序章-5話

「……見つかったか」

 不意に、迫って来るいくつかの殺気を肌で感じ、ユーシスレイアは唇を噛んだ。

 帝国軍の誰かが、ここに居る自分たちに気が付いた。このままではおそらく追いつかれてしまうだろうと思った。

 逃げる者は容赦なく殺す。捕虜になった者は奴隷となる。それがラーカディアストの鉄則だといわれていた。

 かの国の者にとっては、帝国出身以外の人間は同様なのだという。それが真実かどうかは別として、西側諸国からはそう信じられ、怖れられていた。

 死も、奴隷としての生も、どちらも許容できるわけがない。


「 ―― !」

 気配を探るように感覚を研ぎ澄ませながら馬を走らせていたユーシスレイアは、不意にを察したように、腰に佩いた長剣の柄を掴む。

 そうして剣を抜き放とうとした、その瞬間。

「ユールっ!」

 息子の視界を遮らないよう身をかがめて鞍に座っていたセリカが、悲鳴のようにその名を叫んだ。

 声と同時に息子を抱きかかえるように、馬の上で身を捩じらせる。

「 ―― なっ!?」

 突然のことに、馬は驚いたように嘶きながら立ちあがり、慌ててユーシスレイアは剣柄から手を放して手綱を引いた。

 何とか二人とも落馬は免れたものの、馬からずり落ちるように崩おれた母を助け起こすために、いったん馬から降りる。

「大丈夫か? 母さん。いきなりどう……!?」

 はっと、白金の瞳が信じられないというように大きく見開かれた。あまりのことに一瞬息を呑み、ユーシスレイアは血の気がひいたように青褪めた。


「 ―― 母さんっ!?」

 既に、母は絶命していた。

 純白の羽を持つ矢がセリカの頭部を貫き、彼女の生命を一瞬にして奪っていた。それが、自分をのことなのだとすぐに分かった。

 普通ならば見えるはずもない。

 しかし ―― 息子を害するに対する母の本能なのだろうか。

 何か光のようなものが息子にむかって飛んでくる。セリカの目にはそれがはっきりと映っていた。

「こんなこと……どうしてっ!」

 鮮血が流れる母の身体をかきいだき、ユーシスレイアは絶叫した。

 おそらく自分で矢を振り払えたであろう事実と、子を思う母の心とのすれ違いが、あまりに痛かった。

 どんなことをしても守りたかった家族。その母に……あろうことか自分が守られてしまったという事実が心を打ちのめす。

 

「母さまっ!!」

 転ぶようにアリューシャの馬から飛び降りて、シリアは泣きじゃくりながら母にすがりついた。

 目の前で起きている現実が信じられなかった。否、したくなかった。どうして母は目を開けないのか。血を流しているのか。理解などできるはずがない。

「……………」

 ユーシスレイアはそっと母の亡骸を地に横たえると、すがりつく妹を優しく自分の方へと抱き寄せた。

 その心は怒りと憎しみに転じた悲しみで沸騰し、『ユーシスレイア』という人格を形成している精神基盤は激しく揺れていた。

 けれども ―― 妹を無事に避難させる。ただその一事が、いま彼の理性を保ち、冷静さを支えていた。


「そんなところで、何をしている?」

 不意に、無感情な声が辺りを震撼させた。

 真闇にも似た漆黒の髪と、身をつつむ緋色の外套マントが風を孕んで大きなうねりを見せる。獲物を狙う黒豹のような琥珀の瞳がじっと、馬上からユーシスレイアを見下ろしていた。


「その白い外套……カスティナの将だな。そんな者が、襲撃にさらされている王都を放り出してこんなところに居るとは驚きだ」

「…………」

 どこか揶揄するような響きのその言葉に、ユーシスレイアは唇を噛んだ。

 優美ないろに冷酷さを秘める緋色の軍装と、男の持つ圧倒的な眼光に、目の前に現れた者がいったい何者なのかを悟る。

 二年前にも同じく、全身が粟立つような感覚を与える存在と闘ったことがある。そのときの男は碧い軍装だったけれど。確かに同じような闘気をもっていた。

 脳裏をよぎったのは、ナファスの海上戦でまみえたラーカディアストの炎彩五騎士がひとり、碧炎へきえんの騎士。

 それならば ―― 緋の軍装を身にまとったこの男は、五騎士の主座として名をとどろかせる緋炎ひえんの騎士。ルーヴェスタ・カイセードに相違ない。

 酷薄に笑むその男の眼差しに、ユーシスレイアは逃げられないと悟った。悟ると同時にシリアを背後にかばい、みずからの長剣をすらりと抜き放つ。

 アリューシャも、隙をつくらぬように剣を構えた。


「 ―― 」

 ルーヴェスタの視線とユーシスレイアのそれとが、見えない刃となって火花を散らす。一瞬、周囲の空気がピンと張り詰め、凍り付いたように感じられた。


「ほう、なかなかいい目をしているな。それに免じて楽に死なせてやろうか」

 ルーヴェスタは楽しげに唇を歪めると、身の丈ほどもある直刀を振り上げた。

 その攻撃を長剣で受け止めながら、ユーシスレイアは自分の不利を悟らずにはいられなかった。

 馬上とかちでは、それだけでも優劣は決しているというのに。受けた剣を持つ手が痺れる程に重い斬撃が降ってくる。


「うおーっ!」

 不意に、アリューシャが緋炎の騎士に斬りかかっていた。

 ルーヴェスタの注意がユーシスレイア一人に向けられている今、自分が攻撃すればみんな助かるかもしれない。そう思った。

 ユーシスレイアが止める暇もなかった。

「……愚か者め」

 身の程知らずにも斬り掛ってくる少年に、緋炎の騎士は冷たい嘲笑を向けると、いとも簡単にその剣を受け止め刃を横に薙ぐ。

 その強烈な剣勢に、アリューシャはかなり離れた草むらまで飛ばされた。一度起き上がろうと片膝をつき、けれどもそのまま力なく倒れ伏す。


「アリューシャ!」

 声にならない悲鳴を上げ、シリアは少年に駆け寄ろうとした。

 その腕を、ユーシスレイアは強く引き寄せた。このままでは、彼女まで同じ目に遭ってしまうかもしれない。それだけは、避けたかった。


「シリア、おまえは先に行け。行って……ジェラードたちと合流しろ。アリナス方面に向かえば会えるはずだ。おれも、すぐに追いかけるから」

 緋炎の騎士を睨み付けたまま、ユーシスレイアは妹に小声で囁いた。

 あまり巧くはないが、シリアは少しなら馬を扱える。自分が彼をひきつけている間に、なんとか妹だけでも逃がしてやりたかった。

「いや。私ひとりでなんて……」

 シリアは兄の服をしっかりと掴み、動こうとはしない。

 このまま行ってしまえば、もう兄とは会えなくなるかもしれない。そんな気がして離れたくなかった。何より独りでは心細い。

「おまえがいては……邪魔なんだ。だから、早く行け!」

 ユーシスレイアは今まで見せたことのない厳しい表情で妹を叱り付けた。母は救えなかった。なんとしても、妹にだけは助かって欲しかった。


「…………」

 ここに自分が居ることは兄の邪魔になる。その言葉に、シリアは涙を溢れさせた。それは自分を逃がすための言葉なのだと分かっていた。

 けれども、そういわれてしまえば無理を言って残ることは出来なかった。

「……約束だよ、お兄ちゃん。絶対に、あとから来てね」

 大粒の涙をこぼしながらも微かに笑ってみせる。

 兄が小さく頷くのを見ると、必死に慣れない馬に飛び乗って、シリアは一目散に走り出した。


 緋炎の騎士は逃げ去る少女を特に追いかけようとはせず、ただ唇の端で薄く笑う。

護り手おまえもいない子供が一人で逃げられると、本当にそう思っているのか?」

「……ここにいるよりは、まだ可能性はあるはずだ。おれはそれに賭けただけだ」

 静かに、ユーシスレイアは自分を見おろす琥珀の目を見返した。

 この男に自分がかなわないと認めているようで悔しい気もしたけれど、自身の状態を考えれば仕方がない選択だった。

「おまえの賭けは、既に敗れたようなものだ。あの炎が見えぬか? おまえの妹が行った方だ。あっちには魔物がいる。人ではなく……な。人であれば女子供は殺さぬやも知れぬが、魔物はどうであろうな?」

 ルーヴェスタは弄るように小さく笑うと、ユーシスレイアに剣先を向ける。


 先ほどまでは城にのみ向かっていた魔物たちは、王が城にいないことに気付いたのか、それを探すかのように辺り一帯に散らばっていた。

 シリアが走り去った方向では炎々と火の手が上がり、上空には黒い影のような異形が羽ばたくのが見えた。


「……っ」

 ユーシスレイアは血にまみれたシリアの姿を想像し、カッと白金の瞳を見開いた。実際にその光景を見たわけではない。

 けれども ―― 脳裏に浮かんだ妹のその姿に、今まで自分の精神基盤を支えていた何かが音をたてて崩れ去ったような気がした。


「き、さま……」

 燃え立つような白金の瞳が、じっと緋炎の騎士を睨み据える。

 誰かをこんなにも憎いと思ったことはなかった。軍を率いて戦っているときでも、憎しみで戦うわけではない。

 けれども今はこの男が……緋炎の騎士を殺したいほど憎いと思った。それは八つ当たりに近い感情だったかもしれないが ―― 。


 その、激しい憎しみを宿したユーシスレイアの双眸に、ルーヴェスタは思わず感嘆の吐息を漏らす。

 自分と互角に対峙している上に、この激しく強い意志を宿した眼光。それは、ひどく魅力的なものに感じられた。

 他人ひとに対してあまり関心を持たない自分が、こうも興味を惹かれること自体、この白金の瞳の青年が稀有な存在という証なのだろう。

 ルーヴェスタは可笑しく思う。

 思いながらも、決して攻撃の手を緩めはしなかったけれど。


「ふ……。楽しい相手に会えたな」

 にやりと、緋炎は黒豹のような琥珀の瞳に笑みを佩く。

「ふざけるなっ!」

 ユーシスレイアは憎しみに身を委ねながらも、思考は非情な程に冴えていた。

 襲って来る斬撃を巧みにかわし、反撃の機会を待つ。こちらから無為に仕掛けるより、その方が緋炎の騎士を倒す勝算は高いと判断した。

 あれだけ長大な武器を扱っているにもかかわらず、緋炎の騎士の動きは素早く、まったく隙を見出せない。

 けれどもどうにか僅かにでも隙を見つけ、勝負を決しなければならない。その為に、憎しみで判断を曇らせるわけにはいかなかった。


「 ―― っ!」

 その、瞬間。左足に激痛が走った。

 屋根の瓦礫によって痛めた箇所。……ひびが入っていた骨が、この剣戟の酷使に耐えられず折れたのかもしれない。

 その瞬間走った激痛は、今までユーシスレイアが相手に求めてやまなかったほんの僅かな、普通なら気付くはずも無いほどの僅かなを、彼自身に生じさせてしまっていた。

 常人ならばともかく、それにルーヴェスタが気付かないはずはなく、その直刀はユーシスレイアの身体を鞘として深く静かに収まった。

「……シ……ア」

 深い闇へと意識が落ちていく中、ユーシスレイアは妹の名を、声にならない声で呼んだ。どうか無事でいて欲しい。

 それだけが、彼の心で悲痛な叫びを発していた。


 ルーヴェスタは血に倒れ伏す青年の姿を、目を細めるように見やる。そうしてどこか哀しげに、漆黒の髪を揺らすように軽く頭を振った。

「 ―― 死なすには惜しいな。あのような眼を持った男は滅多にいない。ましてあの技量うでならば……」

 カスティナの将であることを示す白い外套が、みるみる深紅に染まっていく様を眺めながら、小さく呟く。

 無意識のうちに致命傷にならぬよう攻めたのか。それとも相手がとっさに避けたのか。溢れ出る血の位置は、ほんの僅かに急所から逸れていた。


 ゆっくり三つ数えるほどのわずかな時間だけ迷うように瞳を閉じ、そうしてふと、ルーヴェスタは軽やかに馬からおりた。

 己がたったいま倒したばかりの敵将の鼓動を確かめるようにひざまずき、あざやかな笑みを口端に刻む。


「 ―― 決めた」

 ばさりと、風を叩くように緋色の外套をうしろにはねのけ、瀕死のユーシスレイアを抱え上げる。


 そうしてゆっくりと、緋炎の騎士は本営へと戻っていった。

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