蛞蝓をすくう

綿引つぐみ

蛞蝓をすくう

 みくりは中学二年生だ。

 一人暮しのおばが死んで、みくりは姉の香苗とが家の掃除と遺品の整理を任されることになった。

 駅から家までゆく間、住宅街の中を流れる小さな川沿いに桜が咲いていた。ほころび始めたところだ。

 おばが死んだのは秋の初めのことだから、それからもう随分経つ。

 しばらく前から急かされていたが、大学と中学がそれぞれ春休みになったタイミングでようやく二人は腰を上げた。


「古いね」

「うん、古い。みくりはおばさんに会ったことあったっけ?」

「ない。おばさんて幾つだったの?」

「たしか七十五くらいだったかな」

 木造の年月を感じる家だった。玄関先には草が茂っていた。みくりたちは二晩ほど泊り込み、ごみを出し、金目のものは売り払った。電気や水道は通じていた。郵便受けはさまざまな通知書で一杯だった。おばのことはよく知らず、特に形見を残そうというような気持ちもなかった。


 二晩の間、悩まされることがあった。風呂場に現れるものがある。

「うわ。なにこれ。気持ちわるぅ」

 風呂場で姉の香苗が声を上げる。

「うじゃうじゃいる。うじゃうじゃ」

 みくりが香苗の背中越しに見ると蛞蝓がタイルの上を這っている。しかしうじゃうじゃというほどではない。せいぜいが五六匹だ。

「シャワー浴びれないよこれじゃ」

 香苗はすでに半裸になっている。

「あたし触れない。みくり、お願いっ」

 みくりはシャワーヘッドとブラシを手に這い回るやつらを洗い流した。それはカバーを外した排水溝の真っ暗な穴へと消えていった。


     #


 家の仕舞い作業はまだ途中だった。だがあらかた片付いたからといって翌日から香苗は恋人との旅行に出かけた。

「あんたはこれから三日間、完全に自由よ」

 みくりはしばらくこの家で独りの時間を過ごすことになった。

 一人で片付けをする気にもなれず、みくりは縁側に寝転がってお昼代わりのチョコがけビスケットをかじっていた。

「おばあさん死んじゃったの?」

 声をかけられてみくりは素早く上半身を起こす。目の前にいるのは七八歳くらいの男の子だ。男の子は物怖じすることもなく慣れた様子で庭にいる。銜えたままのビスケットを急いで噛み砕きながらみくりも尋ね返す。

「あなたはどこの子?」

「となりのとなりのとなりのこ」

「おばさんは天国に召されました」

「ふうん」

「たべる? ビスケット」

「うん。もらう」

 男の子はビスケットを一枚受け取るとまたね、 といってどこかに帰っていった。


 夜。風呂場ゆくとまた蛞蝓がいる。

 きれいに洗い流し、浴槽に水を張ると湯を沸かす。沸かし終えてふたを開けると浴槽の中に蛞蝓が数匹浮いている。

 古い家だが浴室に隙間などは見つからない。

 ──一体どこから来るんだろう。

 不思議に思いながらみくりは桶で蛞蝓をすくうと湯に体を沈めた。


 夜中。

 天井裏で音がする。布団の中でみくりは半分眠っている。

 確かに音が、しているような気がする。何の音だろう。ふかふかの布団はとても気持ちがいい。

 音に意識を引っかかれながら、それでもみくりの残り半分も眠りの中に落ちてゆく。


     #


 翌朝確めると天井裏に神棚のようなものがある。

 ──神様? 違うかな。何でこんなところに。

 天袋にすっぽり嵌った体を引き抜きながら、みくりは考える。

 昨夜まどろみの中で聞いたあの音が、何か神棚と関係あるのだろうか。それとも鼠かハクビシンかアライグマでもいるのか、と。


 ひとつ不思議に触れて、みくりはいろいろ家の中を探してみたくなった。

 片付けをしていた時とは違う目で、あちらこちらを眺める。

 箪笥の奥には古いアルバムがあった。若いおばの写真。セーラー服だ。誰が撮ったのだろう。幼げで含羞んだ笑顔をしている。父の歳の離れた姉は死ぬまで独身だった。その中の一枚に風呂の写真があった。みくりが知っているタイル張りのあの浴槽だ。おばがお湯に浸かって寛いだ表情をしている。それを斜め上、天井近くから撮った画だ。みくりはついついあれを探してしまう。あの這い回るもの。写真を凝視する。結局何も見つからない。それにしてもおばは美しかった。


 庭に下りるとみくりはその隅に五つ並んだ小さな石と木札を見つける。墓だ。立ち枯れた草の中、ひとつひとつの札には名前と日付が書かれている。ミケ。ミク。ミコ。ハダシ。カムロ。きっとこの家で飼われた猫の名だ。一番古い日付は三十年前だ。のっそりとミケの名札の裏から蛞蝓が姿を現す。よく見ると木札は這い痕だらけだ。粘液できらきらと光っている。

「なめくじなんてそこらじゅうにいるよ。見ようとしないから知らないだけで庭はなめくじだらけだよ」

 背後から、しゃがんだみくりに覆いかぶさるように声がする。昨日の男の子だ。

「そうなんだ」

 男の子の手には昨日みくりがあげたのと同じビスケットが握られている。


 夜。浴槽のふたを開けるとやはりそれが二匹三匹浮いている。茹ったそれをすくう。もちろん湯を入れる前に入念に確かめた。

 みくりはゆっくりと湯に身を沈める。自然と強張っていた体が少しずつほぐれてゆく。

 つむっていた目を開けると視野の端に何か黒いものが映った。浴槽に張られた湯の中。

 あいつだ。

 ひとりの夜、風呂の湯の中に生きて這うもの。

 思わず栓を抜こうとしてやめた。たった一匹だ。それにそこから這い上がったのかもしれない。だとしたらそんな通路は開きたくない。小さな生き物よりも、得体の知れない暗闇のほうがずっと怖い。

 爪先のさきのそれを、みくりは見失わないようにじっと見る。するとそれは不規則な弧を描きながらくねっている。

 変な動きだなと思いながら眺めていると、だんだん這い痕が文字に思えてきた。

  ──お・か・え・り?

 何? おかえりって。


 翌朝、蛞蝓はいなくなっていた。浴槽を隅から隅までさがす。

 タイルの上に十分の二ミリくらいの糞が数粒残っていた。

 

     #


  浴室。台所。縁側。猫の墓。庭の飛び石。郵便受け。蛞蝓の這い痕はおばの残した生の記録のようだった。

 あるいは白く光るそれは神経細胞で、この家がおばの記憶を思い出しているのかもしれない。

 ──だとしたら今この時のわたしも記録され、記憶されてるのかな。

 死んだ人はいなくなる。でもその人の考えたこと、意識の一部は共有されて父を介してわたしの中にもきっと残ってる。会ったことはなくっても。

 不可思議な気分だ。みくりはそう思う。奇妙だ。とっても奇妙だ。

 蛞蝓を愛でつつ過ごした三日。最後の夜の栓を抜く。浴槽の底に残ったそれに白い粒を手から零す。塩に覆われながら二三度体をくねらすと後はもう萎んでゆくばかりだ。見る間に溶けて、消えた。


 明け方のゆめのなかを巨大な蛞蝓がぬたり、と横切った。


    #


 四日目の朝早く香苗が帰ってきた。

 家の中からは蛞蝓の気配は消えている。外には幾らでもいるのだろうけど。

 香苗は旅行から帰るとやるべきことをてきぱきとこなし残った仕事を片付けた。

「あとは諸々手続きね。郵便局と不動産屋に行って」

「ナメクジってさ、塩をかけると消えちゃう?」

「なに急に。別に消えはしないんじゃない。縮むかも」

 姉妹は玄関を出る。

「ねえ。わたしたちここに住もうよ」

「は? もうすぐ学校始まるじゃん」

「あたしどうせ行ってないし」

 香苗が困ったような顔をする。

「転校しよっかな。したら学校行けるかも」

「こっからだと大学通うのきついな」

「にこっ」

「口で言っても全然可愛くない。どうしてもっていうなら、父さんに相談してみるよ」

 振り返ると郵便受けに蛞蝓が這っている。満智子、とおばの名前が見える。苗字は蛞蝓に隠れて見えない。

 ──見えなくても分かる。父と、わたしたち家族と同じだ。

 春の陽射しは柔らかく、まだその小さな生き物を干からびさせるほどの力はなかった。

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