第一章 「炎彩五騎士」

第一章-1話

 ―― 第一章 『炎彩五騎士えんさいごきし



 さらさらと。風が木の葉を揺らす柔らかな響きが心地好かった。

 目を開けて見なくとも、その木々の碧々とした彩りを想像することができる。近くに花でも咲いているのか流れる風はほのかに甘く、優しい香りが漂っていた。

 そこで遊びまわる小鳥たちの賑やかな歌声に和するように、どこか懐かしい笑い声が聞こえてくるような気がして、さらに和やかな気分になる。


 ―― こんな朝は、久し振りだ。


 目を閉じたまま、青年はそう思った。

 ゆるゆるとまだるい眠気から覚醒していくのを自覚しながらも、その心地よさを手放すのが惜しい気がして、進んで瞼を開こうとは思わなかった。


碧焔へきえんの騎士さま、起きていらっしゃいますか? そろそろ御支度をしませんと、お仕事に遅れちゃいますよー」

 軽やかに扉を叩く音と、明るい少女の声が遠くから響く歌声のように耳に届き、青年はゆうるりと目を開けた。


「……入って来ても構わない」

「へへっ。おはようございます!」

 許可を待っていたとばかりに、元気な挨拶とともに部屋の中に入ってきたのは、十六、七歳くらいに見える小柄な少女だった。

 その両腕に抱え込むように、真っ白なシーツと大きな籐の籠を持った姿がどこか微笑ましい。

 彼女の仕事は毎朝多くの部屋の掃除と、寝具の交換をすることなのだと思いだし、青年は小さく笑った。


「いつまでもこうしていては、おまえの仕事にも影響してしまうな」

 軽く伸びをするようにそう言うと、目の醒めるような銀色の髪を風に靡かせ、青年は寝台から床へと降り立った。

 風に誘われるままに窓外へ視線を移し、穏やかな景色を眺めやる。

 目覚める前に見た風景とは違う、けれどもとても優しい庭園が、そこには美しく穏やかに広がっていた。

「ふふっ。珍しいですね。碧焔さまが寝坊するなんて」

 小鳥がさえずるようにころころと笑いながら、少女は首を傾けた。いつもの颯爽とした雰囲気とは違う、どこか遠い目をしたような青年の様子が不思議だった。


「……夢を見た。楽しい夢、だったような気がする」

 碧焔の騎士と呼ばれた青年はふっと表情を和ませ、少女のふわふわとした栗色の頭に軽く手を置いた。

 ―― すべてが、夢のようではあるがな。

 相手には聴こえないよう心の中で一人ごちると、彼は少女の持ってきてくれた冷水で顔を洗い、ゆっくりと身支度を始める。


 『碧焔へきえんの騎士』の名の通り、碧いほのおを思わせる色彩で装飾された騎士服に着替えると、いっそう彼の姿は颯爽とした美丈夫になる。

 それが、少女は大好きだった。


「はい、碧焔さま。朝食はとらないと駄目ですよ」

 続きの隣室で身支度を終え、こちらに戻ってきた青年の姿を幸せそうに見つめながら、少女は大きなりんごを差し出した。

 この時期の帝都では季節外れではあるけれど、北の属国から贈られてきたりんごを厨房に分けて貰ったのだと、嬉しそうに笑う。

「朝のりんごは、身体にもいいんですよっ」

 いつもより遅いので朝ごはんを食べている時間はないだろうと思った。それでも朝食を抜くのは身体に良くないと、少女は真顔である。

 だからといって、りんごを剥くでもなく丸ごとそのまま手渡してくるというのが、彼女らしくて可笑しかった。


「おまえにかかると、天下の『炎彩五騎士えんさいごきし』も形無しだな」

 まったく物怖じしない少女の元気さにくすりと笑うと、碧焔の騎士はひょいっとりんごを受け取った。

 ひと口かじると、甘酸っぱい芳香とひんやりとした果汁が口内を満たし、心地よい酸味が体中に行き渡るような気がした。


「朝食を一回抜いたくらいでほど、おれは軟弱ヤワに見えるのか?」

「そ、そういうわけじゃないんですよー」

 少女は顔を真っ赤にしながら、ふるふると大きく頭を振って否定する。その慌てぶりが可笑しくて、碧焔の騎士は笑むようにわずかに目を細めた。

「おまえは、本当に面白いな」

「面白いって言われても、嬉しくないですよお!」

「それは、悪かったな」

 ぷくっと頬をふくらませる少女をなだめるように、青年は彼女の頭の上でぽんぽんと手を弾ませた。


「……そろそろ行かないと、会議に遅れてしまうか」

 起きたのがいつもより遅かったので、あまりのんびりしている時間はなかった。

 かすかな苦笑を浮かべると、一口だけ齧ったりんごをちらりと見やり、そのまま少女の手の上に置く。

「悪いが、片付けを頼む」

 そう言うと少女の応えも待たず、青年は碧い衣をひるがえすように部屋を出て行った。


「……碧焔の騎士さま、いつになったら名前を呼んでくださるのかしら。いーっつも『おまえ』なんだから。私にはちゃんとセリカって名前があるのにな。すぐ子供扱いするんだもの」

 むくれたように呟きながら、手の上に置かれた赤い果物を見やる。

 先程まで青年が口にしていた場所にそっと指を重ね、その頬がぱっと気恥ずかしそうに赤らんだ。

 初めて会ったときから、セリカは『碧焔の騎士』が好きだった。

 自分は十六歳になったばかり。そして彼は、きいたことはないがおそらく二十代の半ばなのだろうとセリカは思っていた。

 身分からいっても、このラーカディアスト帝国で皇帝に次ぐ地位を持つ『炎彩五騎士』と、の自分では雲泥の差があった。

 けれども。好きなものは好きなのだ。結ばれることなど最初から望んでいない。ただ、こうして近くで見ていられるだけで。役に立てるだけで幸せだった。


「……何か『セリカ』という名前に、哀しい思い出でもあるのかしら?」

 初めて自分が名乗った時、青年の白金の瞳がほんの一瞬だけ、ひどく苦しそうに。深い哀しみに沈んだように見えたのを思い出す。

 しかしいくら考えてみたところで、その理由など自分に分かるはずもなかった。

「今度、聞いてみようかな……」

 そう結論付けて、彼女は窓の外を見る。そこから見える花時計に、セリカは慌てたような声を上げた。

「いっけない。早く掃除しなくちゃ。まだまだ他の部屋もあるんだったわ」

 りんごを大切そうに布に包んで懐に入れると、彼女は大好きな碧焔の騎士の部屋を綺麗にしようと、小鳥のように軽やかに掃除を始めた。


 ***


 よく磨き込まれ、鏡のように黒光りする床に軍靴の硬い音を響かせて、碧い衣に身を包んだ青年はいつものように部屋に入る。

 落ち着いた装飾で統一された部屋の中央には大きな円卓が置かれ、そこに備えられた五つの椅子のうち既に四つが埋まり、それぞれが思い思いの行動をとっていた。


 炎彩五騎士えんさいごきしと呼ばれる、ラーカディアスト帝国が最強と誇る騎士たちだった。

 緋炎ひえん橙炎とうえん紫炎しえん白炎はくえん碧焔へきえんという、それぞれが炎の色にちなんだ称号を持ち、炎色を基調とした服を身に付けているので一目ですぐにそれと分かる。


 騎士という名称がついてはいるものの、その権限は普通の騎士とは大きく違う。

 もともと炎彩五騎士という地位は、ラーカディアスト建国時に初代皇帝ユリルをたすけ建国を果たしたといわれる五人のに与えられた称号だった。

 彼らには皇帝の次位に位置する絶対的な地位と権力が与えられ、軍事においてのみならず、あらゆる政務に対して関与できる特権を持っていた。

 そのため世襲ではなく個人が持つ地位として存在しており、ほとんどの御代ではその称号は形式と化し、五人のがずっとその地位に就いていた。

 実際に生きている人間をその座に任じた皇帝は、初代以降では現皇帝のエルレアが初めてだとも言われている。


 現在の五騎士は、宮廷内において役職・官職に就いているわけではない。

 けれども『炎彩五騎士』という、皇帝を除いた最高の権力を持つ彼らは完全に独立し、無任所であるがゆえに、すべての省庁・機関に対して何の遠慮も手心も加えることなく、己の特権をいかんなく行使した。

 だからといって干渉しすぎるわけではなかったけれど、炎彩五騎士という絶対的な存在の目が常にあるということが、国政まつりごとを乱す輩の出現に対し、大きな抑止力となっているのは確かだった。


 それ以上に五騎士は想像を絶するような他を圧倒する強さを誇っており、その力と存在に多くの兵士が憧れ、強固に彼らの支持をする。

 そんな兵士たちが治安維持にあたる帝国内はどの国よりも安全で、人々は戸締まりなどしなくても平気で家を空けられるような、安心した生活を送ることもできるようになっていた。

 皇帝エルレアによって炎彩五騎士が編成され、現在の支配体制が確立して以来、この国での犯罪率は激減していた。

 そんなことから炎彩五騎士は兵だけでなく、民衆レベルにおいても非常に人気は高かった。


 しかしその五騎士も二年前に碧炎の騎士ゼア・カリムが戦死して以来、ずっと四人のみで構成されていた。

 五騎士はそのな性質上から人選が遥かに難しく、皇帝エルレアが認めるほどの者が今まで居なかった。

 けれども一ヶ月ひとつきほど前。緋炎の騎士がひとりの男を推挙した。それが皇帝の眼鏡にかない、二年振りに『碧炎の騎士』が復活したのである。


 皇帝に次ぐ地位と権力を有した五騎士の名を呼ぶことは不敬とされ、彼らは『緋炎』や『白炎』といった称号で呼ばれるのが習わしだった。もちろん公文書などもそれで通る。

 そのため前碧炎と混同しないよう『炎』を『焔』に変え、新しく『碧焔』という称号があてられた。

 というのは表向きで、前碧炎ゼア・カリムの友人だった白炎の騎士が、亡き親友ともの称号をそのまま他人に使われるのは絶対に嫌だと強硬に訴え、皇帝がそれを快諾したからだとも言われている。

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