第一章ー7話

「ユールは、妹のような女性にはとてものですね」

 海を遠望できる高台にたどり着いたユーシスレイアの耳に、やんわりとした口調と静かな笑声が降りそそぐように響く。

 視線を向けたその先には、誰もいない。

 樹齢何百年も経っていそうな立派な大木が、静かな趣で佇んでいるだけだ。けれども彼はすっと目を細め、名前も知らないその大木を睨みすえるように見た。


「……ユールと呼ぶな」

 声の主が誰なのかはすぐに分かった。

 しかしその声の主に愛称を呼ばれる憶えはない。ましてや自分に向けられたその言葉に、好意など持てるはずもなかった。


 ―― くすくすくす。


 再び笑い声が聞こえた。

 さわりと。風もないのに木の葉が揺れて小さな音を立てる。今まで誰もいなかったその場所に、ゆうらりと風をまとうように人の姿が現れていた。


 微笑むようにこちらを見やるその容貌かおは、どこまでも優麗だ。

 透きとおる泉のような淡い色の髪と、その泉に映える森林のような深い青緑の瞳。繊細な白い頬に浮かぶ小さな笑みは溜息が出るほどに美しい。

 けれども。こちらを見つめる尋常ならざる眼光だけが、その"存在"が普通の者ではないことをあらわしていた。


「……カレン」

 苦々しげに、ユーシスレイアはその名を呼んだ。

 一般的には皇帝のと呼ばれているこの存在が、人間ではなく魔族なのだということはもちろん知っている。

 それだけが理由ではないけれど、どうもこの者がユーシスレイアは苦手だった。


「そう、苦虫を噛み潰したような顔をしないでください。わたしとて、好んであなたに会いに来たわけではないのですから」

 どこか人を喰うような笑みを浮かべ、カレンはゆうるりと歩み寄ってくる。体重を感じさせないその仕草は舞の如く優雅だ。


「陛下があなたを探されていたので、呼びに来ただけです」

 長く豊かな髪を風に遊ばせるように、カレンはわざとらしくお辞儀をしてみせる。

「本当は、あなたをエルレア様に近づけるのはまだ少し、不安なのですけれどね」

 笑顔のままで、カレンは言った。

 その眼光は、表情ほどには笑っていなかったけれど。


「陛下が? ……リュバサ攻略のことか」

「おそらくは」

 応えながらカレンは、すっと長い指を伸ばした。

 ユーシスレイアの額に落ちかかる銀の髪をさらりと払い除け、自分を見おろす強い双眸をじっと覗き込む。


「ユール。あなたも不思議な御方です。まさか自分から進んでリュバサの情報を教えてくださるとは、陛下もわたしも思ってもみないことでした。あの時はさすがに驚きましたよ」

 王宮の隠し通路から逃げたとされるカスティナ国王の行方を見つけ出せずにいた自分たちに、『碧焔の騎士』の叙任式を終えたユーシスレイアは、リュバサの湖底都市のことを教えたのである。

 そうすることで ―― カスティナへの想いと迷いを断ち切るかのように。


「わたしたちにしてみれば、捜索する手間が省けて助かりましたけれどね」

 くすりと笑って、カレンは軽く肩をすくめて見せる。

 すべてを見透かしているようなその表情が、ユーシスレイアの癇に障った。

 いちど強く睨み据えてから、けれどもいっこうにこたえるようすのないカレンに深い溜息をつく。

 この魔族が何を考えているのか、さっぱり分からない。思考がまったく読めない相手というのはなんとなく落ち着かなかった。


 溜息混じりに視線を落とすと、カレンの左の袖口からわずかに覗く銀の飾りが目に留まる。

 表面に秀逸な細工で月と稲妻が彫り込まれ、角度によって色合いの変わって見える繊細な腕輪だった。

 本来ならば皇帝と五騎士のみが身に付ける至高の紋章『月と稲妻ユエ・ダーレイ』。しかしカレンは皇帝自身からこの腕輪を賜ったために、ようにすれば身に付けることを例外として認められていた。

 それを忠実に守っているらしいカレンに、ユーシスレイアの口元がわずかな笑みを刻む。


 苛烈なまでに覇気をまとう存在。

 みずからが進む『道』に揺らぐことなく向けられた、皇帝の鮮烈なグレイの眼差しは、魔族であるカレンがに足るものであるように思う。

 長いあいだ敵であったはずの自分もまた ―― に惹かれてこちらに付いたのだから。


 ユーシスレイアは己の心奥を見つめるように目を閉じた。そうしてゆっくりと再び開いた双眸を海の青にきらめく陽光へ向け、最後にカレンを見やる。


「おれはもう、カスティナの将ではなく、ラーカディアストの碧焔の騎士だ。この国にとって有益な情報をもたらすのは当然だろう」

 白金の双眸に強い意志を宿し、ユーシスレイアは言った。

 その気持ちに嘘はない。母国を捨ててこちらの将になると決めた以上は、中途半端にするつもりはなかった。


「頼もしいことです。でもそれが、リュバサ攻撃を開始した時にも変わらないといいのですけれど」

 思わず、カレンは皮肉るようにそう返す。

 言い終えた瞬間、カレンは自分の失言に気付いたように口元を手でおおい、気まずそうに視線を逸らした。

 今のは完全なる嫌味であり、武人に対するだった。


 もちろん、そんなことを言うつもりなどなかった。

 けれども ―― 先ほどユーシスレイアを探している時、セリカと話している彼の様子を、偶然カレンは見かけていた。

 家族のことを話す碧焔の騎士の様子からは、失われた家族に対する強い想いと、抑えきれない哀惜が感じられた。


 ユーシスレイアは家族が死んだと思い込んでいるようだったけれど、その最期をはっきり見たのは母親のセリカだけで、他の家族の生死はその目で確認したわけではないとの報告をカレンは受けていた。


 もし ―― 戦いの場面で家族やそれに類する存在に出会ってしまったとき、この男は『碧焔の騎士』であり続けることが出来るのだろうか?

 カスティナの軍神ユーシスレイア・カーデュに。

 否。父母の息子であり、妹の兄であるに戻ってしまうのではないだろうか。そんな懸念が生まれたのは確かだった。


 だからといって、あんなふうに失言をしていい理由にはならない。

 カレンは自嘲するように溜息をつき、言葉を取り消そうと顔を上げた。


「 ―― おれは、自分の意志でラーカディアストをと選んだ。もちろん、今までの同胞を相手に戦うことになるというのは覚悟の上で、だ」

 ユーシスレイアは静かに。しかし極低温の炎のような眼光をカレンに向ける。そこには確固たる意志が散りばめられているように感じられた。


 もちろんカスティナには愛着もあった。守りたいと思っていたからこそ軍役に就き、『軍神』とまで呼ばれるような働きをしてきたのだ。

 しかし、カスティナの軍に身を置いていたのは、それが生国だったからだ。違う国に生まれていれば、そこの国の将だっただろう。

 いわば、自然のともいえる。

 ラーカディアストに身を置くことは、そういったしがらみをすべて排除し、自分の意志で決めたことなのである。それを再び翻すような真似をするつもりはなかった。


「今さらそれを疑われるというのは、心外だ」

「……申し訳ありません。詮ないことを言いました。あなたを信じていないわけではないのですよ」

 カレンは深く頭を垂れ、素直に謝意を示した。その言葉は上辺だけではなく、本心からの謝罪だと感じられた。

 いつものようにはぐらかすだろうと思っていたユーシスレイアは、思わず目をまるくする。


 魔族は流血と殺戮を好む残酷な種族であり、人を蔑む、このうえない存在なのだと、カスティナでは子供の頃からずっとそう教えられていた。


「 ―― 驚いたな。魔族が人に謝ることもあるのか」

「ふふ。ひどいですね。それは偏見というものですよ。魔族わたしは貴方がたとなんら変わらない。ただ、人にはない能力ちからを持っているだけです」

 くすりと、カレンは笑った。


「そう、か。……悪かった」

 偏見に満ちた言葉を放ったことを謝罪しつつ、ユーシスレイアは天を仰いだ。

 この帝国くにに来てから、今まで自分の中にあった常識や価値観をすべて丸ごとひっくり返されたように思う。


 カスティナでは一般的だった思考が、こちらでは異端であったりする。

 国が変われば文化も教育も違うのだから、それは当然のことかもしれないが、それでもやはりはあった。

 生まれてから今までの二十七年間。積み重ねる歳月とともに、ずっと培われてきたその意識はすぐに変えられるようなものでもない。


「 ―― 皇宮に行く」

 戸惑いを打ち消すように紺碧の大きな外套をひるがえし、ユーシスレイアはカレンに背を向けた。

 近くにつないでいた愛馬へ軽やかに騎乗すると、皇宮の方へと馬首を返す。


「では、わたしは城に戻り、あなたのお越しを陛下とともに待っておりましょう」

 優雅に礼をすると、カレンはふわりと宙に溶けて消える。

 それを背中で感じながら、ユーシスレイアはひとつ、深く長い息を吐き出してから、ゆっくりと馬を走らせた。

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