だから夏は眠らない

彩世 小夜

冷蔵庫に何食分かシチューいれました、確認よろしく

 ごめーん、と間延びした、反省の欠片も見えない声。それと共にインターホンに映る双眼。ど深夜に押しかけたことに対してなのか、またうちに逃げ込みに来たことに対してなのか。夜闇に溶ける黒猫のごとく黒いフードを目深に被り、インターホンのライトに目を光らせた彼女が寒そうに白い息を吐き出したのが、荒い画質ながらもしっかり見えた。インターホンのボタンを押す。

「滞在金」

『オレンジジュース』

「よし」

 インターホンをきり、廊下を進む。ドアを開ければ冷気と共に彼女が家へと入り込んだ。そのまま彼女は我が物顔でリビングへ、ストーブの前を陣取った。その後ろを通過するついでにフードを剥いでやれば、真っ赤になった耳が覗く。

「すぐ入れてよかったぁ。また玄関先で待たされるのは無理。本当に寒い」

「ならもっと着てくればいいじゃん」

「これがいいの」

「わがまま……」

「えぇ〜」

 じゃあ服を貸せと言い出した彼女は、ソファの上に積んであった僕の服の山を崩し出した。あっという間に荒野にされたソファで意気揚々とファッションショーをはじめる。同じ背丈でよかったとカーディガンを羽織る頭を一度叩いた。そのまま僕はキッチンに向かい、渡されたジュースをコップに注ぐ。彼女の分らしきぬるいコーンポタージュは、少し悩んでマグカップに注いだ。ストーブ前で足の指で遊ぶ彼女にカップを渡せば、お礼もそこそこに一度ぐびっとそれを飲む。それから半分減ったそれにちびちびと口をつけた。外の冷気で冷えたオレンジジュースを隣で飲みながら、彼女の外ハネ気味な髪の毛がひょこひょこと動くのを眺めていた。

「ゆうちゃんさぁ」

 目線はコーンポタージュに向けたまま、彼女は口を開いた。唇の上には淡黄色のひげ。赤い舌がすぐにそれを拭った。

「ゆうちゃんはどっか行かないの」

「日中学校行ってるけど」

「そういうんじゃなくて……うーん」

 彼女はカップの側面を爪でカチカチ叩きながら、言葉の続きを探す。ようやく絞り出した一言は、

「出かけるってなったら呼んでね」

だった。にへらと笑った彼女は、ほぼ冷めた中身をぐいと飲み干して立ち上がる。パーカーをしっかり被り、僕にカップを押し付けて玄関へ向かった。その後を追えば、彼女はもうドアを開けて、外へ一歩足を踏み出したところだった。

「羽琉」

 背中に声をかけた。パーカーの影に隠れた瞳が、玄関の明かりを反射してぼんやりと光る。そのまま動かない僕としばらく目を合わせたあと、じゃあねと笑って暗闇に溶けていった。

 静かに閉じたドアをしばらく見てから、自分のコップに残っていたオレンジジュースを飲み干した。酸っぱさと冷たさが喉を通り過ぎたところで自分もやっと動き出す。流しにカップたちを投げ込み、崩された服の山を戻し、ふと時計を見れば二時を過ぎていた。いい加減宿題に立ち向かわないと。仕方なく重い腰を上げたところで、またカーディガンを返されていないのを思い出したのだった。



 雨が降った日の夜は、彼女が夕食を求めて必ずうちに来る。だから、朝のうちから降っている時は、材料を買いに寄り道をしてから帰る。玄関にタオルを積み、キッチンでは大きめの鍋でそこそこの量のシチューを。前に持ち帰ることを勧めたけれど、彼女にしては珍しく丁重に断られてしまったため、ギリギリ二人で食べきれるぐらいの量にしないといけない。肉が好きだと言うから、野菜よりも肉が鍋の中身を占める。たとえ今日料理自体がなくならなくても、肉は綺麗サッパリ消えているのだ。

 と、インターホンが鳴った。誰か確認もせず玄関へ向かい、ドアを開ける。いつものようにするりと室内へ入ってきた彼女はずぶ濡れだった。寒い、と一言こぼして、僕からタオルを受け取る。

「お風呂は?」

「雨がシャワーだよ、ストーブのほうがいいな」

 今までしつこく言ってきたおかげか、彼女はある程度体を拭いてから靴を脱いだ。残ったタオルを片付けてリビングに戻った頃には、猫のようにストーブ前で丸くなっていた。その小さな背中を横目に、出来上がった鍋を机に持っていく。すぐさま椅子に座った彼女は、いただきますもそこそこに皿いっぱいにシチューを盛った。

「ねえゆうちゃん」

「おかわりなら自分でどうぞ」

「違う違う、けどもらう」

 彼女はまた皿いっぱいにシチューをよそう。スプーンでそれを掬いながら、彼女はもう一度ゆうちゃんと口を開いた。

「ゆうちゃん、夏って知ってる?」

「なにそれ」

「季節なの。ずうっと暑いの。暦の上ではね、八月はもう夏なんだよ」

「はあ」

 スプーンを運ぶ手を止め、彼女を見た。熱いものが得意じゃない彼女は、何度もシチューに息を吹きかけている。カレンダーに目線を移せば、確かに八月だ。年がら年中寒い世界を生きている自分には、あついの感覚がよくわからない。火傷の熱いとはきっと違うんだろう。なんで急にと聞けば、彼女は少し寂しそうに、なんとなくだと答えた。

「雪にならないといいねぇ、登校大変になるでしょ」

 鼻を赤くした彼女が帰ってしばらくしてから雪が降った。言葉にするからいけないのだと、目の前にいない彼女に意味もなく八つ当たりをしておいた。



「先生は、夏って知ってますか」

 帰りの会の前、僕は思い切ってそう先生に聞いた。担任はその質問に一瞬目を丸くする。

「夏……芦山さん、それどこで聞いたの?」

「友人が言ってて」

 友人の名前を聞きたそうに口を少し開いて、また閉じた。ほんの僅かな沈黙の間に、古っぽいストーブが存在を主張する。また少し悩むような素振りを見せて、先生はまた口を開いた。

「そうだね、この地球にはもう来ないものかなぁ。昔存在した季節の一つでね、その間はずっと暑いのよ。じっとりしてる感じ……お風呂が近いのかな。私もよくは知らないんだけどね」

「……あつい」

 そうそう、と先生が笑う。人がぐんと減った校内。暖房器具の数も減らしたせいか、今までよりずっと寒く感じる。笑った時にこぼれた呼気も、はっきりと白く見えた。 

 帰りの会の時間を知らせるチャイムに、廊下にいた生徒も立っていた僕も自分の席に座る。それでも、教室の机は半分も埋まっていなかった。寒さも厳しく、もとより人口の少なかったこの街から、人々はどんどんいなくなっている。みんな、発展していて過ごしやすい都市部に住みたいのだ。人の減った街からは学校もなくなる。きっとこの街最後の学校もなくなる時が来たのだろう。先生のいつにも増した真剣な顔に、僕はなんとなく察してしまった。

「昨日、校長先生からお話がありました」

 学校が閉鎖される話も、引っ越し書類の説明も、すすり泣く音も、右耳から左耳へと通り抜けていく。ぼんやりお知らせの手紙を見る僕の頭には、黒いパーカーの後ろ姿が浮かんでいた。



 ゆうちゃん、と呼ぶ声で目を開けた。黒いパーカーにうっすら雪を乗せて、羽琉がこちらを覗き込んでいる。手元にはオレンジジュースの缶。目が合うと、彼女は頭を動かした。僕の服装を見ているようだった。黒いコートに大きなキャリーバッグ。まじまじとそれらを見てから、彼女はもう一度視線を合わせた。

「こんな時間にどっか行くの?」

「うん」

 ピクリとフードが揺れた。彼女が吐く息はいつまでも白い。夏ならばどんな色をするのだろう。

「もうすぐこの街に人はいなくなるよ。学校もなくなるんだ。父さんや母さんもお金を稼ぐために都会に行ったきり一回も帰ってこない。きっと、ガスストーブじゃなくてもっといい道具があったりして、都市部はここより過ごしやすいんだよ。 僕だったら、ここより温かいところがあるならずっとそこにいたくなっちゃう」

 そんな風に言っても、彼女の表情筋は動かない。はっきり言えと言われているような気分だ。大きく息を吐きだす。

「……もう出来たての夕食は準備できないし、ストーブも提供できない。ごめん」

「も〜、最初からそう言って」

 頭を下げようとしたところでやっと、いつもの明るい声がした。さっきまでとは打って変わって、安心したような笑顔がそこにあった。手は、カツカツと缶を弾いている。

「夏、都心にあるといいねぇ」

「あったら教えに帰ってきていい?」

「ううん、いいよ。私知ってるもん」

 私、物知りなんだよ。彼女はちょっと自慢げに目を細めた。その仕草に、彼女と出会ったときのことを思い出す。校門の近くで、暗闇の中に溶け込む黒パーカー、その奥の月明かりを反射した目が、僕の買い物袋をじっと見ていた。その直後に聞いた大きな腹の虫の鳴き声を僕は忘れないだろう。なんとなく良ければ一緒にと声をかけ、家でシチューの感想を聞いたときも、美味しいと言いながら同じように目を細められた。

「まだ行かなくていいの?」

「いや、もう行く。電車はまだぎりぎり動くみたいだから。いつが最終便になるかわからないけど、きっとすぐ動かなくなるよ」

 さり気ない誘いにも、ふへぇ、と心底関心なさげな返事をするだけだ。彼女はやはり、この街から出るつもりはないようだった。思えば、僕が出るときは言えと言うくせに、自分が出ていくような話はしなかった。

 彼女は僕に道を譲るように横に退ける。通り過ぎる前に、次いつ見られるかわからないその頬を一度ひょいとつまんだ。仕返しとばかりに、冷え切ったジュース缶を首元に押し付けられる。冷たい。ありがたくもらっておくことにした。

「羽琉」

「なあに」

 じんわり空の色が変わっている。何度見たかわからない徹夜明けの空。いつ来るか予想のできない彼女を待って、眠らない夜を過ごす必要はもう無くなるのだ。冷たい缶とキャリーケースの取手を握りしめる。首筋を朝日がじんわり焦がす。

「色々教えてくれてありがとう」

 ポッケに手をつっこみ歯を見せて笑う彼女。その瞳は、いつか彼女が教えてくれたひまわりと同じ色をしていた。

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だから夏は眠らない 彩世 小夜 @sayonaki333

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