成、輝虎の実家との養子縁組等すっぽり抜け落ちていた。

 幸いだったのは言葉や生活自体は出来そうだという事だった。他の被害者の中には箸の持ち方から、トイレの使い方までわからなくなってしまっている者もいたので笑い話ではない。

 夕姫が立っていた場所には四人が吉野雪桜から貰って身に着けていた御守りの腕輪の数珠玉が散らばっていた。朱色だったはずの夕姫の数珠玉は黒く濁っていた。


 医者の診断の結果はやはり夕姫の身体に異常は診られなかった。MRI等にもかけたが脳にも外科的な異常は発見出来なかった。

「いったい何なのよ。私はどこも悪くないって!」変に常識が残っている為に終わりの見えない検査の連続に苛立つ夕姫だった。

 その様子に付き添ったバロンはハラハラする。

「テトラを置いてきて正解だった。僕でも見てられない」記憶を失い、変わり果てた夕姫の姿にバロンはため息をつく。

「まさか夕姫様がこのような事態におちいるとは」三春やお務めの事務局に連絡をとった朝顔だったが、突然の事態の為か上からの指示はまだ無く、慣れない任務に困惑していた。

「相談だけでも犬神サン、お兄さんに連絡とってみたいな…」朝顔の兄、犬神浩二は攻撃的法術が使える為に北海道に来れず、話によると溜まってる書類仕事に埋もれているそうだ。

「不本意ですが連絡取ってみますか?」基本無表情の朝顔だが、兄の話になると少々嫌だということが顔に出る。犬神浩二と何が有ったのだろうか。

「うん、どうしようもなく迷ったら僕から相談してみる。それよりもユキねえの状況を確認しないと」

 夕姫が検査着を着たまま診察室から出てきた。検査はこれで終了したので宿舎のロッジへ戻ることになるが不安だらけだ。

「ほんとにもう、私は何ともないって」状況が判らず、混乱していることも相まって夕姫はいつになく苛立っていた。暴れないだけマシだ。

 もし力づくで何かに及べば、ここに居る面々では取り押さえられない程、夕姫の膂力は強い。輝虎を呼んでこなければ駄目だろう。 

「親しい人の事も忘れてるのに?」バロンはなるべくことを荒らげないように夕姫自身に自分の状況を理解してもらうと同時に、奪われた記憶の被害状況を把握しようと努める。

「えっとー、バ、バロンって呼ぶんだっけ。私達どういう関係だったの?」夕姫は戸惑いながら質問を返す。

「ここでは詳しい話は省くけど、一年以上行動を共にしていた友人というか戦友みたいな間なんだ。自分の事はどの程度覚えてる?名前と歳は?」

「…凰夕姫よ。歳は17歳。確か高校生よ」夕姫は渋々といった感じで、今日何度も聞かれたことを答える。

「家族構成は?」

「両親がいるはずだけど思い出せない…やっぱり忘れてるの?」夕姫は薄ボンヤリした自分の記憶に気付き始める。

「うん、ご両親は健在だよ。兄弟がいるかわかるかい?」

「兄弟…いたかしら?うーん、いたような気もするけど…」夕姫はあの強烈な個性の妹達も思い出せない。

「いるんだ。かわいい妹さんが三人も」

「三人!そんなに?そんな事も忘れているの、私」夕姫は悔しさで下を向く。

「そんなに気負わないで。ユキねえのせいじゃないんだから…あ、やっと来たね」捜索を切り上げた輝虎と弥桜がバイクで病院へ合流した。

「ユー、夕姫はどうだった?」追い詰められた表情で輝虎が尋ねる。ユーキと呼ぶと混乱しそうなので言い慣れない夕姫と呼んだ。

「どうもこうも、人間関係はすっぽり抜け落ちちゃってるみたいだ。テトラ、辛いだろうけど気をしっかり持ってね」バロンが慰める。

「で、この二人は?」夕姫は自分の事を自分をはずして話されることに不満気だ。

「こっちが吉野弥桜ちゃん、神社の巫女さんで、ここ半年ばかりユキねえと一緒に寝起きしてた。で、こっちが…」

「笹伏輝虎だ。ガキの頃から一緒だった。思い出せないか?」輝虎は自分から名乗り、一縷いちるの望みをかけて問うが

「全然」記憶の無い夕姫は言い切る。

「テトラはユキねえの婚約者候補で彼氏なんだ」バロンが助け舟を出すが

「これがぁ?どっちかと言えばあなたの方が好みよ」夕姫は輝虎を下から見上げて疑い深げに言う。

「そっか、あらゆるしがらみから開放された夕姫ちゃんの好みはバロン君か。でもダメよ。これは私のだから。いくら夕姫ちゃんの頼みでも譲れないわ」そう言ってバロンの腕を取り、しがみつき睨む。

「と、取らないわよ。そっか、このデッカイのが私の彼氏ねぇ」記憶を失ってもなお衰えなかったオンナの勘が、弥桜にこの件で絡んではいけないとささやく。そして再度輝虎を見渡す。

「済まないな」実は夕姫の趣味に合致してなかったことに輝虎は気落ちする。

「ごめんなさい!」夕姫は自分でもわからなかったが、輝虎の表情を見て反射的に彼の袖をつかむと謝罪の言葉が口から出た。

「わぁ!」夕姫の女の子らしい行動に弥桜が歓喜する。

 福島以来、夕姫がよく輝虎の服の袖や裾を掴んでいるのを見かけた。もしかしたら少し記憶が戻ったのかもしれないと喜んだのだが

「ご、ごめん…」夕姫は自分のしたことが信じられず袖を放す。

「いや、いい…」輝虎も糠喜ぬかよろこびしたせいで、さらに落ち込む。

「今日はもう遅い。悪いけど弥桜ちゃん、しばらくユキねえに付いてやってくれないかい」これ以上輝虎と夕姫を見ていられなくなったバロンが口を挟む。

「うん、そうする」親友を見放せない弥桜は快諾する。

 実際、何を覚えていて何を忘れているか、本人も周囲の人間もわからないのだ。

「じゃあテトラ、後部座席は寂しいだろうけど独りでロッジまで帰ってね。あ、それとも僕が乗ろうか?」

「バカ言え、あそこは女の子専用だ」冗談を言ったバロンにやり返す。夕姫の状態を見て少々希望が持てる気がしたので、多少気持ちが落ち着いた。


 36

 

「凰の小娘、まんまと引っ掛かったぞ!どうやらカビ臭い約定とやらで太刀守の奴らも北海道には本腰を上げられないようだ。このままフジバヤシとやらのチームを全滅させ、光明に生首を送りつけてやる」豺牙は罠に大物が掛かった事に上機嫌だった。

「おめでとうございます、お兄様。引き続きコユンは他のメンバーを狙わせます。次はあのジンジャの暴力シャーマンを赤ん坊同然に記憶を奪ってやります」エルも久し振りの成果に悪そうな笑みを浮かべている。

「鬼神アグンの方はどうだ?」豺牙が機嫌の良いまま尋ねる。

「アグンの北海道への運び込みは完了しましたが、移送の為に凍結処理を行いましたので解凍処理中です。暴走を防ぐ為ですが、ご指示いただければすぐにでも」アグンは火焔腕を半ば強引に繋いだ為に安定しておらず、もし暴れれば周囲に被害を及ぼしかねないので、半冬眠状態で移送させた。

 解凍後ターゲットの近くで開放し、任務を果たした後、暴れ疲れたところを回収する方針だ。

 よしんば暴走が止まらなくても太刀守やバロン達を痛手を与えられれば上出来だ。

「了解だ。決行日は追って指示する。…私も行くか。ヤツラの酷たらしい最後は見逃せまい」


「父上、夕姫の件はいかが致しますか?」真田龍光が夕姫襲撃の報を聞き、父竜秀の執務室を訪ねた。

「もし必要であれば自分が法術封じを行い、現地に飛びますが」龍光は真田の人間らしく皮肉屋ではあるが、従姉妹の窮地を捨ておけない程度には心根はいい。

 法術封じとは術者の法力を一時的に封じ、不能者を装える術だが、回復に時間を要する上にそのまま法力が戻らなかったり、戻っても施術以前まで復活しない場合もある危険なものだ。実力主義の里において力を喪うのは致命的だ。

「…お前がそこまでする必要は無い。若も姫も動いていないのだろう。必要ならば我々が心配する前に手を打っている。おそらく葛城に助言は受けている筈だ。お前は学業に専念しろ」竜秀は確認している書類から目も上げずに言い放つ。息子のお人好し加減は美徳では無く、欠点だと認識しているのだ。

「しかし…」龍光は食い下がるが

「法力の無い者などいくらでもいる。もういい、下がれ」竜秀はまったく感情を込めずに息子に伝える。

「…わかりました」龍光は父には取り付く島も無いと思い、執務室を後にする。

 寮生活ですでに自分のものではないような気がしてきた自室に戻る長い廊下で龍光は想い人を見つける。

「…龍光さん、夕姫ちゃんの事を気にかけていただいてありがとうございます。でも、ご心配には及びません。兄には予想通りとまではまいりませんが、想定内のことのようです。少々、夕姫ちゃんには可哀想ですが。それに今回は虎光さんが現地に赴くようです。私達は信じて待ちましょう」三春は龍光が話してきた事を知っているかのように話す。しかし光明は夕姫がこのような惨状に陥いることを事前に知っていたのだろうか。

 龍光は幼少の頃より光明を実の兄のように慕い、それは崇拝に近いのだが、最近は時々何を考えているのかわからなくなる事がある。

 虎光は口数は少ないが光明とは心が通じているように見えて羨んだ事もある。

 龍光は疎外されているような気分に陥る。自分が一つ学年が下のせいか、それとも真田の人間だからなのか。

「わかりました。軽挙妄動けいきょもうどうは慎むようにいたします。光明さんはどちらに?」

「さあ、私も存じ上げません。夕姫ちゃんの為に何かなさっているのでは」三春が珍しく硬い表情で答えた。


「やあ、丹後君とはその後どうだい?」森の中の岩室に入って来るなり光明が尋ねる。

 この間の白月とヒイラギのやり取りが気になり、三春の側用人からいきさつを聞いてしまっていた。

「…とうとう若の耳にも入ってしまったんですね。ええ、おかげ様で順調です。聞きたいことはそれだけですか?」白月は半ば腹を立て、半ば呆れながら突き放す。

 今日は仕事モードなので目隠しをしている為に怒りは顔に出ていなかったが。

「そんな訳無いじゃないか。まあそんなに怒るなって。イザとなったら協力するから。葛城当主と鬼灯の秘蔵っ子の子供っていうのも見てみたいし」光明は悪びれずに言う。白月も丹後もいい歳なので師条の当主の命ならば周囲の反対が強くても強引に婚姻を結べる。

 聞くところによると葛城も鬼灯も関係者は大反対らしく、数少ない身内の助けが無ければデートも出来ないそうだ。

 弥桜ではないがロミオとジュリエットというのはあながち間違ってはいない。二人共いい大人なのだが。

「…結局野次馬根性ですか。約束しましたからね。丹後クンとの仲を取り持つって」白月の目は見えないが必死さは伝わってくる。

「仲を取り持つとは言ってないが…いっそ三春か母にお願いして、すぐにでも話を進めようか?」

「えーと、それは…あんまり急に進め過ぎると丹後クン尻込みしちゃうかもしれないし…もっとやんわりウワサを広めて、引くに引けないように外堀を埋めるような感じで…」白月は年甲斐も無く、目隠しをしているのに顔を覆いイヤイヤをする。

「…わかった。引き受けた以上、なんとかこちらも手を打とう。ヒイラギ姐さんに恨まれそうだな…」白月の醜態に当てられた光明はウンザリするが、今日ここで会合を設けたのは他でもない。

 「本題に入るぞ。夕姫があんな事になったが大丈夫なのか?出来ることなら今すぐ僕自ら北海道に出向いて、霞原衆の奴らをしらみつぶしに探し出し、八つ裂きにしてやりたいのだが」幼なじみな弟分を苦しめていると思われる霞原衆を光明はにこやかに血祭りに上げたいと言う。笑顔を崩さないが怒り心頭だった。

「ご安心ください。私の予知では凰さんのこの状態は一時的なものです。しかし、くれぐれも彼女を北海道から連れ戻したりなさらないでください。しゅを解いても記憶が回復しない公算が高いです」記憶を奪った怪が霞原衆の用意したモノと確証が得られた。北海道に駐在させている御護役と呼ばれる手の者から霞原衆の侵入と活動が怪の被害と一致する事が確認されたのだ。

「そうか、しかし北海道となると支援出来る事が限られるぞ。一応、虎光には向かわせたが」笹伏虎光は法術を使えない。その上、里への禁足中なので夏休みを持て余しているところだった為、今回はうってつけだ。

「しかし、イヤな卦が出ています。この間打ち漏らした鬼が北海道に向かっているようです。虎光さんには重々お気をつけるようお伝えください」

「あの鬼か!そうかバロン君が鬼と対峙すると言っていたのは北海道での事か!」かねてより白月からバロンが鬼と対峙する事になるので、準備させるよう助言されていた。

「そうなりそうですね。という事は、バロン君のチームは記憶を奪う怪と最凶の怪、鬼とのダブルヘッダーですね」簡単に口にするが、白月には四人の未来が予見出来ているので苦労はするだろうが生きては帰ってこれる事は確信出来ている。

 問題は不確定要素のバロンのお伽草子だ。これまでもバロンの力は白月の未来予知を滅茶苦茶にしてきた。幸い良い方に転がっているが、占術を生業としている者にとって迷惑きわまりない。

「そうか、もしもの時に備え、どのような支援も出来るように準備しよう」


 37


「まあ、みんな疲れただろうから取り敢えず夕食にしよう」バロンが男子棟のリビングダイニングに皆をいざなう。出掛ける前にタイマーをかけていたのでご飯は炊きあがっている。

「そう言やあ、車の後ろからいい匂いがしたんだがなんだ?」袋はしっかり口を締めていたが、バロンの影響で強化された輝虎の嗅覚は美味しそうな香りを嗅ぎつけていた。

「うん、こんな事になるとは思わなかったんで焼き鳥を買っておいたんだ。でもまあ生きている以上は食べないとね」バロンは記憶を失っているが食欲は失ってない夕姫のお腹が鳴っていたのを聞き逃さなかった。

「焼き鳥って…豚肉じゃない」常識らしいモノは残っている夕姫が指摘する。

「北海道では焼き鳥と呼称しつつも豚肉の場合があるのです」やはり事前にリサーチしていた朝顔が説明する。

「鶏肉が良ければ鶏肉のものも有るよ。さあ食べよう」バロンは持って移動している大皿に山のような焼き鳥を盛り付けた。

「…何人前?」常識は失っていないが、自分の非常識は覚えていない夕姫が驚く。

「えーと、20人前。少なかった?」これ以上はお店に悪くて頼めなかった。

「なに、まだ誰か来るの?」

「この五人よ。後はネコ一匹」匂いを嗅ぎつけたペンタがどこからか現れ、弥桜の脚にまとわりつく。


 くー

 普通に一人前を平らげた夕姫だったが記憶を失った頭と胃袋の見解が一致せず、まだ腹の虫が鳴いていた。

「…」赤くなる夕姫だったが

「食べなよ。色々有ってお腹空いているでしょ。いつものユキねえだったら残り全部でも食べられてたよ」バロンが遠慮するなと勧める。しかし夕姫のなまじ麻痺していない羞恥心が躊躇させる。昼は十人前のジンギスカンを平らげたのだが。

「…普段の私ってどんなだったのかしら?」遠慮がちに大皿に手を伸ばしながら疑問を口にする。

「おいおい思い出せば良いよ。今は食欲通り食べてよ」


 食事が終わり早めに女子棟に引き上げた弥桜が

「大丈夫?聞きたいことは無い?」夕姫の私室に案内して確認する。

「なに、あのクマ?」ベットの上に鎮座ちんざする大きな黒と赤のクマのぬいぐるみに頭を抱える。自分の過去が本当にわからなくなった。

「クワトロ君とリヒト君。夕姫ちゃんが名付けたのよ。毎晩黒いクワトロ君を抱いて寝ていたみたいよ。抱いてみる?」

「今は良いわ。汗をかいたまま、そんな事したくない」

「じゃあ、お風呂に入る?ここのお風呂大浴場というわけじゃあ無いけど、二人くらいなら一緒に入れるわよ」弥桜がいつものように一緒に入ろうと誘うと

「…あなたと私ってどんな関係だったの?」夕姫が恐る恐る尋ねる。

「親友よ。そうねぇ。最近はお風呂でおっぱいを揉んだり揉まれたりしたかしら…」弥桜がまた誤解をされそうな事を言う。

「…私って女の子が好きな人だったの?」若干青ざめながら質問する。

「そんな事無いよ、夕姫ちゃんはテルさん一筋だったもの。私のおっぱい、ううん、体だけに興味が有ったみたい」弥桜が説明すればするほど誤解は深まる。

 結局弥桜に押し切られ、一緒に入浴する事になった。


「ちょっと良い?バロン君」夜中に弥桜が男子棟に再来した。

「こんな時間に女の子一人で大丈夫なの?」バロンは弥桜の警戒心の緩さに心配するが

「大丈夫よ。数メートル位。心配性ねぇ」弥桜は笑うがバロン達は年頃の男子のいる建物に来ることを言っている。

「ユーキは?」輝虎は夕姫を心配するが

「大丈夫、くたびれてたらしくて、すぐに寝たよ。今は念の為に朝顔さんに見てもらってる」

「そうか。で、どうだった?」輝虎が気になっているのは弥桜の霊的な鑑定だ。医学的には異常は発見出来なかったが前例の報告通り、呪術に関する異常であれば弥桜の巫女としての能力が頼りだ。

「テルさんには気の毒だけど真っ黒よ。記憶だけで健康被害が出ていないのが不思議なくらい。バロン君の時と同じ匂いがする。アレはあのオンナの呪いのニオイよ」

「あのオンナって、キング・スレイマーン号の蛇のお姉さん?やっぱり死んでなかったんだ」エルはバロン達への襲撃に失敗して東京湾に飛び込んだ。

「でも、バロンに恨みが有ったとして、なんで北海道で騒ぎを起こしたんだ。まさか俺達がここに派遣されるなんてわからないだろうに」輝虎としては夕姫の記憶を奪われたのは偶然だと思っていた。

「何か僕達のわからない事情が有るのかもしれない。それで命に関わる事は有るのかい?」バロンの呪いは時々追加の呪詛で苦しんだほか、時限的に死の危険が有った。

「そちらは大丈夫だと思うの。念の為、お風呂場で夕姫ちゃんの体をすみからすみまで見たけど呪いの痕跡こんせきはおろか、シミ一つ無かったよ。あっ、でもあんなセクシーな所にホクロ有ったなぁ…ねえ、テルさん、羨ましい?どこに有ったか聞きたい?」自分でも気付かず前のめりになっていた輝虎に、弥桜はニンマリする。

「べ、別にユーキが心配だっただけで…」本心では猛烈に知りたい輝虎だったが我慢した。

「それで回復方法の見当は有るの?」話が脱線し進まなくなると思いバロンが要点を尋ねる。

「やっぱり、当初の見立て通り呪いの元を断たないとダメみたい。バロン君の時と違って厄介なのは無理に解呪すると記憶を奪われたままになってしまいそうなの。母さんに電話で相談したけど同じ見解だったの」弥桜は済まなそうに答える。

「それってエルさんを探し出してやっつけるとか?」

「多分本人はこの近くにいないし、呪いの媒介を倒せばいいと思うの。でも早くしないと夕姫ちゃんの記憶がどんどん失われて戻ってこなくなるかも」

「じゃあ、引き続き羊牧場の捜索を続けなければダメか」

「でも、明日は出ないと思うの…」

「しかし、早くしないとユーキの記憶が…」

「テルさん、辛いだろうけど安心して。夕姫ちゃんとの結婚式の未来はより鮮明に視えてるから。参列者の顔ぶれも判るくらい。最悪、夕姫ちゃんの記憶が戻らなくても結婚だけは出来るハズ」

「そんなぁ、滅茶苦茶だぁ」思わず声をあげたバロンの言う通り少しも安心できない。

「やめてくれ。そんなユーキ耐えられない。そのくらいならもとに戻って振られた方がマシだ」輝虎も悲痛な心情を吐露とろする。

「だ、大丈夫だって。母さんも一時的だって言ってたし。それより今の女の子らしい夕姫ちゃんを堪能しておいたほうが良いと思うんだけど」確かに記憶を失った夕姫の反応はいちいち新鮮ではあるが

「…それって酷くない?」さすがのバロンも呆れるが

「でも、あのオンナの狙いが私達を苦しめる事なら、思惑に乗ってやるのはしゃくじゃない?どうせ治るってわかってるならトラブルを愉しんだほうが勝ちよ。私はもう生まれたまんまの夕姫ちゃんを思う存分堪能したわよ」弥桜が鼻息荒く持論を力説する。

「…それってまさかと思うけど弥桜ちゃんの欲求を満たした訳じゃ無いよね?」バロンが疑いの眼差しで弥桜を見る。

「ま、まさかそんな訳ないじゃない。あ、あくまで呪いの確認の一環よ。ホクロを見つけたのは、もののついでよ」

「本当かなぁ」バロンの疑いは晴れない。

「吉野さん…」輝虎は風呂場のやり取りを想像して羨ましく思ったが口に出さなかった。

「とにかく決着は明後日に成るはずよ。明日はそれに備えて美味しいモノでも食べに行きましょ。私の勘がそれが吉と出てるの」弥桜は腰に手を当て自信満々だ。

「今日も美味しい海鮮丼や焼き鳥を食べたじゃないかぁ」

「やっぱりバロン達もお昼は美味しいモノ食ってたんだな」

「も、ってテトラ達も?」

「俺達はユーキが襲われた牧場で羊を見ながらジンギスカンを食べた…」輝虎は済まなそうに答えた。

「あー!ズルイ!きっと夕姫ちゃん羊のバチが当たったんだわ!」自分達の事は棚に上げて輝虎達を責める。

「そんな事を言ったら弥桜ちゃんは今頃エビに成っちゃてるよ。いや、カニかな?僕達、お昼は朝顔さんに連れられて海鮮丼の店に行ったんだ。ちょっとテトラとユキねえの顔がチラついたよ」朝顔が選んだ店ではこぼれんばかりの海の幸が丼ぶりに積み上げられていた。

 影の中にペンタがいる弥桜は店で一番豪華な『デラックス北海道丼』をぺろりと食べていた。こっそり影の中に具を落としてもいたが。

「じゃあこうしましょう。街へ出て私達はジンギスカン、テルさん達は海鮮丼を食べるっていうのはどう?」弥桜の随分状況を顧みない楽観的な提案がなされる。

「…それって弥桜ちゃんの願望が入ってない?」バロンが複雑な表情で問うが

「どーせ明日は街に行く事になるわ。私の弱い予知でもそうなってるの、詳細は判らないけど。だったら新鮮な夕姫ちゃんと共に残り少ない夏休みを北海道で満喫したって良いじゃない」

「…それが本音か。でも大丈夫か?あんな状態のユーキを連れ歩いて?」輝虎の良心は納得出来ないが

「へへへ、テルのダンナ、今の夕姫ちゃんは女の子女の子して可愛いでっせ。テルさんにも悪い話じゃないと思いますぜ」弥桜が悪そうに輝虎へささやきかける。思わず輝虎は生唾を飲み込む。

「わかったよ、明日は調査を兼ねて街に行くことにする。ユキねえも刺激が有れば色々思い出すかも知れないし。二人共それで良いね」バロンは弥桜の提案に半ば呆れながら降参した。

 将来、弥桜と一緒になってもこうやって振り回される未来しか見えず、ため息が出た。


 38


 バロンは念の為に弥桜を女子棟まで送り届けた。輝虎は『送りオオカミ』という言葉が脳裏をよぎらないでもなかったが、バロンに限ってそんな事は有るまいと送り出した。


「じゃあ」弥桜が女子棟に入っていくのを確認したバロンは男子棟に戻ろうと今後の事を思いながら歩いていた。

 北海道の夜は夏でも涼しい、今夜はTシャツでは肌寒いくらいだ。

 次の事態は明後日に何か起るらしいが、何もせず待ってはいられなそうだ。

 そんな事を考えながら帰る途中、誰かに呼ばれた気がして立ち止まった。

 バロンは辺りを見渡してロッジの後方にある林を凝視する。そちらの方向から呼ばれたように思えた。

 危ないかなと思いつつも、いざとなったら奥の手を使えば良いと思い、林の奥へ足を進めるとほのかに光る人影に出会う。

「アナタは…」


 もう高齢と言って良い男性は物音で目を覚ます。この住宅は街から離れている為、偶然人が通りかかることは無い。

 とっさに思い付いたのはクマだ。何度か家の近くでヒグマを目撃したことがあるが、今までは事なきを得ていた。

 カーテンの隙間から外を覗くと黒い小山のような影が見える。男は長年連添った妻を起こし、電話で警察にクマの出没を連絡する。

 このまま行ってくれれば良いが。クマらしきモノがいる方には納屋が在り、野菜等の食糧品が貯蔵してあった。

「ちょっとみてくる。お前は安全な所にいろ」男はクマ撃退用スプレーとゴルフクラブを握りしめて玄関を出る。


「なんだお前は!」クマを追い払おうと飛び出した男は有り得ないモノを目撃する。


 男の通報を受けた警察はパトカーで巡査部長と巡査の二名の警官を出動させた。到着した警官たちは信じられないモノに遭遇する。昔ばなしの絵本から飛び出したような角を生やした鬼が燃え上がる腕を突き出し、黒く炭化した人形のような何かを掴みあげていた。

「ヒトだ…」若い巡査はパトカーのヘッドライトに照らされた鬼が掴んでいるのは高温で灼かれ、小さく縮小した人体だとわかってしまった。以前に火災現場の捜索で見てしまった焼死体を思い出した。どうすれば人間をここまで焦がせる事が出来るのだろう?

「部長!撃ちます。撃たせて下さい!」巡査はパトカーを降りると、すぐに命の危険を感じて拳銃を構える。

「わかった!許可する!掩護えんごするぞ」部長もすぐさま回転拳銃を抜いて鬼に照準する。巡査が発砲し始め、部長も後を追い発砲する。しかし人に倍する身長を持つ鬼はものともしない。手に掴んだ焦げ縮んだ遺骸が崩れ落ちると鬼は警官達に振り向く。次の瞬間、警官達は鬼の姿を見失う。

「なっ?」驚いた巡査はすぐに辺りを探るが衝撃は真横から訪れた。ドスンとガチャンが一緒に来たような爆音と共に乗って来たパトカーが目の前から消えた。消えたのは錯覚だったが警官達の目の前にはパトカーではなく、パトカーを踏み潰した鬼がいた。鬼は二人の警官を逃げる間を与えず頭を掴む。

「?!」顔を塞がれた為に声も出せない二人は釣り上げられるが、その間にも鬼の腕から伝わる鉄をも溶かす高温ですぐに意識を失った。高温にさらされた警官達の身体からはついに自ら炎を発し炎上する。


「大丈夫なのか?鬼神アグンは勝手に人を襲っているようだが」アグンの襲撃を遠巻きに視察していた豺牙は鬼神のプラントに残るエルに連絡をする。

『はいお兄様、実地試験を兼ねた陽動としては充分です。接続した腕部も正常に機能しているようですし、本体も影響は出ていないようです。このまま暴れさせれば、正義感等にこだわるミュンヒハウゼンの小倅はおびきだされるはず。あの小憎らしい顔が焼かれる姿を私も見届けたいものです』

「そうか。しかしお前は鬼神の量産化にむけて尽力してもらわなければならん。無事任務が果たせれば焦げてるかもしれんがフジバヤシの首を手土産にしよう」

『ああ、お兄様、愛していますわ。お早いお帰りをお待ちしております』洗脳されたエルは豺牙を兄と疑わず心酔していた。


 男子棟から戻ってすぐにコテンと寝ついた弥桜の胸の上で寝ていた黒猫ペンタは、知らない気配を感じて目を開ける。

 しかし、害意は無いと感じてすぐに目を閉じた。どうやら気配の主が用の有るのはバロンだけらしい。

 大口を開けて大の字で寝る弥桜を見たペンタは、バロンには見せられないなと思いながら再び眠りについた。


「アナタは…」バロンはほのかに光を発するその姿に見覚えが有った。

「再びお目にかかる。和泉と申す」和泉と名乗った僧形の男は岩手の河童の中洲で出会った霊であった。

「楓太郎です。富士林楓太郎と申します。なぜこんなところにいるか聞いていいですか?」バロンは思いがけない再会に驚き、理由を尋ねた。

「拙僧はこの蝦夷の地に縁が有って見守っていたのだが、昔の因縁が悪を為そうとするのを感じ、そなたから助力を得ようかと、ここに参った」和泉坊がほのかな笑みを浮かべながら、バロンにこの邂逅かいこうの意味を話す。

「因縁ですか…どんな因縁なんです?」夕姫があんな状態で新たな問題に関わるのは困るなと思いながらも、ヒトの良いバロンは尋ねずにはいられなかった。

「なに、凰の娘にも関わりが有ることだ。現在は霞原衆と呼ばれる者共があの娘を陥れた。その上、この機に乗じてそなた達にとどめを刺さんとこの蝦夷の地に悪鬼を運び入れた。すでにこの地に災厄をもたらしている」和泉坊はバロンの心を読んだように夕姫の災難は偶発的に起きた別件ではないと言う。

「えっ、ウチの吉野さんの見立てでは僕の一族をつけ狙う呪術師が関係してるって…」バロンは太刀守の宿敵と自分のしがらみがどこでつなるのか不思議に思った。

「そなたの命を狙う女呪術師は霞原衆に拾われ、手を結んだ。凰の記憶を食べたしきと新たに現れた悪鬼はその呪術師の手によるものだ」和泉坊の霊がバロンに新事実を告げる。

「そんな…じゃあ僕のせいでユキねえがあんな事に…」バロンは愕然とする。

「そのようなことはない。あの娘も太刀守に繋がるもの。このような危険は覚悟せねばならん。しかし、これでそなたに助力を願いに来たことがわかろう」

「はい、それで僕は何をすれば良いのでしょう?」

「単刀直入に言おう。そなたには鬼を倒して貰いたい」

「僕がですか?名前は似ているかもしれませんが、僕は桃太郎じゃないし、光明さんみたいな武術も持っていませんよ。今の僕のチームでは難しいんじゃ…」

「…違う。そなた独りで鬼を倒すのだ」

「えっ!」

「その為に拙僧が及ばずながら、そなたに稽古をつけて進ぜよう。これでどうかな」そう言うと和泉坊はムクムクと大きくなり、先日バロン達が遭遇した鬼の姿に化ける。その巨躯からは光明との稽古のように闘気と殺気がバロンに吹き付ける。

「使いたまえ」鬼に化けた和泉坊はどうやって持ち出したのか、太刀朱羅刹をバロンに放る。

「この体は霊体だ。遠慮なくかかってきたまえ」鬼はこいこいと指で招く。

「…行きます」バロンは羅刹丸を抜刀する。

  

 39

 

「…もしもし」記憶を失っていると言われた夕姫は少しでも自分の事を知ろうと、持っていた携帯電話の『自宅』の番号に電話をしてみた。携帯電話の操作については覚えている。

「ユキちゃん?大丈夫か?パパだよ!」混乱するのを避け、こちらから連絡するのを禁じていたが、一縷の望みをかけて執務室の電話の前で一夜を明かした龍成がすぐに応答した。

「…お、とう、さん?」記憶を失ってさえ父親をパパとは言わない夕姫だった。パパと呼んだら何故か負けのような気がした。

「そうだよ、お前のパパだよ。酷い目に会ったんだって?大丈夫かい?私がすぐにそちらへ行ければ…」お務めの事務局から愛娘の災難を知らされた龍成は、北海道へ飛ぼうとしたが家族に力づくで引き留められ、悶々と電話の前で過ごした。

「…私は大丈夫よ。どこが駄目なのか判らないけど」電話はしてみたものの、やはり父親の事も思い出せない。

「本当に僕の事がわからないのか。大丈夫かい?記憶が無いことを良いことに、輝虎の野郎からいやらしい事なんかされてないだろうね?」男親として心配の種は尽きない。

「だいたい、一緒にいたそうじゃ無いか。それをアイツは…イタッ!…」頭を押さえた龍成は振り返ると妻の茜がスリッパを握りしめ立っていた。いつの間に後ろへ回られたかわからない。 

「いい加減にしなさい。夕姫ちゃん困っちゃうでしょう。代わりなさい。…夕姫ちゃん、ママよ」強引に龍成から受話器を奪うと娘に話しかける。

「お、かあさん?」やはりママとは呼ばない夕姫だった。

「そうよ。大変だったわね。何か困っていることはない?何かあったら輝虎君に頼るのよ。彼なら命に代えてもあなたを助けてくれるわ」夫と違い輝虎に全幅ぜんぷくの信頼を置く茜だった。

「しかし、アイツは夕姫ちゃんを守りきれ…」龍成が口を挟もうとするが

「呪いなんて防ぎようが無いでしょ。…色々不安でしょうけど周りの人の言うことを良く聞いて対処なさい。元通り元気になって帰ってこれる事を私達も願っているわ。なにか聞きたいことは有る?」オタオタするだけで役に立たない龍成を黙らせて夕姫に手を差し伸べる。

「いいえ。もう良いわ。頑張ってお母さん達のことを思い出せるようにするわ。じゃあまた」記憶にない知人に会ったように混乱した夕姫は、頭が痛くなりそうになったので電話を切った。

 家族の声を聞き、何か思い出すきっかけになればと思い電話してみたものの、わかったのは親のことも忘れているという事実とパパ、ママと呼ぶことを体が拒否するという事だけだった。

 恋人だという輝虎についても父として母では真逆の事を言われ混乱する。

 本当に彼は自分の彼氏だったのだろうか?

 はっきり言って輝虎は今の自分の趣味とは違う。

 その上、弥桜とは裸の付き合いらしく、自分の身体の事を良く知っていた。

 お風呂での事を思い出し、夕姫は赤くなる。

 普段からあんな事をしていたのだろうか?

 自分は何を信じれば良いのだろうか?

 夕姫は黒いクマに抱きついた。弥桜の言う通りクマからは自分の匂いがするような気がした。


「夕姫ちゃん、本当に大丈夫かなぁ」龍成は情けない声を出す。

「大丈夫よ。輝虎君もいるし、富士林君や弥桜ちゃんもいるんでしょ。それにあの子ったらこの後に及んで絶対ママって呼ばなかったし。きっと大丈夫でしょ」

「ああ、でも僕の事を思い出せないなんて耐えられない。やっぱり今からでも遅くはない、僕も北海道へ…」

「やめなさい。あなた、法力持ちでしょ。それに余計な事をすると記憶が戻った夕姫ちゃんに嫌われて、口もきいてくれなくなるわよ。ここはあの子達を信じて待ちましょう」茜ももちろん心配ではあったが、光明から大丈夫だとうけおってくれた為、信じていた。

 光明の背後には葛城がいる。悪い方には行くまい。


「おはようバロン君、…どうしたの、凄いクマよ。眠れなかったの?」弥桜が朝食の支度をしようと男子棟に入ると、昨晩別れた時とはうってかわって疲労困憊した様子のバロンがソファーにへたりこんでいた。

「…おはよう。弥桜ちゃんいい朝だねぇ」ちっともいい朝に聴こえないバロンの声だった。しなびていて七、八十の年寄りみたいだった。

「…お、おはようございます…」弥桜の後ろから、こちらも弱々しいあいさつがあったが、夕姫の声は疲労からではなく、羞恥心からの小さな声だった。

「よう、おはよう。オワッ!」洗面所から出てきた輝虎は驚きの余り声を上げる。学生服以外ジーンズばかりだった夕姫がキュロットとはいえ、スカートを履いていたのだ。

「…どう?かわいいでしょう?」弥桜が我が意を得たりとニタリとする。

「起きて着替えようとしたら、何故か身体の線が出るようなジーンズしか着替えが無かったんだ。それで弥桜ちゃんに相談したらこれを…おかしいか?」夕姫は赤くなりながら弁解するが、彼女のワードローブは最初からパンツルックしか存在しない。それはここにいる全員が知っている。

 しかし記憶を奪われている夕姫には異常と思え、弥桜からキュロットスカートを借りることにした。

 幸いヒップはともかくウエストは大差無かった為に融通できたのだが、履いてみると今度は自分に違和感を感じたのであった。

「似合ってるよ、ユキねえ」どんな状態でも女性を褒める事は忘れないバロンがフォローする。

「ああ、良く似合ってるぞ」一瞬見惚れたためバロンには遅れたが輝虎も夕姫を褒める。内心は喝采を叫んでいたが。

 昨晩の弥桜の言っていた事がやっと理解できた。

「あ、ありがとう…」このように女の子らしく照れる夕姫など、なかなか見られるものでは無い。

「それでね、夕姫ちゃんがスカートとかお洋服が欲しいんだって。やっぱり今日は街へ出掛けましょ」弥桜が輝虎達に念を押す。

「…そうだね。僕も今日は捜索なんか出来そうもないし」くたびれた感じのバロンは、まんまと弥桜の思惑に乗ってしまったと思わないでもなかったが、抵抗する気力も無かったので素直に従うことにした。


「バロン、本当にどうしたんだ。帰ってきたの朝だったろう?」女性三人が夕姫の私服を見繕みつくろう為にショッピングモールの洋服売り場に向かったので、輝虎とバロンはフードコートで待つことにした。輝虎は山のようなじゃがバター、バロンはクリームソーダを前にしている。

「…何でも無いよ。ちょっと眠れなくて散歩してたんだ…」半分ウトウトしているバロンは誤魔化した。実際は日の出まで鬼に化けた和泉坊と鬼を倒す為の特訓を行っていた。

 光明との稽古で強い闘気や殺気の中でも動けるようにはなっていたバロンだが、鬼の攻撃速度に対応するのは別の話だった。和泉坊の攻撃は肉体にはまったくキズを付けなかったが、死ぬほど痛かった。

「そうか。それにしては眠そうだが…」輝虎は間食のじゃがバターの山を征服しながら指摘する。

 朝食時にスープの皿に顔を突っ込みそうになったバロンを見ていた為だ。

 どう見ても不眠だけではなく、疲労もしている。

 弥桜とナニかが有ったのかと思ったが、おいたをしたにしては彼女の方は何の素振りも見えなかった為に輝虎は首をひねった。

「お待たせー」弥桜が元気良く戻ってきた。

「お待たせしました」朝顔も姿が見えた。しかし輝虎には夕姫の姿が見あたらない。

「ま、待たせたな」長身のワンピースを着た美少女が声を掛けてきた。

「ユーキ?!」輝虎は自分の目を疑った。

「ユキねえ!すっごいキレイだよ!…イタッ!」バロンが夕姫の薄緑色のワンピースドレス姿を手放しで絶賛するとムッとした弥桜にお尻をつねられる。

「元が良いと何でもお似合いになりますよねぇ」朝顔も軽い嫉妬が入った称賛をする。

「ニヒヒヒ、どうですかダンナ?かわいいでしょう夕姫ちゃん。せっかくだから普段絶対着てくれそうも無い服を選んだの。褒めて」弥桜は輝虎に耳打ちする。

「ああ、俺は今、モーレツに感動している」輝虎は目に涙を浮かべそうだ。

「というワケでテルさん、ドレス代ヨロシク」弥桜は輝虎に領収書を握らせた。こういうところはしっかりしている。

 輝虎は夕姫のワンピースを見られただけで代金など、何着分でも払ってやると思った。

 パンツルックの多い夕姫にとっての私服はスカートは元より、ワンピースドレスなど奇跡に近い。先日のキング・スレイマーン事件の時のドレスは潜入の為の衣装であり例外だ。

 特に高価なドレスではないが、夕姫が歩くだけで人々は振り返る。

「後で記念写真撮ろうね」弥桜は北海道に来られるということでカメラを持ってきている。弥桜は夕姫の写真でお小遣い稼ぎをしようと企んだ。

 

 40

 

 その後、輝虎と夕姫は朝顔に海鮮丼のお店のリストを貰い、時間の許す限りはしごした。

 バロンと弥桜は朝顔と共に街中のジンギスカンを食べた後、集合時間までお土産を見て回るつもりだった。

 バロンはお土産漁りにはほとんど参加せず、ひたすら休める場所を探して休んでいた。和泉坊は今夜も特訓の続きをすると言っていた。

「良いのですか、バロン様を放っておいて」多少後ろめたくなった朝顔が弥桜に尋ねる。

 朝顔も家族や同僚、三春達にお土産をどっさり購入していた。里では北海道に行ける者など、ごく少数で海外に行ったものより珍しい。

 お務めとはいえ北海道に行けるなど鼻が高いのだ。大量に配る為のお土産は後で発送しようと思っている。

「大丈夫よ。バロン君は旅慣れていて北海道くらいでは食指が動かないんだわ。きっとそうよ」お土産の物色に夢中の弥桜は適当に返事をする。

 弥桜は両親と里で親しくなった人達分とペンタの間食用を漁っていた。

「そうだ、夕姫ちゃんの妹達にも買っておかなくちゃ」凰家で紅達に約束したお土産を思い出し、リストに追加した。弥桜もお金は好きだが買い物はもっと好きだった。


 輝虎と夕姫は朝顔のリストを参考に海鮮丼の食べ比べを敢行していた。記憶の無い夕姫が大食いを恥じた為、輝虎は一箇所では多めくらいで済ませ、何件もはしごする事にしたのだ。

 初めは恥ずかしがっていた夕姫だが、自分の胃袋の声に従い輝虎について行った。

 最初は彼氏だという輝虎と二人きりになることを恐れていた夕姫だったが、今の自分以上に自分の事を知っている輝虎に警戒心を解いた。

 輝虎は夕姫の好みを良く覚えており、消極的だった彼女の注文を代わりに行った。

 輝虎はワサビを普通にしか使わなかったが、夕姫には多く勧めてくれた。自分が辛いモノが好きなことを輝虎は知っていた。

「何か思い出せそうな事無いのか?」ここまで必要な事以外話さなかった輝虎が、3軒目のお店で注文の品を待つ間に核心について口を開く。 

「さあ、何を忘れていて、何を思い出せばいいかもわからないの。正直言ってあなたが恋人だと言われてもピンと来ないし…」この親身になってくれる大男にすまないと思いつつ正直に答える。

「…良いんだ。夕姫は悪くない。さっさと呪いの元を断って記憶を取り戻そうぜ」輝虎はいけないと思いつつも、今の弱々しい夕姫もかわいいと感じてしまった。

 今まで色々あったがあくまでも『ユーキ君』の延長であったので、今ほど夕姫に女の子を感じたことは無かった。

 食べる事に集中していないと輝虎も照れてしまいそうだった。いや、照れ隠しに海鮮丼をかきこむ。

 あれ程食べたいと思っていた北海の海の幸の味がもう感じなくなっていた。


 おおよそお腹を満たせて待ち合わせ時間までどうしようかと、輝虎と歩いていた夕姫は

「…アレ、食べたいな」と看板を指差す。


「おっ、お前達もここにいたのか」輝虎と夕姫がその喫茶店に入るとすでにバロン、弥桜と朝顔が夕姫の目当てのモノに舌鼓を打っていた。

「やあ、お二人さん。デートはどうだった?」やっとフラつかなくなったバロンが手を振る。夕姫がボッと真っ赤になり

「デートじゃない!」輝虎が答える。いつもなら夕姫と息ぴったりに抗議するはずだ。やはり夕姫らしくない。

「夕姫ちゃんもこれがお目当て?さすがお目が高い」したり顔で弥桜が手招きする。

 輝虎と夕姫はバロン達の隣の席に腰掛ける。

「良くわかりましたね。私は教えていませんでしたのに」朝顔が驚くが

「夕姫が食べたいって言ったんだ。俺一人なら通り過ぎてた」

「まあまあ、早く注文したほうが良いよ。数量限定らしいから」弥桜が助言する。


 夕姫と輝虎の前にこの店の名物がやってきた。夕張メロンの二つ切りにソフトクリームを乗せたものだ。

「俺、これ食っていいのか?」大男の自分に似合わないモノを食べる姿を想像して輝虎はためらうが

「大丈夫、僕も食べたよ」追加で頼んだアイスコーヒーを飲みながらバロンが答える。弥桜は頬杖をついて夕姫が食べるのを嬉しそうに見ていた。

 夕姫が自分の分を食べ終えたとき、輝虎はバロンのお墨付きを貰っていたが半分以上残していた。

「…良かったら食べるか?」輝虎が夕姫に尋ねると恥ずかしそうに頷く。

「テルさん、やっさしー」弥桜が訳知り顔で茶化す。

「テトラ、やっらしー」バロンもニヤニヤとする。

「お前らなー」輝虎は少し怒って見せるが、夕姫が幸せそうにメロンを食べているところをみると怒りも収まった。そこに

「ムムム」弥桜にナニか降りてきた。

「来たわよ。コレは…」弥桜が放心したようになる。

「…」メロンを食べ続けている夕姫以外は弥桜に注目する。

「…明日、テルさんと夕姫ちゃんは呪いと直接対峙します。バロン君と私は別の凶悪な力と対峙しなければなりません…バロン君は協力者を信頼すること…」弥桜は本当の意味など判らず、神さまからの啓示を告げる。後半はバロンにしか意味がわかるハズもなかったが、それだけに信用できた。

 (凶悪な力っていうのは鬼の事で、協力者っていうのは和泉さんの事かな)バロンがそんな事を考えていると朝顔の携帯電話が鳴った。

「はい、朝顔です。…なんだ、兄貴ですか。それで何かようですか?義姉さんと茉莉ちゃんにはお土産を買いましたがあなたには無いですよ…え?」朝顔はお店に迷惑を掛けないようにバロン達に目配せをして外に出る。


「そうですか。ではいったん宿舎に戻って指示を待ちます」朝顔が電話を切るとバロン達が勘定を終えて出てきていた。

「犬神さん、なんですって?」すでにバロンには予想がついていたが

「事態が変わりました。鬼らしいモノが現れたらしいです」


 41

 

 ロッジの男子棟のリビングに戻った五人は朝顔から状況について説明を受ける。ペンタはこっそり弥桜の影から出てきて膝の上でお土産を貰って齧っている。

「という訳で、すでに鬼の仕業と思われる被害として一般人二名、警察官二名の計四名、全焼一軒、パトカー一台が確認されています。被害者はすべて身元がわからなくなるほど燃やし尽くされています」朝顔が淡々と被害報告をする。北海道という立地をかんがみ、ロッジには通信用にファクシミリが設置されている。犬神浩二から送られてきた資料だ。

「吉野さんの受けた啓示では夕姫の呪いの元は俺達二人、バロン達はその鬼らしきモノとやり合わなければならないんだろう?どうする?」輝虎がもっともな事を尋ねる。

「うーん、一つでも難しいのに同時に二つか…それにテトラの方はこの状態のユキねえを連れてだもんね」バロンは腕を組み悩む。

「及ばずながら私も輝虎様と夕姫様のご支援に回りましょうか?」朝顔が申し出る。

「待ってくれ。それだとバロンと吉野さんだけで凶悪な鬼と対峙しなければならないぞ。勝ち目は有るのか?俺は一つづつ解決したほうが良いと思うが」輝虎が異論を唱える。

「ダメよ。神さまからは牧場にはテルさんと夕姫ちゃん、私はバロン君と鬼退治って申し渡されてるんだから」弥桜が強く抗議する。

「と、顧問巫女様がそう申しているので、やれる方法を考えようか」バロンが方針を決める。

「やる方法たって、いつ考える?」

「弥桜ちゃん、決戦は何時いつだい?」バロンが顧問巫女に尋ねる。

「夕姫ちゃんの方は夕方、鬼の方は日没後ね」弥桜はまったく不安を抱いていないようだ。こういう時、弥桜は胆が座っている。

「じゃあ、明日の午前中までに対策を練ろう」

「ちょっと良い?私も戦えるかしら?」意味もよくわからない筈の夕姫が参戦を申し出る。


 ロッジの雑木林の木に板を立て掛け、即席の的を作ったバロン達は夕姫に弓を引かせてみた。蝙蝠丸の組み立て方は輝虎とバロンも隣で見ていたので知っていたし、夕姫が奪われたのは記憶だけで膂力は元のままだった事もあり、弓の準備は出来た。後は腕前だけだ。

 動きやすい服に着替えた夕姫はもっともスタンダードと思われる矢を選び、弓につがえる。そしておもむろに引き始めると

「ユキねえ!危ない」バロンが叫ぶがとき遅く、弓の弦で胸を弾いてしまう。

「?!」夕姫は声にならない声をあげ悶絶する。

「ダメだよ、ユキねえ、最近は特に胸が大きくなったんだからそんな引き方じゃ。それにいつも左の肩口までしか引いてなかったよ」おっぱいに関しては一家言有るバロンが見るに見かねて口を出す。

「なに、バロン君、最近は夕姫ちゃんの胸まで観察してるの?」弥桜がものすごい剣幕でバロンに詰め寄る。

「いや、そういう事じゃなくって…」バロンはしどろもどろに弁解する。

「…いずれにしろ、このままだと夕姫は戦力としては数えられんな。大丈夫だ、少なくとも牧場の方は暴力で襲って来ないらしいし、イザとなったら俺が守る」夕姫の胸をさするわけにもいかず、立ち上がる為に手を貸していた輝虎が主張する。

「そうだねぇ。となると問題は僕の方か…あの人に相談してみるか」バロンの最後の方は独り言だった。


 日が暮れ、夕飯を終えると小さな来訪者があった。

「困った事になった」コロポックルの夫婦神が再び訪ねて来た。

「秋津洲から災厄が持ち込まれたようだ。我々の同胞も怯えておる。なんとかせねば」男性神が災厄について説明した。

「やはり鬼の事のようですね。どうやら僕達を追ってきたようです。どうでしょう、僕達に討伐を任せていただけないでしょうか?」

「そうなのか。しかし太刀守の因縁と有れば我らも無関係とは言えまい。良かろう。この度の怪異騒ぎのみ、どんな手段を使おうが許そう。我が責任を持つ」男神が宣言すると女神も頷く。

「それともう一つ、約定には法力を持った者の北海道への立ち入りを制限していますが、今回だけは力をふるわないという条件で許していただけませんか?最大でも今月中には退去いたしますので」バロンが条件の一時緩和を申し出る。

「そちらも許そう。必ずや災厄を滅ぼしてくれ」


「すまない。私は足手まといのようだ…」女子棟に戻った夕姫は下を向いたまま言った。弓も満足に引けない、作戦の立案にも参加できない自分の不甲斐ふがいなさに意気消沈する。

「しかたないよ。今は異常なんだから。バロン君だって呪われてる時は約立たずだったよ」弥桜は自分の想い人も悪く言って慰める。

「なんとか記憶を取り戻す方法は無いだろうか?輝虎にもなんだか申し訳無い気がして…」両親の声を聞いても何も思い出せなかった自分を夕姫は責めていた。恋人だという輝虎と二人きりで過ごしたが、向こうはこちらを良く知っている片鱗を見せたものの、まったく何一つ思い出せなかった。

「あっ、そうだ!ねえ、日記、日記は観た?」弥桜は自分の母親が夕姫に勧めた日記の事を思い出す。雪桜はこの事態に備えて不思議な事をさせていたのだ。

「日記?そのようなモノ、つけていたのだろうか?」夕姫は私物の有る自室に戻り探す。日記がつけられたと思うノートはすぐに見つかった。備え付けのテーブルに有り、記憶を失う直前まで記していた形跡が感じられた。

「どれどれ…」弥桜がいち早く日記を手に取り中身を読もうとするが

「駄目!返して!」記憶は無いが本能的に見せては絶対にいけないと感じた夕姫が取り返す。

「ちょっとぐらい見せてよ」なおも弥桜は食い下がるが

「嫌よ。自分でも何書いたかわからないんだから。悪いけど出ていって」夕姫は有無を言わさず弥桜を退室させる。

 その後日記を開いた夕姫は涙とともに、弥桜に見せなかった事に胸を撫でおろした。そこには自身の心境とともに輝虎への思いが赤裸々につづってあった。 


「そろそろ終わりとしよう」鬼の姿から戻った和泉坊が肩で息をするバロンを見下ろす。

「ハァ、ハァ、ありがとうございました」バロンは汗まみれホコリまみれだったが、転んだときについたかすり傷以外は怪我らしい怪我もしていない。

 北海道の朝は早い。もうすぐ日が昇る。そうすれば霊体の和泉坊は姿を維持できない。

「どうです。鬼に勝てそうかな?」

「正直躱すのがやっとですね」

「それがわかれば良い」和泉坊が実も蓋も無い事を言う。

「僕はどうしたら良いんでしょう?」

「力の弱いものにもそれなりの戦い方が有る。そなたの強みは何かな?」

「僕の強みか…」

「自身の周りの人々を信じることだ。さすれば道は開かれん。また会うことも有ろう。さらばだ」そう言い残し和泉坊は伸びてきた朝日の中に消えていった。

「ああ、行っちゃった。もう少し色々聞いておけば良かったかな。僕なりの戦い方かぁ。たとえば僕の人生で体験したもっとも強い力は何だったろう…」気の抜けたバロンはそのまま大の字で寝てしまう。


「…バロン君、バロン君大丈夫?」弥桜がバロンを揺すり起こす。ペンタが察知して弥桜に教えたのだ。

「…やあ、おはよう」バロンは間の抜けた挨拶をする。

「おはよう、じゃないわよ。こんなところで寝ちゃってどうしたの?夏だって風邪引くわよ」弥桜はプンプン怒る。

「いやあ、鬼退治の為に稽古していたら、くたびれて寝ちゃった」バロンは照れてみせ、誤魔化した。

「稽古?一人で?ダメよ、今日が山場なのよ。今からへばっちゃって、どうするのよ。さあ、起きて!」まだ眠いしくたびれているバロンはノロノロと立ち上がる。

「うん、でも鬼退治の目処は思いついた。僕は大丈夫だから。今何時?」


『良く連絡をくれたね。夕姫は大丈夫そうかい?』自分の私室に戻ったバロンは光明に連絡をとった。

「ユキねえは取り敢えず大丈夫だと思います。輝虎君が必ず呪いの元を断ってくれる筈です。お聞きになってらっしゃると思いますが、鬼が出たそうです。僕はそちらを倒そうと思っています。ついてはお願いが有りまして…」


 42

 

「やっと着いた…バロン依頼の品、持ってきたぞ」昼も過ぎ、出撃の準備を整えたバロン達の前に犬神が現れた。朝顔は露骨に嫌な顔をしないでもなかったが、実際慣れない仕事の上、一人では手に負えない事態では有ったので内心は安堵していた。

「犬神サン、お疲れ様。悪いけどもうひと働きしてもらっていいかな」バロンは済まなそうにお願いする。昨晩コロポックルの神達に願い出た法力使いの北海道への進入許可はこの為だった。

「…オレは本州だけでも千キロは走ってきたんだぜ。少しはいたわってくれよ」バロンの連絡をもらった犬神は依頼された鬼退治用の資材をかき集めてトラックに載せ、夜通し走り、朝一番のフェリーに乗って北海道に上陸した。

「こんな時に役に立たないなんて…帰ったらどうです?」朝顔の肉親に向けての言葉は辛辣だ。

「判ってるよ。言ってみただけだ。何をすれば良い?」


「じゃあ、テルとユキは花子に任せて良いんだな」資材を載せたままのトラックで犬神はバロンだけを乗せ走っている。

「ええ、場所は弥桜ちゃんに啓示が有ったそうで、そちらに向かってもらいます」

「返り討ちに遭わないといいがな…ここは?」バロンの指示した場所は何も無いのにフェンスだけが続き、犬神は疑問を持つ。

「自衛隊の演習場です。これからやることに条件が合うのはここだけだったので、光明さんにお願いしました」バンはゲートに入っていく。


「…かかったな」バロン達を監視させていた部下から報告を受けた豺牙は笑みを浮かべる。

「コユンの状態はどうだ?」豺牙の配下は輝虎と夕姫がコユンを探して牧場に出発したことを確認している。先回りしてコユンを配置し、輝虎からも記憶を奪ってやるつもりだ。

「笹伏の特徴も覚えさせました。記憶を奪ったうえ、二人まとめてなぶり殺しにできましょう」コユンの責任者は成果をうけおう。

 フジバヤシ達は少ない戦力を分散させた。豺牙達にとって格好の餌食だ。

「アグンも上々の仕上がりだ…そうだな、エルには悪いがフジバヤシの首は黒焦げかもしれんな。フハハハ…」鬼神アグンの火焔腕は想定以上の力を発揮した。

 欠点といえば掴んだモノすべてが黒焦げになってしまい、捕食が出来なくなったことだ。

 エルによれば焼死体からでも精気を吸収できる為、問題は無いということだが。

「あの邪魔な白桜の巫女、今度こそ鬼神のエサにしてやる」鬼神達を呼び寄せる事ができ、二度までも煮え湯を飲まされた弥桜に憎悪を向ける。なるべく酷たらしい死に様を与えようと豺牙は企む。

 フジバヤシの前で滅茶苦茶にしてから息の根を止めてやろうと思った。今夜は最高の夜になりそうだ。


 弥桜は風呂場で作法に則り沐浴を行い、体を清めた。

 その後、犬神が持ってきてくれた戦闘巫女装束に袖を通す。前回のゴルフ場では酔っ払って寝てしまい、活躍の場が無かった物だ。しかしこの服の戦闘能力は護身用に特化されている為、大活躍している時は弥桜のピンチでもあるので、性能を発揮しないで済むなら、それに越したことはない。

 母、雪桜の御守り数珠を手首に巻きながら思い出す。

「そうだ、鏡子ちゃんの御守りが有った」福島からわざわざ神奈川の白桜神社まで届けに来たという御守りを思い出した。

 巫覡として非凡な鏡子の姉、珠子が作ったらしい御守りは強力そうだ。預かってくれた雪桜も太鼓判を押す代物だ。

 違う神さまのモノを堂々と身に着けるのは気が引けないでもなかったが、迷惑とはいえ鏡子の好意からのモノなので気にしない事にした。

 支度が済んでしばらく経つと呼び鈴が鳴る。犬神が迎えに来たのだ。


 43


 弥桜に指示された場所は未だ被害が出ていない羊牧場で観光客向けのものではなかった。その為、悪いとは思いつつ人目のつかない場所から柵を乗り越えた。

 だいぶ日が傾き始めた。暗くなる前に決着はつくのだろうか。

 輝虎は折り畳みの柄の付いた戟と、弥桜に持っていくように言われた夕姫の蝙蝠丸をケースに入れて持っている。

 いずれ呪いでは活躍の場は無いだろうが、用心に越したことはない。

 この牧場の放牧地は起伏にとんでおり、厩舎からの死角も多く、もしワナを張るなら絶好の環境だった。

「マズイかな」輝虎は呪詛の方法に見当がつかないなか、どうしたら良いか途方に暮れる。おまけに本調子ではない夕姫を連れているのだ。もし何か有ったら夕姫だけでも守らねばと思っている。念の為に朝顔はバンの中で待機している。

 当初、輝虎は夕姫を置いていこうと主張したが、本人と弥桜の反対にあい、今にいたる。

「大丈夫か?目が腫れてるぞ」輝虎は今朝から口数少なく、目もなかなか合わせない夕姫を心配する。二晩続けて徹夜したらしいバロンではないが、夕姫も目が腫れている。

「大丈夫、何でも無いから」夕姫は目を逸らしたまま返事をする。

「そうか。…しかし何を捜せば良いのか…」弥桜は羊に注意しろと言っていた。

 確かに記憶を失った夕姫は羊の群れの中で発見した。羊の中に何か紛れているのだろうか。

 しかし、警戒心の強い羊に何か潜んでいれば群れに異常がみられないものだろうか?

 輝虎がそんな事を考えていると、遠くにいたはずの羊の群れがこちらに向かって来るのが見えた。


 自衛隊の演習場ではバロンと打ち合わせの上、太刀守の里出身の数人の自衛官が犬神が持ってきた資材を設置していた。

「本当に君達だけで大丈夫なのか?」篠塚一尉は光明の依頼でこの鬼討伐の為に、自衛隊内で様々な手配を秘密裏に行う事になっている責任者だ。

 里の出身の自衛官は多数存在するが、法力を持たない為に北海道に着任している。

 当然、鬼はもちろん、怪を見たこともない。

「ええ、おそらく岐阜で討ち洩らした鬼なので、ここで討ち果たします」バロンは山の影に沈んでいく太陽を仰ぐ。暗くなれば怪異の跋扈ばっこする時間だ。

「そうか、しかし気をつけてくれ。若がいて取り逃がした上、確認できただけでも十人以上の人間がやられているそうじゃないか。俺の知り合いもやられたと聞く」篠塚は里にいた時分は笹伏道場に通っていた。輝虎も死んだ篠島茂も顔なじみだった。

「ありがとうございます。後は打ち合わせ通りご尽力いただければ、必ず討ち取ってみせます」仮眠を取れたバロンはしっかりとした口調で断言する。これも犬神が持ってきたバロン専用の鬼討伐戦闘服と、ゴーグルを身に着けている。ゴーグルは祖父アレックスとドライブする為に作った使い慣れた物だ。

 すぐそばにトラックで白い演台が設置される。基地祭等のイベントに使用される物を借りだした。弥桜の鬼寄せの神楽を舞う為に用意した。そこへ犬神が借りた4輪駆動車で弥桜を連れてきた。バロンと二人だけで鬼退治する為に緊張を隠せない。

「お疲れ様。犬神サン、もう一段落するまで寝てても良いですよ」

「馬鹿言え、お前らが体張ってるのに寝てられっか…と言いたいところだが、もう限界だ。篠塚さんに後はお願いしてどっかで寝させてもらうわ」犬神の両目の下に真っ黒なクマが出ている。

「大丈夫ですよ。犬神サンの目が覚める頃には鬼の首を取っていますよ」

「そうか、じゃあ遠慮なく。ああ、それからお願いされてたヤツ」犬神が一升瓶を差し出す。やはり『鬼殺し』と書いてある。どうも験担げんかつぎの好例になっているようだ。

「くれぐれも未成年の巫女様には飲ませないように」さらにどこで入手したのか、お盆のように大きな盃をバロンに手渡す。

「カップ酒より体裁良いだろ。じゃあ無理するな、って言うのも無理か。とにかく大怪我するなよ」犬神は手を振って立ち去る。

「みなさんも作業が済みましたら、この場を離れてください。後は僕と吉野さんで鬼を呼び寄せ、倒します」

「…本当に二人きりでやるんだな。わかった、例の件準備しよう。君達を信じるぞ」篠塚一尉は現場での作業の完了を確認して里出身の自衛官を引き連れ撤収した。暗視カメラを要所々々に設置しているので、戦闘の経過は観察する事になるのだろう。


 44

 

 夕姫の手を引く輝虎は羊の群れに囲まれるのは自殺行為だと思い、群れの進行方向から逃れるように移動したが、群れは進路を輝虎達に向けて変えた。明らかに狙われている。

 輝虎が注意をその群れに引かれていると、バロンの能力で強化されている嗅覚に物凄くイヤな臭いが飛び込んできた。

 気が付くと反対側からも羊の群れが接近しており、すでに逃げ道が狭まっていた。

「しまった!囲まれた」輝虎はいざとなったら夕姫を担ぎ自慢の脚力で退散する事も考えていたが、すでに羊を傷つけずに疾走することは叶いそうに無い。

 最悪、戟で羊の群れをなぎ倒し、文字通り血路を開く事も脳裏をよぎったが、罪もない羊を手に掛けることや、肉になった時の値段から類推する羊一頭の弁済額が頭の片隅で主張し一瞬躊躇してしまう。

 羊の二つの群れは一つになり、輝虎と夕姫を中心に取り囲んだ。この後何が起こるのかわからないまま、輝虎は呆然としてしまう。

 夕姫だけは守らなければという思いと、このまま二人何もかも忘れてしまうのも仕方ないかという想いも込み上げてきた。

 酷く生臭いイヤな臭いはするが、羊の群れから放たれる臭いに混じり、発生源はまったくわからない。

「どうするの?」傍らの夕姫が尋ねるが

「……」輝虎は何も言わず夕姫を守るように抱きしめ羊の群れに沈んでいくようだった。

「ちょっと、きついよ。汗臭いし…」文句を言いかけた夕姫だったが、その刹那脳裏を走馬灯がよぎる。

 輝虎と出会った河原、駆け回った山野。

 小学校入学時の輝虎の鳩が豆鉄砲を食ったような顔。

 彼が自分を娶る為に地獄の修行に出ると言った事。

 輝虎が修行を終えた日に迎えに行った事。

 自分に内緒でお務めに応募した事。

 輝虎が牛頭からかばって大怪我をしたり、勘違いから牛頭を八つ裂きにしてくれた事。

 臭いは記憶を呼び覚ますというが、夕姫にとって大事な人の汗の匂いがそのきっかけになった。

「…そこっ!」夕姫は電光石火の速さで輝虎を突き飛ばすと、彼が担いでいたケースから蝙蝠丸を取り出し、展開すると手品のように現れた破邪の矢を番え、その瞬間も気付かせぬまま、ある一点に向けて放った。

 記憶を奪われる前の腕前で放たれた会心の一矢は、羊を躱して狙い通りのモノに突き立つ。

 眉間から矢羽根を生やしたそれは、悪意から造られた羊のカリカチュアのようだった。

 生命を冒涜するような醜悪な姿の羊モドキは悲鳴もあげられないまま地面に倒れ伏す。

 やっと支配から解かれたらしく、異常なその遺骸から羊が遠ざかっていく。

 倒れた体は酷い臭気を放ちながら、梅田広子と同様に黒い液体になって牧草地を汚す。

「ユーキ、戻ったんだな」輝虎がケースを離し、夕姫を強く抱きしめる。

「…ごめんなさい、ごめんなさい…」夕姫が顔をくしゃくしゃにして泣き出す。

 奪われた記憶は返ってきたが、奪われていた間中の記憶も失われていなかった為に、どれほど輝虎を傷つけてしまったかと思い、号泣してしまう。

 夕姫の人生の中でこんなふうに泣いたのは初めてだった。

「泣くな、ユーキ。俺はお前の笑顔だけを見ていたくて生きてるんだ。泣いても良いが嬉し泣きだけにしてくれ」輝虎が優しくなだめる。

「…でも、テルの事をあんなに傷つけて…」夕姫は泣きじゃくるが

「良いんだ。もう済んだ話だし、お前のせいじゃない。さあ、笑ってくれ」

「…うん、ごめん…」やっと涙を浮かべたまま夕姫は微笑む。

「バロン、こっちはなんとかなったぞ。そっちも上手くやれよ」


 45


 山陰に陽が完全に沈み、演習場が闇に包まれる。

 篠塚達が設置してくれた投光器の光に演台場の弥桜が浮かびあがる。

 盃には一升瓶から酒が注がれ、弥桜の血を数滴たらし、鬼寄せの準備は整っていた。

 バロンの厳重な監視の元、準備されたので弥桜は一滴も試飲することは出来なかった。

「いきます」いつもより若干緊張気味の弥桜はそれでも鬼寄せの神楽を美しく舞う。

 今日は星辰の剣は無いため、扇を持っている。しかしソレも岩崎工房製で見た目によらず、強化繊維とチタン合金でできており、開けば弾丸も受け止められるし、閉じれば防弾ガラスも叩き割れるそうだ。忍者好きの弥桜にお似合いの逸品だ。

「はいバロンです。えっ、ユキねえ?元に戻ったの。うん、それは良いんだ。良かった。じゃあ思う存分テトラに甘えてあげて。うわっ!…わかった。弥桜ちゃんが鬼を呼んでるからまた後でね」バロンの携帯電話に無事記憶を取り戻した夕姫から連絡が入った。

 バロンがからかうと怒られた。いつもの夕姫だ。

 電話中も弥桜からは目を離さなかったが事態に備え、話を手短に終わらせた。

 舞い始めて五分ほど過ぎると霊感の薄いバロンにも背筋に寒気を感じ始める。もちろん気温はまだ暑いくらいだ。

 するとヒュルヒュルと風切り音が聞こえたと思うとバロンと演台の間の地面が爆ぜた。

「しまった!」たとえ弥桜の向こう側に鬼が現れても対応できるつもりであったバロンだったが、空から現れ弥桜との間に割って入られるとは思わなかった。

 前回も跳躍力を使った攻撃を繰り出していたが、警戒範囲外から直接攻撃してくるのはバロンの想定外だった。

 青い鬼はバロンが最後に見た時に失っていた角と腕を復活させており、万全の状態に見える。

「弥桜ちゃん!」バロンは追撃しようと動くと同時に、弥桜へ注意を促す。

 弥桜も突然の鬼の出現に気付き舞うのを中断したが、思いのほか近くに現れたので顔がひきつる。

 鬼の移動速度では一飛びの間合いだ。それはすぐに具現化される。鬼が弥桜に飛びかかる。

「イーヤァー!」弥桜が両手を鬼に伸ばし、袖の内側にあるタグを引っ張る。岩崎工房渾身の作である戦闘巫女服が火を吹く。

 巫女装束の袖に仕込まれた金属性の球が鬼に向かって射出される。鬼用に調整された合金でできた球は両袖でショットガン十丁分の散弾の雲を作ると、そこに鬼が突っ込む。

 刃物が通らない程頑丈な皮膚を持つものの、至近距離で高速射出された金属球を浴び、たまらずたたらを踏む。

 人間だったら5、6人、乗用車でも吹き飛ばせる威力だ。

 鬼の前面はあばただらけになる。

 顔を掻きむしり、めり込んだ金属球を肉ごとかき落とすと弥桜を睨む。

 弥桜の方は散弾を撃ちきり、近接戦闘用に有効な武器を使いきってしまう。

 散弾を放った装束の袖は千切れてノースリーブ状態になっている。

 安全第一が謳い文句の弥桜用戦闘服だったが、対鬼散弾はかなりの無理をした装備だったらしい。ただし弥桜自身はまだダメージはない。

 しかしこのままではそれも風前の灯に見える。

 鬼が再び弥桜を仕留めようと振りかぶると、彼女の胸元にぶら下がった御守が閃光を発する。再び顔を覆った青鬼がよろける。

 鏡子に貰った御守は焼き切れたが役目を果たしたのだ。「弥桜ちゃん、ナイス!」弥桜とバロンにはまったく眩しくなかったが、鬼には目が眩む光だったらしく、固く目を瞑ったまま、むやみに腕を振り回す。その間に追いついたバロンは鬼の前に回り込み

「これでも喰らえ!」犬神に持ってきて貰ったクロスボウを発射する。非常に強力なモノで人力では弦を引ききれない程強いクロスボウだ。

 放たれた合金製の矢はバロンの腕か、はたまた強運のせいか狙い違わず鬼の右眼に突き立つ。

 深々と突き立った矢のやじりは鬼の後頭部から突き出していた。

「やはりどんなに頑丈でも目は弱点だったね」バロンは撃ち終わったクロスボウを手放す。

「グワァー!」鬼は始めて苦悶の声を上げるが、これでも倒し切れない。しかし勢いよく引き抜かれた矢には貫かれた眼球が付いてきた。

「お前の相手は僕だ」バロンが挑発する。鬼ほどの回復力が有っても奪われたり、切り落とされたりした部位は奪い返さないと復元できない。

 本質を破壊された眼球もそうだった。

「来い!」バロンは朱羅刹を抜刀しながら踵を返す。すでに鬼の意識はバロンへの報復にくらみ、弥桜の血肉への渇望は後回しになっていた。

 これが霞原衆の戦闘員ならワナを警戒して追わなかったのだろうが、アグンという鬼になった時点で戦術などに思いを巡らす事はできなくなっていた。


 バロンは篠塚達と設営した鬼を仕留める為のルートをひた走る。

 アグンは片目とはいえ、闇の中をまさしく鬼神のようにバロンを追う。

「一段目」バロンが青鬼に追いつかれそうになる直前につぶやくと、アグンの足元に何かが引っかかった。すると連続した破裂音と共に槍のようなモノがアグンを貫通する。

「お前の強度は計算済みだよ。岩崎のみなさんのお陰でお前を倒せる武器の威力は判ってる」バロンが振り返ってさらに挑発する。

 火薬発射式の杭は返しがついており、無理に抜こうとすると周辺の肉や骨を持っていく。

 ハリネズミ状態のアグンは抜けない杭を、痛みを無視して自慢の火焔腕で握って焼き切る。そして光明の特訓が無ければ動けなくなるほどの殺気を発してバロンを睨む。すでに怒り心頭だった。


 バロンはさらに演習場を逃げる。林に逃げ込んだバロンはジャンプして何かをまたぐ。

 しかし怒りに目が曇ったアグンは気付かず戦闘車両の牽引用ワイヤーにつまづき倒れ込む。

 その倒れ込んだ先には牛頭戦で制作された巨大マキビシが待っていた。

「もったいないから犬神サンに持ってきて貰ったんだ。お下がりだけどお気に召したかい」今日のバロンは鬼に対してどこまでも辛辣だ。

 怒り狂った青鬼は暴れながら立ち上がるが、またもやハリネズミ状態だ。その間にバロンはまた逃げ去る。


 46


 林を抜けたアグンは開けた場所に待っていたかのように立つバロンを見つける。

 これ以上ワナにかかり手こずるのを嫌がったアグンは跳躍し、直上からバロンを襲おうとする。

「そう来ると思ったよ。さあ、そろそろメインディッシュだ」バロンは飛び退いて鬼の攻撃を回避し、持っていた信号弾を天に打つ。赤い光を発した信号弾は全身をトラバサミに噛みつかれた青鬼を照らす。

 轟音と共に着地したアグンはバロンを踏み潰すかわりにトラバサミの罠の中心に落ちてしまったのだ。

 トラバサミは手では簡単に外れないようになっている上に、ご丁寧に鎖が付いていた。

 簡単には動けない仕掛けではあったが、アグンにとっては致命傷にもならず、最悪噛まれている肉を残して振り切っても良かった。

 青鬼のダメージは右眼をおいてすぐに回復をしてしまい、バロンのやっていることは嫌がらせくらいにしかならなかった。

 アグンは狩人としてわざと動けないフリをして、バロンが近づいた時に掴みかかろうと企んだ。

 どうせヤツは今までも直接攻撃をしてきていない。これまでも致命傷を与えるチャンスは有ったが攻撃をしなかったのが論より証拠だ。

 アグンは自身の回復を待ちながらバロンの接近を待とうと考えた。さあ、早く来い。

 バロンは青鬼の様子を見ながら、落ち着いて篠塚から借りたヘルメットを被り、ゴーグルをかける。それから思いついたように持っていたバンダナでマスクをする。

 動けないと思っているとはいえ、鬼の前としては悠長すぎる。しまいに耳栓までし始めた。耳栓?さすがにアグンもおかしいと思い始めた。

「…そろそろかな」バロンが空を仰ぐ。

 つられてアグンも夜空を見上げると風切り音が聞こえたような気がした。その瞬間青鬼がいた場所が爆発に包まれる。爆発は断続的に続く。

 バロンはケガをしないギリギリの距離で仁王立ちしている。

 一発でも弾着が逸れれば鬼の前に自身がおしまいだ。

「どうだい?榴弾の味は。僕が母さんと戦場を歩いていた時に一番怖かったのがコレさ。一発飛んで来れば建物だろうが戦車だろうが滅茶苦茶に壊されちゃうんだ。人類の作った罪だと思うけど、今日ばかりは役に立った」バロンは幼少時に楓と共に歩いた戦場で砲撃跡も砲撃自体も目撃した。

 決して人間同士で撃ち合って良いものだとは思わなかったが、和泉坊の助言から思い付き、おそらくツテが有るだろうと思った光明に要望して実現した。

 決戦の地を自衛隊の演習場にしたのもこの為だ。いくら鬼退治の為とはいえ、外でこんな事はできない。

「チャイコフスキーが聞こえてきそうだ。もう良いだろう」頭の中で1812年が流れ始めたバロンはニ発目の信号弾を夜空に打つ。青い閃光が開き砲撃が止む。

 爆煙が晴れると、アグンを拘束していたトラバサミなど跡形もなく、吹き飛んでしまっていた。

 青鬼は爆心地でグズグズに崩れた体を再生しようともがくが手足どころか胴も再生しきれない。頭部もグズグズで抽象画のようだ。


「フジバヤシの小僧が…やりやがったな…」羊型の記憶を奪う呪詛生物兵器コユンのチームから連絡が断絶した。

 そこで豺牙は鬼神の監視は確実に行うため、発信機の信号にやっと追いつくと、目の前に信じられない光景が広がっていた。

 一瞬、映画のワンシーンかと目を疑った。直前に途切れた発信源方向が断続的に爆裂している。

 そこでこの場所が何なのか思い出す。

「太刀守の仕業か…」太刀守の人間が自衛隊や警察に潜り込んでいるのは知っている。

 太刀守の連中は鬼神の始末に自衛隊の火砲を使用したのだ。

 どうやってアグンを足留めしたのか判らないが、アグンに取り付けた複数の発信機すべてが信号途絶したのだから間違い無いだろう。

 豺牙は自由な移動の為に持ってこなかった小銃が無い事を後悔した。


「僕が止めを刺せないと思ってるね。でもこれならどうかな」バロンが右手をサポーターが巻いてある左手首に添えると緑色の光が浮かぶ。その光を右手で握ると鬼に向けて振り切る。光はブーメランのように回転しながら、のたうち回っていた青鬼の成れの果てに飛んで行き首をはねた。

 里のお務め部隊や警察官などを殺して暴れた鬼の最期だった。

 緑色に光るブーメランはバロンのもとに飛んで戻り受け止められる。

「内緒だから大人しくしててね」光の正体は真田の蔵に在るはずの龍神の剣だった。

 龍神の剣は真田の蔵に行くと、脱皮よろしく皮一枚残してバロンの皮膚に張り付いた。

 北海道到着後、入浴中にバロンの左手首には波型のアザが浮き上がり、試しにバロンが喚ぶと剣が現れた。

 当然北海道には持ち込みが禁止されているが、イザという時の為に秘匿していた。

「いい気分か、フジバヤシ」バロンが振り向くと豺牙が立っていた。

「あなたは…」バロンは怪訝そうな表情で口元のバンダナを下げ誰何すいかする。

「豺牙だ。霞原のものといえばわかるか?そこでくたばった鬼神の飼い主だ」

「…あなたが…ユキねえをあんな目にあわせて、テトラを苦しめた張本人なんですか?他にもたくさん人を殺したり、殺させたりしてるでしょう」バロンは怒りが込み上げてきた。

「なんでこんなことをするんです?」バロンは人殺しもいとわない敵の人間におそれもせずに詰問する。

「太刀守は不倶戴天ふぐたいてんの敵だからさ。貴様も親兄弟が殺されれば相手を許せないだろう。貴様こそ何故こんな事をしている。別に太刀守とは元々縁もゆかりも無かったろう?」豺牙は逆にバロンに問いただす。

「里や里の関係者には大事な人がいます。それに人間に害をなす存在は許せません」

「それは太刀守でなくともできる。それにお前は自分が思っているより、こちらに近しい存在なのだ。今ここでお前を殺してないのが何よりの証拠だ。また会おう」豺牙は身を翻すと闇に消える。

「待て、豺牙!絶対に許さないぞ」バロンは闇を睨む。もう追いかけようと思っても体力は無い。

「…僕を近しい存在だと言った。どういう意味だろう…」バロンは豺牙の言った言葉を考えるが、肩の荷が降りたと思った為か、連日の徹夜と疲労のせいか、ふらついてしまう。それを抱きとめる者がいた。

「ああ、弥桜ちゃん…」バロンはそのまま寝落ちする。

「ああ、弥桜ちゃん、ぢゃないわよ!大丈夫?バロン君」仕方なく弥桜はバロンを地面に寝かせ、膝枕をする。

「お疲れ様、バロン君もうゆっくりしていいよ」予言はすべて成就し、今回の旅でバロン達に危機は訪れないことを弥桜は知っている。

 念の為に夕姫の影に潜り込ませたペンタが戻ってきて、いつものネコ報告をしてくれた。

 弥桜がバロンの頭を愛おしそうに撫でていると、バロンは寝返りをうつ。そして眠ったまま手を弥桜の胸に伸ばす。

「イヤん…バロン君、本当に寝ているの?」弥桜はバロンの顔をペチペチと叩くが目覚める様子もないし、胸への狼藉はエスカレートしていく。

「もう、意識が無くてもおっぱいが大好きなの?夕姫ちゃんの言ってるように、本当におっぱい男爵ねぇ…アン」弥桜はペチペチとバロンの顔を軽く叩き続けるが、いっこうに目の覚める気配は無い。

 鬼退治で活躍したら自由に胸を触らせてあげるご褒美を約束しているので、仕方なく許すことにした。

 夕姫ももとに戻ったし、暴れまくった鬼もバロンが倒した。

 以前に垣間見た未来予知も今は明瞭に見えるようになった。夏休みもまだ残ってる。良いことずくめだ。このぐらい許容範囲だ。

 どうせ意識が有ればヘタレのバロンはこんなに執拗には弥桜の胸を揉めまい。


 47

 

「お疲れ様でした、篠塚さん」モニターで一部始終を観ていた虎光が一連の指揮が完了した篠塚一尉を労う。

 謹慎として帰郷禁止の為、夏休みを持て余していた虎光に、戦闘不能になった夕姫がいるバロン達のお目付け役として白羽の矢が立ったのだ。

 しかし、モニターには豺牙は映っていなかった。もしその姿を見ていれば虎光が黙って見ていられるわけは無い。

「虎光さんも御苦労サマ。いやあ若から砲を使わせて欲しいと言われた時はどうなる事やらと思ったが、予想以上の成果だったな」篠塚は笹伏の係累で笹伏道場にも通っていた。虎光も顔馴染だ。

 「しかしあの富士林っていう少年、スゴイな。榴弾の着弾点がわかっていても普通はあそこには立てんよ。少しでも弾着が逸れれば直撃する事もあり得る。里出身ウチの者でもあれをできるヤツはおらんぞ」バロンは榴弾による砲撃中、爆風が吹き付ける中で立っていた。

 ヘルメットとゴーグルを身に着け、岩崎謹製の戦闘服をもってさえ安全とは言えない距離だ。

 砲弾の破片が飛んでくれば致命傷になりかねない。

「彼は特殊でねぇ、幼い頃から母親と紛争地域を歩いていたそうだし、ずるいくらいに幸運の持ち主なんです。俺だったら彼とは賭け事はしないな」虎光は弟から聞いたバロンの武勇伝を思い出す。

 もしかしたら鬼輸送中の襲撃を撃退したときもバロンの影響下だったかもしれない。

「俺も鬼自体を見たのは初めてだが、鬼退治に火砲を使おうと考えるとはな。里の者なら力任せで倒す方法しか思い付かないだろう。しかしこれで茂の仇は討てた」同門の仇は篠塚も取りたかった。

「これがスタンダードにはならないと思いますが、参考にしますよ。光明に伝えときます」


「…お前たち、ナニしてんの?」事態が終わったと聞き、仮眠を切り上げ現場に到着した犬神は、弥桜に膝枕をされて彼女の胸を揉みしだく、眠ったままで顔を叩かれているバロンを見た。

「イヤん、犬神さん。コレはそのぅ…バロン君がムリヤリ…」さすがに弥桜も人に見られてはたまらなかった。

「おい、バロン、いい加減に…寝てんのか?」犬神もホコリまみれで幸せそうに寝ているバロンに気が付いた。

「…ユキには聞いてたが筋金入りのおっぱい星人だなぁ、バロン。苦労するなぁ、吉野さん。オレがカミさんにこんな事したらぶっ飛ばされるぜ」犬神はバロンの腕を抑えてる弥桜に同情する。

「良いんです。バロン君にはセキニン取ってもらいますから」弥桜はポッと頬を染めながら男にはコワイ事を言う。

 (バロンも大変だな。胸を揉んだとはいえ、寝ぼけてる間の責任を取らされるとは…)犬神は複雑な表情をする。

「取り敢えず今日は篠塚さん達に後は任せて撤収しようぜ。オレも疲れた」


「おはよう、バロン」ばつが悪そうな夕姫が男子棟に入ってきた。昨晩は色々有ってろくに話せてない。

「おはよう、ユキねえ。記憶戻って良かったね。テトラに甘えられた?」バロンはまだ眠いらしく、目をこすりながら私室から出てきた。

「うん、ごめんね。私のミスであんな事になってしまって」今日の夕姫はまだ殊勝だ。

「バロン君!ウッ、昨日の夜の事は無かった事にするわ」弥桜が口を押さえて芝居がかったセリフを口にする。

「弥桜、バロンにナニかされたの?」夕姫は弥桜の言葉に聞き捨てならない調子を聞いて問いただす。

「…あのね…」演技なのか赤くなった弥桜は恥ずかしそうに夕姫に耳打ちする。夕姫の顔が険しくなる。

「バロン、いつかヤルとは思ってたけれど、とうとうヤッたわね」夕姫はバロンを責める。

「えーっ、僕がナニかした?」鬼を倒した後、すぐに倒れ込んでしまったバロンにはナニがなんだかわからない。

「しらばっくれて。弥桜のおっぱいを揉んだでしょう?」

「ああ、オレも目撃した。バロンは器用に寝たまま吉野さんの胸を揉んでいたぞ…」リビングのソファーで寝ていた犬神が騒ぎで目を覚まし口を挟む。

「…あんまり念入りにされたので妊娠しちゃいそう…」冷静に見れば演技だとわかるが、弥桜の芝居を見抜く者は当事者にはいなかった。

「バローン」夕姫がバロンを追い詰める。

「ええっ!ぼ、僕、覚えて無いし…ねえ、胸だけで妊娠ってするんだっけ?」バロンは思わずあわてふためく。

「良いの、元々、ご褒美で触らせてあげる約束だったし、私さえ我慢すれば…」調子に乗った弥桜は芝居を続ける。

「無責任な男ってサイテー!」いつもの夕姫に戻った彼女はバロンを責める。

「なんだ?どうしたんだ?」騒ぎで目が覚めた輝虎が現れる。

「!…テトラは責任を取るの?」バロンはチャンスとばかりに輝虎に話を振る。

「いいっ!お、俺はちゃんと責任取るぞ、なあ」寝起きに突然わけもわからず話を振られた輝虎は余計な事をくちばしり、夕姫を見る。夕姫は途端に頭を抱える。

「…テトラ、責任取らなくちゃいけないコトしたんだ…そう言えば昨日、あれからどうしたの。朝顔さんがこっちに行くから自分達で帰るって言ってたって聞いたけど」バロンは自分から話を逸らすため、輝虎にカマをかけたが、見事に引っかかった。

 記憶を取り戻した夕姫は輝虎と自力でロッジに戻るからと言って、朝顔をバロン達の応援に向かわせた。バロンと弥桜は朝顔の運転するバンで戻ってきたのだが、輝虎達はまだ戻っておらず、二人が帰還したのは夜更け前だった。

 弥桜はくたびれてすぐに寝てしまったが、いったん目の覚めたバロンはリーダーとして二人の帰りを犬神と待った。

 しかし、随分遅く帰ってきた輝虎は疲労を理由に、口数少なく私室に入ってしまった。

 女子棟に直接戻った夕姫は顔も見られなかった。

「えっ、ナニ、夕姫ちゃんとうとうテルさんと…」親友の恋愛事情に興味津々の弥桜は演技をかなぐり捨てて夕姫に食いつく。

「な、ナンにも無いわ。有るワケ無いぢゃない。すぐにタクシーが捕まらなかっただけよ。ねえ」夕姫の声は上ずっていた。

「お、おう、なかなか来なかったんだ。バロン、人を疑うのは良くないぞ」動揺を隠せない輝虎だった。

「…オマエたち…」犬神が疑いの目で二人を見る。昨晩はバロンの性癖の片鱗を垣間見てしまったが、本当に注意しなければならなかったのは輝虎と夕姫だったかもしれない。

「ねえ、どうなったの?どうしたの?その辺詳しく」弥桜が好奇心を隠しきれず、前のめりになる。

「まあまあ、ここでは男どもの耳目が有りますから、女子だけになった時に包み隠さず白状していただきましょう」いつの間にか現れた朝顔が仲裁にあたるが、この言い方だと後が大変そうだ。

「テル」夕姫が目配せすると

「おう」輝虎が大きな身体で器用に皆を躱し、夕姫と外に逃げた。

「あ、逃げた」バロンが呆気にとられる。

「ねえ、詳しく!」諦めきれない弥桜が呼び止める。

「ハハハハ」輝虎の右肩に飛び乗った夕姫が楽しそうに笑う。

「愛の逃避行かしら?」弥桜がバロンに尋ねると

「元に戻って良かったじゃない。しばらくは生暖かい目で見守ろうよ」嬉しそうに答えた。


 48

 

 千歳空港に四人組が降り立った。夏休み中なので目立たないが彼等は普段からラフな格好をしている。

「…事務局から連絡入った。もう始末ついたって」リーダーらしい赤く髪を染めた少女が携帯電話をしまう。

「なんだよ、北海道くんだりまで来たのにとんぼ返りかよ」目付きの悪い少年が文句を口にする。

「まあ、事務局も今すぐ帰ってこいとは言わんだろう。…富士林とか言う余所者のチームなんだよな。なかなかやるじゃないか」長いケースを持った長身の少年が感心したように言うと

「凰先輩や笹伏先輩がいるからな。おっと今回は凰先輩はやられて役に立たなかったんだっけ」中でも一番体格の良い少女が夕姫を揶揄すると一斉に笑いが生じた。


 「…お兄様…」帰ってきた豺牙の左腕を一目見たエルは首を振る。

 作戦が失敗し、鬼神を生産するプラントへ戻って来た豺牙だったが、バロンと別れてから左腕が疼いていた。

 夕姫に射られた部分が酷く痛み、這うように逃げ帰ったと言っても良い。

 北海道に配置した配下とは、すでに連絡がつかなくなっていた。

 移動中に痛み止めと抗生物質を服用したが効き目が無い。

 身分を隠してその辺の病院へ行くわけにもいかず、急いで医療設備が整ったプラントへたどり着いた。

 血相を変えたエルが診たときには、すでに左腕の感覚が無くなっていた。

「残念ですが左腕は壊疽を起こしています。このままではお兄様のお命が…」エルが目を伏せる。左腕は元通りの力こそ回復しなかったが、治療は万全だったはずだ。

 念の為に行った血液の精密検査でも毒素や細菌、ウィルス等は検出されなかった。

「…お兄様、もしやミュンヒハウゼンに何か言われませんでしたか?」エルは、はたと宿敵の呪われた能力を思い出した。バロンのフェアリーテールならありえない話ではない。

「許さない、と言われたが、まさか…」豺牙にはそのような超常現象など信じられない。

「それがあの一族の力なのです」エルは無念そうに言う。自身も何度煮え湯を飲まされたことか。


 緊急手術が行われ、豺牙の左腕は切断され、一命は取り留めた。

「おのれ、フジバヤシ、貴様が誰の血をひこうと必ずこの恨み晴らしてくれよう」豺牙は失われた左腕の復讐を誓う。

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バロン退魔行  諏訪坂 秋津 @murasame23

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