第3話 もう無い

「あそこにカッパが出るって、初めて聞いたんだけど」

「私も最近聞いたの。犬の散歩してるお爺さんが話してたから」

「まあ、たしかに居そうな雰囲気はあるけど」


 裏山を下りて、2人は次の目的地までの道を歩いた。どんな名前の池なのか、大人も知らないくらい目立たない、ただ昔からそこにあるだけのは、平均して築40年はたって居そうな家が立ち並ぶ住宅街の隅にあった。そこだけスプーンで掘り取ったような空間で、足を滑らせれば、なす術もなく転げ落ちそうな所にある池だったので、坂ごと囲うようにフェンスがあった。そして等間隔で、【危険! 川に入るな!】と書かれた看板があった。


 美里は少し日差しの弱まった空を見上げて、恐らく最後であろう目的地の事を考えた。


「一回だけ入った事あるよね」

「ボールを取りに行ったのよね」

 

 記憶を頼りに言えば、ネコちゃんは頷いた。

 その池の前には、大きな道路が広がっていた。住宅街の隅に暮らす人たちの車しか通らない様な、ひっそりとした道路。


 ネコちゃんの祖母の家は、池の目の前にあった。遊びに行けば大量のオヤツと、お昼ご飯を用意してくれるその家に、幼い2人は何度も通った。そして、お腹がいっぱいになった後は、その道路でボール遊びをしたり、水で流れ落ちるチョークで地面に迷路を描いたりして遊んでいた。


 そんなある日、よく跳ねるゴムボールでキャッチボールをして遊んでいると、美里の投げたボールは池を囲ったフェンスを乗り越えてしまったのだ。 

 あっ! と声をあげてフェンスにしがみ付けば、少し下の所に、ボールが引っかかっていたのが見えた。坂は一直線では無く、途中で一回段が出来ていたのだ。

 危険だと何度も聞かされていたが、2人はボールを取りにフェンスを乗り越えた。


「誰にもバレなかったけど、かなり危ないことしてたよね。今でも落ちたら死んじゃうと思う」

「きっとそう」


 では、何故そんな危険な池に向かうのか、美里が聞こうとした時、ちょうど目的地についた。

 ネコちゃんの祖母は6年前に亡くなっており、彼女の住んでいた家は売りに出されたと聞いていた。見てみると、全く知らない表札が貼られ、キラキラとその身を輝かせ、フロントにたくさんのぬいぐるみを置いた新車が止められていた。

 何だか不思議な気分だった。


「それで……到着した訳だけど、何するの? キュウリでも投げる?」


気分を変える様に、揶揄い混じりで美里はネコちゃんに聞いた。久々に訪れた池は、その姿が見えないほど、草が生い茂っていた。住民が皆年老いて、手入れをする人が居なくなったのだろうか。小さい時は何度か諦めたくなった程の高さに感じたフェンスも、大きくなった今見れば、それほど高くはなかった。


「ここから投げても届かないわよ」

「じゃあどうするの?」

「決まってるじゃない」


無邪気に笑いながら、ネコちゃんはフェンスに足をかけ、スルスルと登って行った。


「えっ、ちょっと。危ないって! 見られたら怒られるよ!? 子供だったら危ないで済むかもだけど、私達、もういい年なんだから!」

「大はしゃぎしなかったら誰も気が付かないわ」


まさに猫の様な軽い身のこなしで、あっと言う間にネコちゃんはフェンスの中に入ってしまった。

 美里は暫く悩んだ後、同じようにフェンスを登った。早く止めないと、何をしでかすか分からない。ネコちゃんほどスムーズには行かないが、何とかよじ登り、降りる為に体を反対側に向けた。脇越しに逆さまにネコちゃんの方を見ると、何ということか、彼女は坂を駆け降りていた。


美里は危うく悲鳴をあげそうになった。まだ地面まで50センチはありそうだったが、手を離して飛び降りた。足がジーンと痺れ、痛みに一瞬顔を顰めるが、ピタリと途中で止まって此方を見ているネコちゃんに向かって、すぐに声をあげた。


「ネコちゃん、だから危ないってば! いくら段があるからって、それは笑えないよ! もう帰ろう?」


このままじゃあ人が来るかもしれない。そう思う反面、誰か来て欲しいと美里は思った。散歩でも何でもいい、危ない事をしている馬鹿な若者を見つけて、何をしているんだ! と怒鳴って欲しい。通報してくれたって構わない。

 期待する様に後ろを振り返るも、どの家もカーテンが閉まっていたりして、人の気配はなかった。


「ネコちゃん、帰ろうよ。そんなにカッパが興味あるの? ホントにいると思ってるの?」

「いいえ。カッパは正直どうでもいいの」

「じゃあ何で」


ネコちゃんの考えが理解出来ずに、美里は泣きそうになった。暑さとは違う、冷や汗がドロリと背中を流れた。予測できない事がこんなにも恐ろしいとは思わなかった。


 ネコちゃんは美里に向かって、その細い手を伸ばした。そこまで迎えに行って、手を繋いで欲しいのだ。美里は恐る恐る、滑らない様に腰を低くして、坂を降りた。足を滑らせたら、池に落ちてしまう。早くこの場から去りたかった。


 10分くらいに感じるほどの緊張感の中、美里はようやくネコちゃんの元に辿り着き、その、細い指を掴んだ。

 水面はかなり近い。ここから5メートルもない。藻が浮いた、汚い、底の見えない真っ暗な水がそこにはあった。カッパが、ぬるりと、その頭の皿をテカらせながら現れても可笑しくはない雰囲気が漂っていた。


 早くここから離れたい。ネコちゃんの考えはよく分からないが、戻ったら一言怒ろうと思った。唾を飲み込み、美里には坂を登ろうと背を向けて足を踏み出した……途端、体が引っ張られる。


「ちょっと」


 行かせないと言わんばかりに、ネコちゃんが力強く手を握っていた。その顔から感情は読み取れず、美里は気味の悪さに襲われた。


——何を考えているのか分からない。


 昔から不思議な子だった。それでも、何も説明せずに、危険な事をする子では無かった筈だ。……それが事後報告となる事も多かったが。


「好奇心はどうやってネコを殺したと思う?」

「え?」

「"好奇心は猫をも殺す"……私の解釈は違った、って話、したでしょう?」

「今、この場じゃないとダメなの?」


  声を震わせながら聞くと、ネコちゃんは力強く頷いた。まだ夕方じゃないのに、鳥肌がたって、歯が震える音がした。


「好奇心のまま突き進んだネコは、もう知り尽くしちゃうと思うな。知りたい事、面白い事、全部見ちゃったの。以外は」


そう話すネコちゃんの顔には表情が無く、声には抑揚は無かった。ただ、退屈を極めた無があった。


「だからネコは死ぬのよ。死以外に興味を惹かれるものが無くなったから。好奇心はそうやってネコを殺すのよ」


  猫

 退屈になった猫。

 知り尽くして、死以外に興味を持たなくなった猫……ネコ? 


____いったいどのネコの話??



 美里は思わずネコちゃんの手を振り解こうとした。しかし彼女の力は強く、ただ腕が大きく揺れただけだった。彼女は気にせずに話を続けた。


「私のそばには美里ちゃんがずっといたじゃない? 大学が変わって、私気づいたの。私、一人で好奇心を満たすのが好きではないの、貴方とに満たしたいんだ、って」


ネコちゃんが腕を強く引いて、体重を後ろにかけた。

 美里は、自分の体がフワッと浮いて、水面に対して斜めに向き合ったのを感じた。あの底の見えない水に落ちるまで、あと何秒だろうか。

 一気に幼い頃の思い出が蘇り、所謂、走馬灯のような物が流れた。しかし、それは人生を懐かしむ物というよりも、どうにか今を打開する策がないか、必死に過去から探し出している様だった。



 池の近くの空気は冷たく、蝉の声が遠くに聞こえた。ただ、やけに静かな世界で、自分の心臓が跳ねる音だけが近くに聞こえた。

 


 離れない様にと、手を更に固く握って、ネコちゃんは嬉しそうに笑いながら、美里に囁いた。




「好奇心は凶器になり得るのよ」


 


 



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

好奇心は凶器になりうるか 夢星 一 @yumenoyume

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ