第一章-5話

 他の五騎士と別れて彩宮さいぐうを出て来たルーヴェスタは、少し先の小道に佇むユーシスレイアの姿を見付けて足を止めた。

 リュバサ攻略の準備にかかるために先に部屋を退出したはずの彼は、何やらぼんやりと、遠くを眺めているようだった。

 その様子がどこか無防備で、いったい何を見ているのかと、ルーヴェスタは彼の視線をたどるように同じ方へと顔を向ける。


 五騎士が集うこの彩宮からほど近い皇宮庭園の一角では、白く可憐な花弁が青い空に向けてこぼれるように咲き広がっていた。

 ユーシスレイアが見ているのは、どうやらその花たちであるようだ。似合わないものを見て感傷にひたっていると、ルーヴェスタは軽く笑った。


「花がどうかしたか、ユール?」

 周囲に誰も居ないからか、緋炎の騎士は碧焔のを呼んだ。

 仮に誰かに聞かれたとしても愛称で彼の本名がユーシスレイアと知れる心配もないのだが、普段はあまり呼ばないようにしていた。

 けれども今は、なんとなく名を呼びたくなるような、そんなだった。


「……おまえか」

 ふうっと夢から醒めたように緋炎を見やり、ユーシスレイアは僅かに苦笑を浮かべた。

「別に、どうというわけじゃない。ただ、あれと同じ花がおれの家にも咲いていたなと思っただけだ。たしか、カモミールだったか?」

 以前妹のシリアが楽しそうに教えてくれた花の名を思い出しながら、ユーシスレイアは庭園に咲き広がる白い絨毯をもう一度見やる。

 ルーヴェスタは碧衣の青年の隣にゆったりと立つと、同じように庭園の花へと視線を向けた。

「カスティナではそう呼ぶのか。こちらでは、あの花は『カミツレ』という。陛下がお好きでな。昔からあそこはカミツレ畑だ。……今まで気付かなかったのか?」

「ああ。まったく気付かなかった。たぶん今までおれの……の目には、花など映し出している余裕がなかったんだろう」

 おどけるように肩をすくめて、ユーシスレイアは白金の瞳をゆるやかに細めた。


「リュバサの……故国の攻略を命じられてができるというのも変なものだが」

「 ―― ふん。分かる気はするがな。完全にする覚悟。我らの目的に協力する覚悟。……心が定まったゆえの余裕というところであろうか」

 ルーヴェスタは力強くあざやかな笑みを口元に佩いた。

「そう、かもしれない」

 緋炎の言葉には、不思議な力があるとユーシスレイアは思った。

 こうして自分がこの場所に……ラーカディアストに身を置くようになったのも、元はといえばこのルーヴェスタのせいだ。


 三ヶ月前。自分はカスティナでこの男と戦い、そして敗れたのだ。

 深く身体に刃を突き立てられ、一度は死の接吻を受けて暗闇に落ちた己の意識が、どういうわけだか再び覚醒した。

 この男に生命いのちを救われたのだと。そう知った時は屈辱感でいっぱいだった。

 しかし ―― 今も自分はここに居る。


 心身ともに瀕死状態だったユーシスレイアに治療を施し、ラーカディアストに仕えるよう言ったのは、もちろんこのルーヴェスタだった。

 普通に考えればその時のユーシスレイアの立場はだ。彼との戦いに敗れて帝国本土に連れて来られたのだから。

 けれども、その扱いは初めから賓客に対するものだった。


 たとえ相手が王族だったとしても、戦いで深手を負って意識不明に陥っている捕虜などは本国に連れて帰らない。その場で殺す。

 それが、いつもの緋炎のやり方だった。

 それなのに、みずから本営に運び入れ「連れ帰る」と宣言した。

 しかも手当てをしてやれと。と言う。それを聞いて、緋炎の部下たちは彼を賓客として扱い、親身に治療に勤めたのである。


「おまえには、あのフィスカを戴くカスティナ王国なんぞより、エルレア陛下率いるこのラーカディアストの軍に身を置くことこそ相応しいと、私は思うがな」

 親身な治療の甲斐あって、一週間ほど経ってようやく目覚めたユーシスレイアに、ルーヴェスタは今と同じようなあざやかな笑みを浮かべてそう言ったのだ。


 もちろん最初は一笑に付した。そんな言葉を、自分が受け入れるわけもなかった。父を。母を、妹を。自分から家族を奪ったのはこの国なのだから。

 けれども ―― 緋炎の騎士と話をするたびに、心は揺れた。

 緋炎は決してユーシスレイアに寝返りを強要するような言葉は言わなかった。

 時おり帝国のこと。皇帝のこと。世界のこと。それらの現状を話し、そしてただ、考えるようにと。

 拒否したからといって、それまでの親身な治療が変わるでもなかった。


「自分で生まれる場所は選べぬが、なら選べるものだ」

 緋炎のその言葉だけがユーシスレイアの耳の奥に残り、ことあるごとによみがえっては心を揺らした。

 そうして二ヶ月が過ぎ、ようやく元のように剣を扱えるまでに回復したユーシスレイアに、緋炎は最後の誘いをかけた。

 そして ―― 

「もし、おまえがどうしてもラーカディアストに仕える気がないというのならば、カスティナに帰るがよい。もうすこし回復して船旅に身体が耐えられるようになれば、緋炎の騎士の名にかけて送りとどけてやろう」

 思いもかけないその言葉に、ユーシスレイアは言葉を失った。何を馬鹿なことを言っているのだろうと思った。敵将の怪我を癒し、そして無事に帰らせようというのか。そんな甘い話があるはずもない。

 けれども。緋炎は本気だった。


「もちろん我が国に欲しいとは思う。だが、私は手強い敵というのも好きでな。おまえと再び戦場でまみえてみたいという気持ちも、実は強くあるのだよ」

 そう言って、にやりと緋炎は笑ったのである。


 ラーカディアストの人間になることを拒否してきた心は、いつのまにか激しい迷いに変わっていた。緋炎の騎士への憎しみが、この二ヶ月の間に自分の中で大きく変わっていたことに気が付いて動揺した。

 この男に深い敬愛を抱かせる皇帝とは、いったいどんな人間なのだろうか。会って話をしてみたいと。強くこの国に惹かれている自分がいたのは確かだった。


 緋炎の言葉には力がある。ユーシスレイアはそう思う。

 いつのまにか自分は緋炎の騎士に ―― その言葉に共感を覚えるようになっていたのだから。


「今度は何を考えている?」

 ふと、ルーヴェスタの低い声が聞こえてユーシスレイアは我に返った。あの時と変わらない強い琥珀の双眸が、こちらを見ていた。

「……いや、なんでもない」

 軽く頭を振って苦笑する。うしろでひとつに結んだ銀色の髪が、その動きにあわせてゆるゆると流れた。

 ルーヴェスタは特に追求するつもりもなかったのか、「そうか」と軽く納得すると、ついっと、白く咲きこぼれるカミツレの花へと視線を戻した。

 その琥珀の瞳が、どこか楽しそうな眼光を宿す。


「私も最近知ったのだが、あの花には、逆境に負けぬ強さ。逆境の中の活力という花言葉があるそうだ」

「それで陛下は……あの花がお好きなのか」

「さあ? どうであろうな。いたことはない。単にあの花で淹れる茶が好きなだけかもしれぬ。だが……そうだな。私はおまえが『この国の人間になるかどうかは皇帝に会ってから決める』と言った時、これでおまえはラーカディアストの人間になると確信した」

「……どういうことだ?」

「あの御方の心は誰よりも強い。そしてその強さゆえにまた。だからこそ、私や橙炎……五騎士は陛下に惹かれる。共に進みたいと思う。おまえも会えばきっとそうなるだろうと思ったのだよ。まあ、陛下の脆い部分を見抜くことが出来る者などそうそう居るものではないがな」

 くくっと軽く笑うと、緋炎の騎士はユーシスレイアを見やった。


 もし花言葉を含めてあの花が好きなのであれば、それは皇帝が己の脆さを知っているからだろうとルーヴェスタは言う。

 などという形容は、世界統一という苛烈な目的を打ちたてて突き進むラーカディアストの皇帝には、あまりに似合わない言葉ではあるけれど。


「自分の脆い部分を見つめることは、強さでもあるな。おれは……まだ出来ない」

 ユーシスレイアは自嘲するように頬を歪めた。

 カスティナを裏切り、ラーカディアストの皇帝に仕えることはもう心に定めた。その決意は揺るがない。

 けれども。自分を守るように死んでいっただけは、いまだ心の整理がついていなかった。

 だから、白炎の騎士を見るたびに己の心を鎧わなければならなくなる。母の頭部を貫いた、純白の矢を思い出して ―― 。


「ふん。人間だれしも直面できない心の脆い部分があるものだ。出来ないと自覚しているのならば、それだけでも今は良い。に避けるのでなくさえしていれば、いつか向き合える日も来る」

 言いながら、ルーヴェスタは緋色の外套を大きく翻すように背を向けた。

 これまではほとんど他人に関心を持たなかったというのに、碧焔に対してはみずから関わろうとしている自分自身の行動が可笑しくて、緋炎は思わず苦笑した。

 そうしてそのまま、屋敷に向かう道を歩き出す。


「……不思議なものだ」

 去っていく緋炎の後姿を眺めながらユーシスレイアもまた、苦笑するように独りごちた。

 カスティナにいる時でさえ、誰かに自分のを見せたことなどなかった。けれども何故か、ルーヴェスタには自分の弱いところも躊躇なくさらけ出してしまう。

 戦いに敗れた無様な自分を見ている彼にいまさら格好をつける必要がないからなのか。それとも他に理由があるのか。自分自身でもうまく判断がつかなかった。


「海が、見たいな」

 もう一度カミツレの花を見やり、ぽつりと呟く。

 そうしてくるりと身を翻すと、緋炎の騎士と同じ道を、ユーシスレイアはゆったりと歩きだした。

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