第一章 桜彩女学院入学篇
第3話 桜彩女学院野球部
優里が桜彩女学院に入学してから一週間が過ぎた。
女子校に通うのは初めてのことなので馴染めるか当初は不安だったが、それも杞憂の終わり、クラスに上手く溶け込んで行動を共にする友人も何人か出来た。
「そういえば優里は何か部活入ったの?」
同じ一年六組のクラスメートの堀川波子がそんなことを聞いてきたのは二限終わりの休み時間のことだった。
「私は野球部に入ったよ」
「へえ、優里野球やってたんだ」
御代志玲奈は睫毛の長い瞳で優里を見つめている。「腕とか脚とか超細くて全然スポーツしてる感じには見えないんだけど」
「分かるー!背もスラっとしてるし!」
「いや、どういうイメージ?」
どうにも美化されているらしい自身へのイメージに優里は思わず苦笑してしまう。「ちゃんと鍛えてるからそんなに細く無いと思うけどなぁ。服の上からだと分かりにくいかもだけど」
「それじゃあ着痩せってやつか」
うんうん、と一人で頷きながら波子は納得していた。
「とか言ってる波子は何部なのよ?」と玲奈。
「私は手芸部だよ~」
「手芸部……ごめん、それこそイメージが無いわ」
水谷蓮実が机の上のチョコレートに手を伸ばしながら意外そうな顔で波子を見ている。
「こう見えて裁縫とかめちゃ得意なんだからね!」
そんな友人達の他愛も無い会話を聞きながら優里は机に寝そべった。
(入学して一週間か。やっと今日から始まるんだな)
今日から一年生が入部しての部活動が始まる。野球部への入部届は先日のうちに担任に提出していた。
(新入部員多いかな……多いと嬉しいんだけどな)
これから始まる高校野球生活のことを考えながら優里は四月の陽光が鮮やかな窓の外を眺めていた。
「お疲れ様です。橘先生」
「あっ、お疲れ様です~」
授業を終えて職員室に戻って来た橘京華は華やかな笑顔を浮かべ、同僚教師の辻憲一と言葉を交わしている。
「そう言えば橘先生、これうちの生徒の野球部への入部届です」
「ありがとうございます。辻先生のクラスの生徒なんでビシバシ鍛えていきますね!」
「お手柔らかにお願いしますよ」
辻は言った。「そういえば先日の春季大会は残念でしたね」
「終盤までは勝てると思ったんですけどやっぱり最後の最後で投手層の差が出ましたね。皆良いプレーをしてたんで勝たせたかったですけど」
二週間前の春休みに行われた春季九州大会で桜彩はベスト4進出を賭けた準々決勝で大分の鳳鳴学園に敗れた。
「これで夏秋春の三季続けてベスト8進出ですけど逆に言えばベスト8止まりですからね。うちの目標はもうそんな所じゃ無いから今後どうやっていくべきか……」
「それでもベスト8は立派ですよ。学院側も今年は甲子園に行けるんじゃないかって期待してますからね」
「甲子園ですか……」
部の目標は甲子園出場だ。だが私立公立共に強豪犇めく九州予選でそう簡単に達成出来る様な目標ではない。桜彩も昨年橘が監督に就任して以降、結果は残してこそいるが九州最上位の強豪とは差があるのは否めない。
「とにかく少しでも期待に応えられる様に頑張るしか無いですね」
そう言って受け取った入部届に目を通した。そこには可愛らしい文字で『野中菜月』と書かれている。
「野中菜月か……この名前何処かで」
橘は首を傾げた。「辻先生、この野中って子どんな生徒なんですか?」
「ああ、その子はとにかく明るくて良い子ですよ。クラスのムードメーカーですし」
辻は嬉しそうな顔をしている「それと中学だと男子シニアだったみたいですね。私は詳しく知りませんけど結構有名だったみたいですよ」
「男子シニアで……」
橘は今一度握った入部届の「野中菜月」という名前に目を向けた。
野中菜月という新入部員についての詳細はすぐに分かった。インターネットに彼女について書かれたネット記事が掲載されていたのだ。
熊本の名門藤崎シニアで一番遊撃手を務める天才女子中学生という出だしで記事が始まり、彼女の実力に関しては「広い守備範囲と芸術的なグラブトスに矢のような送球から繰り出される華やかな守備や広角に打ち分ける巧みなバットコントロールは男子選手に一切引けを取らない」と絶賛されている。そして三年秋の九州大会では準優勝で全国大会にも出場。九州選抜の一員にもなり、遊撃手で九州大会ベストナインに選出されたと書かれている。
想像以上の逸材が来たな、と記事を見ながら橘は感じていた。そして机の上に先程置かれたもう一枚の入部届に書かれた名前にも目を向けた。
美郷優里
彼女の存在はその名前を見た瞬間鮮明に思い出した。
あの暑い夏の日に新世代の高城南海を三振で切った無名のエース。粗削りだが才能豊かなその姿に大きな可能性を感じて気にはなっていた。だがまさか桜彩に進学してくるとは考えてもいなかった。
そしてこの二人以外にも中学時代に活躍した選手が何人も入部届を提出している。その入部届を引き出しに纏めて入れた橘は今日の部活でやるべきことを考えながら次の授業の準備を始めた。
「そういえば結構多いみたいよ入部希望者」
昼食の弁当を食べ終わった太田麻子はデザートのプリンに手を伸ばした。「十人以上いるんだってさ」
「そんなにいるんだ。やっぱ去年ベスト8まで残ったのが効いたのかな」
野球部のエースで副主将の深水舞は太田の話に耳を傾けながら昼食のパンを頬張っている。同じクラスなので昼食は一緒に摂ることが多い。話題は大抵野球か芸能界の話だ。
「そうかもね。それで去年はけっこう話題になったしね」
言いつつデザートのプリンを口に運ぶ。「まあ、話題になったって言っても半分以上は元プロの橘先生の話題性と美影の活躍だけどね」
「そうだよね」
頷いた深海は食べ終えたパンの袋をくしゃくしゃに丸めてバッグからもう一つパンを取り出した。「まあ、結果自体はそれなりに残したんだから話題性先行の見掛け倒しじゃないだけマシだよね」
「でも今年こそしっかり結果で話題になりたいよね……甲子園行くとかさ」
「行きたいよね。私たち三年は今年で最後だからね」
顔を見合わせて二人は頷いた。
「その為にまずは春のリーグ戦でしっかり結果を残して夏への弾みを付けないと」
「そっか、来週から開幕か。春季大会終わったばっかりなのにまた次が始まるんだね」
春のリーグ戦、正式名称ヴィクトリアシリーズは数年前から開催されている九州の女子高校野球のリーグ戦だ。
春と秋に開催されるリーグ戦で実力順に四部構成になっており、桜彩は二部に所属している。
「初戦の相手何処だっけ?」
「福岡の筑紫女学院。で、その次が佐賀の呼子大学付属」
「二校とも強敵だね」
深海は二つ目のパンを口に運んだ。
「まあ、二部ともなったらそう簡単に行く相手も少ないからね」
太田が言った。「でもうちが夏にベスト8以上……いや甲子園を目指す為には必ず超えなきゃいけない壁だよ」
去年までならベスト8に進出するだけで大健闘と讃えられていた。だが今年はそうは行かない。チームとして目指しているのはあくまで甲子園だ。ベスト8はそこに至る通過点でしかない。
「良い一年生が沢山入ってくると良いんだけどね」
そう言って深海はパンを食べ終えると「ちょっと部室に行って来る」と席を立って教室を後にした。
授業を終えて放課後になると優里は慌ただしくロッカーから道具と練習着を一式入れたバッグを取り出した。
「じゃあ私野球部の練習があるから」
「うん、頑張ってね」
蓮実は艶やかな茶色の髪に触れながら微笑んだ。「優里のこと応援してるから」
「そうそう。頑張って」と波子。
「試合ある時は応援に行くからね」と玲奈。
「ありがと」
じゃあまた明日ね、優里は友人たちに軽く手を振って教室を出た。
「ねえ、あなたも野球部に入るの?」
教室を出た所で不意に後ろから声を掛けられた。振り返ると茶髪でミディアムヘアーの少女が真新しい制服に身を包んで立っており、活力溢れるような瞳が優里を見つめている。
「そうだけど……」
そう答えると彼女は目を輝かせ「そうなんだ!私も!一緒にグランド行こうよ!」と嬉しそうに手を握ってきた。ハイテンションガールの唐突な登場に優里は困惑を隠せない。
「あ、私は野中菜月。あなたは?」
菜月と名乗る同級生は「よろしくね」と笑顔を向ける。
「私は美郷優里。一年六組」
「そうなんだ!私は五組だから隣だね!」
笑顔を崩さない菜月から「ほら、野球部行こ!」と急かされ慌てて革靴を脱いで玄関を出た。
「それにしても良く私が野球部に入るって分かったね」
「分かるよ。だって鞄に付けてるそれ、帝都ワルキューレのストラップでしょ」
「凄い。良く気付いたね」
優里が驚くと菜月は笑いながら「だって私も」と自分の鞄を見せた。ジャラジャラとストラップが幾つも付けられているがその中に優里が付けている女子プロ野球チーム『帝都ワルキューレ』のロゴを模したストラップが付けられていた。
「あはは、野中さんもワルキューレのファンなんだ」
「菜月で良いよ。私は小さい時からワルキューレ一筋だから」
帝都ワルキューレは女子プロ野球イーストリーグに所属する東京が本拠地の女子プロ野球チームだ。女子プロ野球チームの中では最古参の一つで人気、優勝回数共に突出しており、球界の女王と呼ばれている。
「へえ、小さい時は東京に住んでたんだ」
部室へ向かう道中で優里はすっかり菜月と意気投合していた。「それでワルキューレファンなんだ」
「そうそう。でも小さい頃は親の都合で転勤が多かったから東京にいたのも一二年とかだけどね」
菜月は苦笑交じりに言った。「中学に進学した頃にようやく転勤が終わって熊本に落ち着けたんだ」
「じゃあ結構全国色々行ってたんだ。野球はその頃から?」
「野球自体お父さんの影響で元々好きだったけどプレーするようになったのは小二位からかな。ほらその頃に女子の高校野球が初めて甲子園で開催されたでしょ。私それ観て野球始めたんだ」
「そうなんだ。私と同じだね」
優里がそう呟くと「そうなの!?」と菜月は嬉しそうに言った。
「やっぱあれで野球始めた子多いんだね!私周りで野球やってる女の子殆どいなかったから」
菜月は恥ずかしそうにしている。「実は中学まで男子と一緒にプレーしてたから同年代の女の子と野球するの殆ど初めてなんだよね私」
「へえ、男子に混じってやってたんだ。中学の頃はどこでやってたの?」
「藤崎シニアって市内のシニアだけど知ってる?そこで遊撃手やってたんだ。一応レギュラー」
「藤崎シニアってあの名門の?」
男子の野球事情に疎い優里でも藤崎シニアの名前は知っている。全国大会に何度も出場している県内屈指の強豪シニアだ。
(そこで男の子に混じってレギュラーやってたって……めちゃ野球エリートじゃん)
彼女の持つ確かな実績に優里は思わず自身の中学時代と比較してしまったが、あまりの違いに思わず虚しさが込み上げた。
「じゃあ全国とかも出たことあるの?」
「三年の最後の大会が九州で準優勝して全国には行ったよ。準々決勝で負けたけど」
あっけらかんと言っているが大した実績だ。なんでそんな良い選手が他の名門では無く桜彩に来たのか疑問でしかない。
「凄いなぁ……私なんて投手やってたけど中学が部員数もギリギリの弱小だったから結局三年間で一回も勝てなかったんだよね。」
優里は苦笑しながら言った。「菜月と比べるとえらい違いだね」
「そんなことないよ。過去の実績なんて高校に入ったら関係無いと思う」
菜月は毅然とした態度で言った。「中学時代で結果残せなかったとしても野球を続ける限り可能性はあるんだからこれから勝てば良いだけじゃん」
「菜月……」
「一緒に頑張って甲子園行こうよ。ね、優里」
屈託のない自信に溢れた笑みを浮かべる菜月の姿を眩しく感じながら優里は「うん」と頷き、二人で部室へと歩いて行った。
野球部の部室は運動部共用の鉄筋二階建ての部室棟にあるが、ご丁寧なことに「野球部の部室はこちら」と立て看板が置かれていたのでどの部屋が部室なのかは一目で分かった。
「ここみたいだね」
菜月が部室のドアを軽くノックすると室内から「はい、どうぞ」と声が聞こえた。
「失礼します」
菜月が先陣を切って扉を開けて優里がその後を付いて行くと練習着姿の深海がベンチに腰かけていた。
「おっ、新入部員?」
深水の問いに二人は「はい」と頷いた。すると深水は嬉しそうに笑う。
「私は三年生の深水舞」
「あ、一年の美郷優里です」と優里。
「野中菜月です」
二人が揃って頭を下げると「よろしくね」と深海は柔和な笑顔でそれに応えた。優しそうな雰囲気を漂わせる先輩に二人は一先ず安堵した。
「あの、他の先輩たちは?」と菜月が尋ねた。
「ああ、他の部員はもうグラウンド。私は案内任されたから部室で待ってたの」
深海は「まあ、座って座って」と椅子を出して来たので二人はお言葉に合わせて腰を下ろした。
「あの、来てるのまだ私達だけですか?」
「そうだよ」
菜月の問いに深海は頷いた。「十人ぐらい入部するみたいだけどまだ来て無いね。昼休みに二年の子が立て看板置いてくれたから部室の場所で迷っては無いと思うけど……」
やっぱりあれは分かるように置いていたのか、と優里と菜月は納得して顔を見合わせると思わず笑った。
その後看板に釣られるように一人二人と新入部員が集まって来たので優里たちは練習着に着替えることにした。練習着の指定は特に無かったので今日は中学時代の物を持ってきていた。
「菜月のそれってシニアの頃の練習着?」
「あ、そうそう。シニアが練習着自由でさ、いつもこれ着てたんだ。可愛くて気に入ってるんだよね」
菜月は肩口が紫で彩られた練習着に袖を通す。「チームメイトからは“俺らは絶対にこんなの着れねえ”って言ってたけどね」
「確かに……」
それは男の子が着るにはちょっと恥ずかしいだろうな、と思いつつ優里は白の練習着を身に着けた。
「じゃあ、皆着替えたらグラウンド行こうか」
はーい、と深海に新入部員たちは頷いた。
桜彩女学院野球部の練習グラウンドはセミナーハウスと呼ばれる学院所有の合宿所のすぐ裏に広がっている。野球部専用のグラウンドとして使われており、簡易的だがすぐ横には屋根と芝が設けられた小さい室内練習場もあるようだ。
学院自体元々土地が余っていた場所に男子高等部と女子高等部が創立されたとは言え、専用のグラウンドと室内練習場があるとは相当な好待遇だ。しかし、待遇の良さの半分は建前で深海曰く「硬式球が他の部の生徒に当たると危ないからね」というのが理由らしかった。
(にしたって恵まれてるよねここ)
いくら女子野球が一般的に普及してきたとはいえ、これ程の設備を有する学校は全国でそう多くは無い。あったとしても男子硬式野球部が元々名門というケースが殆どだろう。
「ここ相当広いよね」
「うん、桜彩は九州の女子野球の中でも結構しっかりした環境だからね。」
へえぇ、と菜月の言葉に感嘆しながら優里はグラウンドをぐるりと見渡した。
練習場は両翼が100m近くある一般の球場並みの広さを持っており、内野には黒土が敷かれている。聞いた話では橘が桜彩に赴任してきた際に学校側が「元プロが指導してくれるなら相応しい環境を」と気を利かせて用意したらしい。
そんな広々としたグラウンドに目を向けながら優里は思った。いよいよ高校野球が始まるのだと。
中学では一度も勝てずに悔しい思いをした。だが、再戦を果たしたい相手がいる。目指すべき場所がある。叶えたい夢がある。
その為の第一歩がここから始まる。優里は新たな始まりの決意を抱くとグラウンドに一礼して足を踏み入れた。
ウイニングエース~少女たちは甲子園を目指す~ 本野倖 @NANA_LIVEs
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