第37話 ヒロインの役目

「どうしたの? 黙っていないで何か言ってよ」


 たくさんの本に囲まれながら、サクラの握る杖の青い光に照らされた冷笑を浮かべるノワールから、目が離せない。


 何か……。


 初めて知ったノワールの考えに打ちのめされ、サクラの唇は震えたまま、機能しなくなった。

 するとそこに指を這わせ、ノワールが笑い出す。


「驚かせすぎたかな? でも、僕がサクラを信じているのは嘘じゃない。だからさ、誠意を見せて?」

「せい、い?」

「サクラはさ、僕らを助けたいんだよね? だったら、このゲームの中に留まる事も厭わないよね?」

「とど、まる?」


 ただただノワールの言葉を拾い上げるサクラへ、彼は嘲りを含む笑みを向け、囁く。


「僕らがこのゲームを消したくないと望んでいるのを、サクラはその耳でちゃんと聞いていたよね? だけどさ、ただ消さないだけじゃだめだ。何でかわかる?」

「でも、願えば、消えない、はず」

「一時的にはね。時が経てばまた消されるかもしれない。だからサクラが必要なんだよ」

「必要?」


 少しずつ言葉が話せるようになったサクラの顎を持ち上げ、ノワールがさらに顔を寄せる。そして唇が触れ合いそうなぐらいの距離で、言葉を紡ぐ。


「アゼツが必要なのはサクラだ。そのサクラがこの世界に残れば、絶対に消す事ができなくなる。僕はそう思ってる。だからね、1人の攻略キャラとして、サクラを愛してあげる。そうすればサクラだって幸せでしょ?」

「残るって……。私には、待ってる人が……」


 軽く笑うノワールの吐息を感じれば、杖の光が消えた。急な暗さに目が馴染む前に、彼の静かな声だけが届く。


「そんな人、本当にいるの? それならどうして、サクラの存在は認めてもらえないの?」


 ノワールの顔が影をまとい、彼の眼差しがさらに冷えたものに感じた。それを見つめ、サクラは自身の心拍だけを強く感じた。


 いる。

 お母さんとお父さん、それと、美咲さんは、待っててくれてる。


 でも……、本当の私を見てくれた人は、いたのかな?


 そんな言葉が浮かび、思わず目を逸らそうとした。けれど、ノワールの両手がサクラの頬を包み、動かす事は叶わなかった。


「僕がサクラを認めてあげる。だから僕を選んで? この世界にいる限り、僕がサクラを愛し続けてあげる」

「私は、恋、しないのに、どうして?」

「だからだよ。だから僕は安心して、サクラを愛せるんだ」


 見惚れるような極上の笑みは、暗がりのせいでノワールの琥珀色の瞳に言い知れぬ闇を映し出したように思わせる。

 その底の見えない暗さに、サクラは固唾を呑んだ。


「君はずっと、僕らを作り物としてしか見ていない。だから、恋する対象に思えないんだろうね。それでもサクラのつぼみは色付いた。それを見て思ったんだ。この世界でなら、僕の存在は選べる立場にもなれるって」

「さっきから、何、言ってるの?」

「わからない? 僕は女性に愛される設定になっているんだよ。サクラの心は動いていないけれど、僕が設定通りに動けばそれを塗り替えられる。だからヒロインと攻略キャラの関係のまま、ずっとここで過ごせばいい。それこそが、みんなが幸せになれる願いだ」


 私、みんなを、そんな風に見てた?

 そのせいで、ノワールを傷付けた?


 ノワールがとてもよく人を見ている性格なのは知っていたが、サクラの態度が誤解を招き、彼をこんな風にしてしまったと、混乱する。


「ごめんなさい」

「それは何の謝罪?」

「私の態度がノワールを傷付けたから……」

「それについては何も思わないよ。むしろ、作り物の僕らに本気で恋をしなくてよかったと思っているから」

「何それ……」


 くっと笑い声をもらし、ノワールがサクラの頬を包む手に力を入れる。


「だって、僕以外の誰かに恋をしてしまったら、サクラを手に入れられないでしょ? だからね、『想い人のいる攻略キャラ』としての距離を保つサクラは理想のヒロインだった。だから遠慮なく、作り物の僕らと恋をしないなんて言う君を利用できるんだ」


 何度も、作り物の彼らに恋をしないという言葉を浴びせられ、サクラの心にふつふつと怒りが込み上げる。


「私だって、恋できるなら、したいよ」


 自分の言葉に視界が歪む。それでも、ノワールが目を見開くのはわかった。


「でも、いつ死んじゃうかわかんない私が恋する意味もないし、手術が成功したって普通の人間じゃないって言われる私に好かれて嬉しい人なんて、存在するはずないっ!」


 ぎゅっと光の灯らない杖を握り締め、サクラは震える声で叫ぶ。

 その瞬間、ノワールに抱き寄せられた。


「落ち着いて、サクラ。君は心に何を抱えているの?」


 先程の冷たい声とは打って変わったノワールの優しい声に涙が溢れ、言葉も同じように滑り落ちる。


「わた、し、現実の、世界じゃ、病気で、ずっとベッドの上。治っても、普通の人間じゃ、ないって、言われる」


 サクラを抱きしめる腕に力が入るのがわかったが、蓋をしていた想いは溢れ続けた。


「どうしたら、人間に、なれるの? 恋って、普通の人が、するんでしょ? だから私は、恋、しちゃいけない」


 本当はずっと、恋してみたかった。

 お互いを支え合いながら特別に想い合う生き方を、知ってみたかった。

 でもそれは、普通の人の特権。

 だから私には、関係のない、感情。


 恋をする事も生きる事に希望を見出せない想いも言葉として現れ、深い沼へ足を踏み入れたように、ゆっくりと心が沈むのがわかった。

 そんなサクラの背中を、ノワールの手が優しくとんとんと叩く。


「サクラは生まれた時から、これから先もずっと人間だよ。完璧な人間なんて存在しない。誰しも、様々なものを抱えている。それが病気であっても、人間は人間だ。だからね、サクラが恋したいのなら、すればいいんだ」

「そんなの、嘘」

「嘘じゃないよ。これは僕の本心だ。だから本当に、この世界に留まればいい。サクラを傷付けるだけの現実の世界へ帰る必要はないよ」


 ゆっくりと体を離し、ノワールがサクラを覗き込む。そんな彼の顔は、とても真剣だった。


「何度でも言う。サクラは人間だ。そして恋は、誰だってしていい。しちゃいけないなんて決めつける事は、もうしなくていいんだよ」


 困ったように微笑むノワールの言葉に、サクラは茫然とする。


「でも、恋って、どうやってするの?」

「大丈夫。僕が教えてあげる。僕らは恋を教える為に作られた存在だからね」


 ノワールの言葉はサクラの心をさらに締め付け、前を向かせた。


「ノワールは何で、作り物なんて言うの?」

「それが事実だから」

「でも今は魂がある。だから、生きてるんだよ? そうじゃなくても、私にはみんな生きて見える」

「それはサクラがそう見てくれているだけ。現実は全員、作り物だ」


 さも当然とばかりに言うノワールを、サクラはしっかりと見据える。


「違う。生きてる」

「そう言われても困るんだよね。僕は作られた行動しかできない。たぶん、他のみんなもそうじゃない? 生きるって事がよくわからない。だからこの『魂』が迷惑なんだ」


 夏休みに教室で見た、ノワールが消えたくないと言った時に浮かべた表情と今の顔が重なり、サクラは思わず口を開く。


「消えるのが怖い理由って、もしかして、ゲームのキャラとしてのノワールが消えちゃうのが、怖いの?」


 サクラの言葉に、ノワールは寂しげに微笑んだ。


「何で余計な事を察するのは上手なのかな? サクラに僕の事情は関係ない。君は何も考えず、ヒロインとしてこのゲームの世界を楽しめばいい」


 今までの自分が消えてしまう恐怖を抱えたまま生きる事は、彼らにとって幸せではない。

 そう確信し、サクラは立ち尽くした。


 ノワールも、リオンもラウルも、クレスもキールも、みんな変化に戸惑ってる。

 でも、ゲームの世界は消えてほしくないって思ってる。

 それならそれを、叶えるべきなんだ。


 息が浅くなるほど心臓を締め付けられたが、サクラは声を振り絞る。


「ノワールが誰かを選ばない理由も、そう設定されているから選ばないの?」

「ふふっ。正解。僕は誰も選ばずに全ての女性を受け入れる設定だ。それが、この世界にいる僕の役目だからね。それを辞めた時、僕は僕ではなくなる気がするんだ」


 ノワールは驚いたように少しだけ目を見開いたが、楽しそうに微笑みながら語りかけてくる。

 だからサクラも、笑みを貼り付けた。


「そんなに苦しかったのに、私の事まで気にかけてくれてたんだね」

「気にかけたのは今だけどね」

「今だけでも、嬉しい。だからね、みんなが幸せになる願い、決めたよ」


 泣き出しそうなのを我慢して、サクラはさらに微笑む。


「そんなにみんなが魂が宿った事で苦しんでるなら、消した方が楽になるよね?」


 本当は、消したくなんてない。


「この世界を消さない方法は1つだけ。みんなの魂を消せば、消えない。だからそれを願うけど、いい?」


 それでもちゃんと、願うんだ。

 生きる事を教えてくれて、私は私だって、人間だって認めてくれて、いっぱい心配してくれて、恋していいって言ってくれた、みんなの為に。


 サクラは大切な人達の言葉を思い浮かべながら、はっきりと言い切る。


「みんな、元の自分に戻そう。そして今まで通り、この世界で過ごしてほしい。それが、私の願い」


 サクラの言葉に、ノワールが戸惑いを浮かべる。そのまま、彼はゆっくりと話し出した。


「そんな条件があったのか。でも、魂がなくなれば、このよくわからない感情に振り回されなくて済む。たとえこの先ゲームが消える瞬間が訪れても、何も思わなくていい」


 ノワールは1度言葉を切り、目を伏せる。


「じゃあついでにさ、2度と魂が宿らないようにも願ってくれる? こんな事を言う気はなかったけれど、ずっと見付けてほしかった、なんて、そんな想いを抱くのはもう嫌なんだ。僕らを見付けてくれるのはヒロインしかいない。そのヒロインの存在を縋るように求め続けたくないんだ」


 閉ざされた世界を動かせるのは外側の人間だけ。そして、隠しキャラのノワールは1度ゲームをクリアしなければ攻略できない。だからこそ、クリアされなかった事で彼がそんな苦しみを抱えていたのだと、サクラは理解し頷く。

 するとノワールは顔を上げ、穏やかな笑顔を浮かべた。


「こんな方法を選ぶ必要はなかったのか。ごめんね、サクラ。君を信じきれなくて。それでも、それを願ってくれるサクラには感謝しかない。けれど、サクラはどうするの?」

「私?」

「君もこの世界に残る?」


 ノワールの言葉に首を振り、サクラは明るい声色で答えを伝える。


「私は私の世界に帰るよ。私を待っててくれてる人がいるから。それにちゃんとこのゲームをクリアしたい。1度クリアしないとノワールを攻略できないんだから、覚悟してね?」


 わざとらしくウインクしてみれば、何故かノワールの好感度が凄く上がり、呆気に取られる。


「僕は攻略されるのが苦手なのに、困るな」


 そうノワールが言い終えた時、ホログラムが現れた。


『ノワールを選びますか?』



 選ぶ。


 選ばない。



 こんな時に選択肢が……。

 でも悩む必要なんてない。

 答えは1択。


 サクラが選択肢を指差し、探るような視線を向ければ、ノワールがいつもの笑みを浮かべ、頷いた。


「私はノワールを選ばない」


 またも好感度が凄く上がったが、ノワールは胸を押さえて笑い出した。


「選ばれなくて嬉しかったのは、これで2度目だ」

「1度目は最初の選択肢だよね? こんな貴重な体験を2度もできたんだから、感謝してよね」


 お互いに笑い合い、サクラは抱いていた想いを伝える。


「でもね、私はみんなやノワールに出会えてよかった。たとえこれが作られた性格だったとしても、私には嬉しい言葉ばかりもらえた。だからね、私の事を認めてくれてありがとう」


 好感度が上がる音が響く中、ノワールの笑みがゆっくりと消えた。


「こうやって攻略されるのも、案外悪いものじゃないのかもね」

「そうなの? 私は感謝を伝えただけなのに」


 不思議そうな顔をしたノワールを眺めながら、サクラの心が黒い霧に包まれるように、ゆっくりと冷え始める。


 現実の世界でも、ゲームの世界でも、私は迷惑をかけるだけの存在だった。

 でも少しぐらい、役に立てたんだよね?

 みんなの願いを叶えたら、ヒロインのサクラの役目も終わり。


 そのあとはもう、どうにでもなれ。


 そう思った瞬間、頭を殴られたような激痛が走る。そして、力の入らなくなった体をノワールが受け止めてくれたのがわかった時、サクラの視界は真っ暗に染まった。

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