水族館の思い出

三文の得イズ早起き

水族館の思い出

 二匹のイルカが左右から同時に飛び上がり、空中の最も高い位置で交差した。交差した後、それぞれが入れ替わるように飛び上がった位置に音を立てて沈んでいく。僕の目の前には二匹のイルカが産み出した水しぶきがまるで巨大な別の生き物のように高く吹き上がった。

「はーい、イルカのクーとシューでした〜皆さん大きな拍手を!」

 飼育員の若い女性がにこやかにマイクに叫ぶ。

 僕たちはそれぞれ思い思いに拍手をした

 二匹のイルカは水の底深くに沈んでいたが、ほんの数秒、再び飛び上がる。しっぽをうねらせるようにしてイルカは交差し、また海面へと沈む。

 飛び上がる水しぶき。拍手。二匹のイルカが海面から飛び上がる度に運動会の徒競走の時に鳴らされるピストルのような音が響く。

「じゃあ、もう二人に来てもらいましょう〜、メツ〜!ドー!」

 メツとドーと名付けられたイルカが奥から現れて、二匹のイルカに合流する。合計四匹のイルカが所狭しと飛び上がり続ける。

 僕は四匹が入り乱れて飛び上がる様子をじっと眺めていた。クーとシューとメツとドー。ああ、これは仏教の四聖帯『苦集滅道』から来てるのだな、と気づく。


 獰猛な生き物イルカの大暴れを僕はしばらく眺めていたが、いくら四匹が華麗に飛び跳ねても次第に「またか」という気がしてきた。飽きてきたのだ。

 僕の前に座っていた親子連れもそのようで5歳位の女の子はイルカではなくて、入り口付近のバケツに止まったハエをじっと見ている。

 我らの飽きを知ってか知らずか、飼育員はマイクで叫び始める。

「はいー。それでは、ここからイルカとみなさんでちょっとしたアトラクションをやっていきたいと思います!」

 飼育員はまるで外部からラジオコントロールされているかのように無感動に会場を見回す素振りをしてから、すっと僕の目の前の親子の元へと歩み寄ってマイクを向ける。

「こんにちわー!」

「ほら挨拶しなさい」と女の子の母親。

「こんにちわ」と女の子。

「今日はですねー、イルカさんにリンゴをあげてもらいたいんだけどいいかなー!?」

「はいっていいな」と母親。

「はい」と女の子。

 二人の親子のうち、女の子だけがよろよろと立ち上がり、飼育員の女性に言われるがままに、プールのお立ち台の位置に立つ。僕を含めた他の客は眠気から覚めたように拍手で反応した。

「じゃあ、お姉さんがせーのっていったらこのリンゴを頭の上にあげてください! せー、の!」

 女の子ははちきれんばかりの笑顔でリンゴを頭の上に「えいっ」と掲げた。イルカが海の底から現れ、リンゴを見事にパクリと咥える。

 我々は拍手をする。女の子は何が起きたかわからない、という表情のまま母親の元に戻る。

「じゃあ、もうひとりお願いしようかなー! 次は大人の人にー頼みます!」

 そのとき、飼育員の女性と僕の目がしっかりと合った。ビゴン!、と音がした。

 僕は心の中で首を横に振った。僕は駄目だ、と。が、飼育員の若い女性はまるでそれを正反対の合図と捉えてしまったようで、

「じゃあ、その後ろのお兄さん!」

 と威勢よく叫ぶと僕を指差した。会場の客はまばらな拍手をする。

 僕は仕方なく立ち上がった。が、問題があった。僕は下半身が裸だったのだ。正確に言えば靴下は履いているし、革靴も履いていた。が、下半身は裸だった。

 すっと立ち上がった僕の丸出しの尻を見た僕の後ろの客は「え?」と高い声を上げた。飼育員の若い女性は正面から僕の陰茎を目にしたのだが、声は出さなかった。彼女は何が起きたかわからない、という様子だった。それは珈琲だと思って口にした飲み物がコーラ、しかもダイエットコーラだった時のように、把握するまでにタイムラグがあったのだ。

 僕は慌ててはいけない、といつもよりも冷静に悠然と階段を降り、先程の子供が立っていたお立ち台に登った。僕の陰茎はプラプラと揺れていたが、飼育員の心もさぞかし揺れていた事だろう。通報すべきだろうかとか、叫ぶべきだろうか、とか、それともこのまま何もなかったように続けるべきか、とか。

 飼育員はそのまま続けた。何もなかったように。

 僕もそれがベストだったのだと思う。何かの間違いだと思ってくれたらそれでいいのだ。

 先と同様に、飼育員は僕にリンゴを持たせた。

「それでは、お兄さん、私がせーの!って言ったらそのリンゴを頭に掲げるんですよ!いいですか、せー!の!」

 僕は生まれて始めて実弾射撃をするみたいにおっかなびっくりリンゴを頭上に掲げた。ドキドキした。海から例の海獣が現れて僕の手からリンゴをパクリと取り去った。それは驚くほど見事で僕は大変に興奮した。

 そのとき、会場の子供が「うわーおっきくなってる!」「はははは! あのおじさんぼっきしてる!」などの声が上がった。

 慌てて僕は股間を見た。なるほど勃起している。どうしたものか、と一瞬考えたが、これはどうなるものでもない。僕は一礼して、そのお立ち台から降り、元いた僕の席へと戻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水族館の思い出 三文の得イズ早起き @miezarute

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ