異国記

鍋谷葵

異国記


 私は時代的に見ればまだまだ目新しい全金属低翼双発の剥き出しのジュラルミンが銀色に輝く中型旅客機に乗り、母国から乾燥帯に位置しながらも恵まれた多数のオアシスと歴史的大河によりリゾート地として世界に名を馳せている独立したばかりの中東の国へと、西洋が東洋に持つ植民地を泊まり止まり、四日と十六時間の長旅を経てやってきた。都会の喧騒から離れ、この異国の土地へと身も心も休めに私は母国を離れ、この田舎臭くも熱狂的な国へ来た。

 いや、私の本来の目的は、ゆとりに満ちた洋風休暇では無い。私本来の目的は、仕事のために、西側に行く経由地としてたまたまこの国に来ただけである。しかし、気分は大切である。例え、仕事であろうとも僅かな気の緩みは許容されなければならない。元来、東洋人は働き過ぎなのだ。休養の心持ちを持たねばならない。

 しかし、先程空港の職員に腕時計を渡し、時差を直してもらったのは、休養の心持ちからかけ離れている。時間を一々確認するのもだ。普段の忙殺が身に染みている。これほど憎いことは無い。


 私はどっちつかずだが、浮かれ気分である。

 そんな私の持ち物は、手持ち旅用の革製トランクケースだけだ。中身も、質素な物しか入れてきていない。着替えの肌着が数着、一ダースの煙草、数枚のハンカチと一束のちり紙、仕事に必要な書類類の纏まったファイル。大層な持ち物など要らないのだ。しがらみは、母国へ置いてしかるべきものである。必要なしがらみは、最低限度のもので良い。

 必要以上の物は、この国で買えばよいのだから。この砂と、土レンガの粗末でありながらも生活の活気を母国よりも感じさせる家々と、熱狂的な商人や職人と、国に活気と農業の恵みをもたらす大河にオアシスと、オリエンタルな音楽と香辛料の香りに包まれたこの国で、西洋と東洋を隔てる内海と乾燥する大陸を潤す大河の河口に臨むこの都市にて。


 しかし、いやはや砂漠の気候は、温帯に暮らしていた私には酷く堪える。唇は乾燥により不快な感触を示し、肌には砂埃がまとわりついて厭わしいざらつきが感じられる。

 また、日差しも強く、私が普段から着用しているとび色のハンチング帽では到底太刀打ちできない。そして、スーツと革靴もこの暑さには、あまりにも締め付けが過ぎる。そのせいで、私がこの国に着いてから初めて買った産物は、麦藁帽と、混じりけのない鮮やかな藍色リネンで作られたワンピースの様な、ゆったりとし、通気性抜群な、ひざ下まで隠れるこちらの伝統的な衣服。そして、ゴム底で緑色の麻で織られたサンダルとなってしまった。

 まさか、異国に来て初めて買う物が衣服と靴になるとは、出国するときには思っても見なかった。あの時の私は、もっと実用性の無いロマンの詰まった産物を異国の彩色と芳香溢れており、肌が薄黒い異人が、日々の生活のために混みごみとしているバザールにて買うと思っていた。だが、実際はバザールに行き、その喧騒と想像以上の雰囲気を目の当たりにしたが、購入した物と言えば、実用性しかないロマンの一つも詰まっていない産物だ。もっとも、これら伝統的な物品にもロマンを感じ得ることは出来る。感性は、未だ都会の喧騒に削られていないのだ。

 そして、この予想だにしない買い物はこの異国で過ごす時間を楽にした。

 なるほど、郷に入っては郷に従えというのは、正しい言葉である。無論、生活基盤を乾燥帯に置いている人々が普段着として着用している衣服なのだから、適応していない訳無いのだ。この国の人々は、どこに行っても(私が見たのはこの国の首都、そのごく一部であるから正確とは言えない)どの性別でも、私の様な服と靴を纏っている普遍的な装いなのだから。

 例え、近代的な常識があろうとも、私の堅苦しいスーツと靴下からの解放は、古くから伝わることわざがいかに的を射ているのか、身を持って気付かせてくれた。やはり、先人の知恵というのは間違っていないようだ。それは、この気候帯に住む人々の生活からも言えることである。乾燥し、満足な水も得られず、暑さに悶えるようなこの厳しい気候をどうやって生き長らえるか、苦を少なくして暮らし向きを安定させられるのか、これら諸問題に対して一歩ずつ歩みより、合理的な様式を見出し、後世の世に繋ぐという大業を成してきた先人の意志は間違っていない。どこに暮らしている民族であろうともだ。

 これが人間の進化であるのかもしれない。動物としての進化を知恵で代用した人間にしかできないある種、一神教の神の意志に適合した進化なのだろう。『主なる神は土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった』と言うくらいなのだから。おおよそ、一神教の神は土くれの生物に、これ以上の進化を求めていないのだろう。だが、人は知恵の実を食し、肉体的な進化では無く、知識的な進化を迎えた。そして、エデンの園から追放された。

 いや、こんな話はどうだって良い。そんな堅苦しい宗教、現代において生活に信仰心を迫害されてしまった事柄は、私の肩を重くするだけだ。今は何のしがらみも無い休暇を送れるのだから、無垢な心でこの身をこの乾ききった地に落ち着かせよう。


 さて、先程バザールに行き、落ち着いた身なりにはなった。スーツも靴下も今や、右手に持つトランクケースの中に収められている。ようやく、私は母国のしがらみから抜け出せたような気がした。もっとも、鞄の中の仕事の書類の一切合財を忘れることは出来ない。

 ともあれ、一端は身を落ち着かせよう。この国に着いてから、未だ心を憩うことが出来ていない。ホテルのチェックインまで時間はまだある。身体は疲れているが、予定されたホテルは未だ開かず。いくら、大学を卒業して四年余りの若人であろうとも、四日と十六時間の空の旅は体に堪える。我が社が造った旅客用飛行機ながら思うが、あれは乗り心地が悪い。今度、設計局のやつに言っておこう。いや、我が国の工作技術の限界か? 双発の振動が身体に伝わり過ぎるなんて言うのは。

 仕事に対する愚痴は良いのだ。とかく、今はどこか座れる喫茶店の様な場所に行かねば。私の身体は、休息を欲している。


 私は休息の地を求めて、しばらく首都一番の大通りを歩いた。車道を挟んだ左右の歩道は異人にであふれ、未舗装の車道にはとめどなく薄汚れたトラックや、小麦やデーツ、丸々とした西瓜をこれでもかと載せ、私と同じような服を着た異人の男が乗る痩せた牛に引かせた粗末な荷車などが、真っ白な陽光に反射して眩しく、鬱陶しい白色の砂埃を立てながら通り過ぎてゆく。もっとも、多いのは荷車であり、トラック少ない。我が母国と同じである。

 そのような共通する点はある。だがしかし、いや、やはりと言うべきか、未だ私の様な東洋人をこの都市で見出だせていない。見かけるのは、豪奢なシルクの薄着を身に纏った肌の白い異人か、こちらに住んでいる貧しそうな浅黒い異人ばかりである。もっとも、この地は西方から来る方が近いため、これは仕方が無いことである。だが、一人というは少々寂しい。先ほどまで、しがらみから逃れることを是としていた私が思うのは、いささか筋が違うであろう。されど、同族が如きつながりが無いと心持ちは寂しくなるのは致し方ない。

 心持ちの下落が起こりながらも私は、砂塵と私よりも頭一つ大きい男たちの雑踏でいまいち先の見えない歩道を歩く。左は車道の喧騒、右は人々の喧騒で心落ち着かせるには、中々向かない。返って疲労が溜まる。いや、この国に喧騒なく静けさを求めることは無意味なのかもしれない。なるほど、通りでリゾート地だ。奢侈を狂乱を嗜むには、十二分すぎる。

 だが、今の私は静けさを欲す。

 ならば、どうすべきだろうか、果たしてこのまま人気流されて、大通りの終わり、リゾート地であり我が旅箱のある臨海地までずるずると行くのが答えであろうか。それとも、右に連なる商店にて喧騒の中、心落ち着かない時間を過ごすのが答えであろうか。優柔不断な私は答えの定まらないまま、あちらこちらを見流して、人気に流されて行く。

 そんな目的のための行動が定まらない私に、一つ不思議なことが起きた。


「こっちへ、どうぞ東洋の人」


 喧騒の中でも、はっきりと聞こえる母国の言葉が、低い女性の声が、私の耳に届いた。

 どこから?

 雑踏の中であれば、そうした疑問が生まれるかと思ったが、不思議なことにそんな当然の疑問が生まれることは無かった。私は、衝撃と共に私に声を掛けてきた、いや、正確に言えば私にとって見えていないが手招きする誰彼の方へと歩み寄る。私から見て右側、商店が立ち並ぶ内の一店では無く、店の入る土レンガの建物と建物の間、薄暗き空間へと足を運ぶ。私を招く声は、そこから淀むことなく掛けられたことを何となく私は直感的に理解できたから。

 そうして私は、私よりも背の高い異人たちを掻き分けて、路地裏へと入ってゆく。おおよそ、路地裏の中にも建物、住居があることは察せられた。華やかな通りの裏には、生活の生気が立ち込めていることは、私が巡ってきたどの国でも同じなのだから。そして、この見聞由来の世界的な常識(私の主観に過ぎない)の想像通り、通りの裏には生活を見出した。

 整然と管理された大通りとは異なり、そこは複雑に入り組んでいた。

 私の様な東洋人であれば四人、図体の大きい異人であれば三人ほどしか通れない通路をやっとのことで維持し、それを挟んで所狭しと建てられた土くれの二階建ての住居と木製の扉、それら建物の間に張り巡らされた粗い麻縄、そしてそこにかかる色鮮やかな衣服、長い年月使われていたことが錆び付いた滑車と朽ちかけた木材から察せられる共同の井戸、鼻に付く異臭と住居の窓から香ってくる夕食に使われる香辛料の香り、こちらを興味深そうにジッと見つめる先程までこの狭き路地にてサッカーをしていた上裸で、茶こけた頬を見せるほとんど同じような顔と身長の五人の少年たちの汗の臭い、そしてありとあらゆる家庭から立ち上る黒色の煙。大通りを歩いていた際には、見ることも嗅ぐことも出来なかった煤煙が路地裏には、霧のように、ありとあらゆる隙間を満たすように立ち込めている。

 この路地裏は、この国の一般市民の生活が全て並べてあった。私は、どこか故郷が懐かしくなった。私が焦がれた光景だ。庄屋の息子が憧れては、決してならない憧れた光景だ。

 違う。私が魅かれたのは、こうした雰囲気では無い。私がここに来た理由は、誰かに声を掛けられてだ。一体、私に声を掛けた者は何処へ?


「こっちよ。異邦人さん、こっちこっち」


 私の耳に、私を招いた女性の声が再び届いた。そして、私は声を発生源へと視線を向けた。そこは、所狭しと並べられた土レンガの雑多な一つの住居である。私を呼びかける誰彼の姿を私は、私が立つ場所から見ることは出来なかった。立ち込める煙のせいである。

 だが、私の視覚が認識できなくとも感覚的には認識できた。果たして、それがどうしてなのかは私にも分からない。異国の神にでも、憑りつかれたのかもしれない。もしくは、異国の情緒が私に魔術をかけたのか。もっとも、そんな神秘的なことがこの世に起こるかどうかは、神職に就いておらず、信仰心すら薄い私には判断しかねる。私に分かるは、揚力、流体、空気抵抗、摩擦、その他物理学だ。生業の他、分かることは何もない。適当なことが言えるかもしれないが、それは全て戯れ言に過ぎない。

 ともかく、私は私を呼ぶ声へ歩み寄る。狭い通路を歩きながら、異臭の間を潜り抜け、私はそこへ着いた。声の出所は、他の住居と変わらない小窓のついた質素な扉がついた土くれの住居であり、何ら他の住居と変わった様は無い。建築様式も何もかもが同じである。


「こっちよ」


 そして、小窓からは私を招きよせた声が聞こえる。入ってよいのだろうか? いや、初見の、しかも異邦人たる私が勝手に異人の住居に入るなど不躾が過ぎる。相手が、出てくるまでこの場で待っていた方が良いだろう。良識的な判断だ。それに、もし、この部屋にて私を招く者が、盗賊的な者であったら非力な私はどうすることも出来ない。暫しの間、ここで待とう。

 しかし、私の配慮は要らなかったらしい。私が、この小窓付きの質素な扉の前に立つと、扉は内側へと開かれた。そして、中からは、焦茶色の瞳で、背丈は私より少し小さいくらいの艶やか黒髪を肩にかかる程度まで伸ばし、真っ白なワンピースを身に着けた若き女性が現れた。ふっくらとした健康的な肉付きと鼻の高さは、なるほど東洋人とは、似ても似つかず、西洋と東洋の間の神秘を感じさせる。

 私はこの女性に見惚れてしまった。そのため、暫時、麦藁帽を手に取り頭を下げることが出来ず、無礼にも立ち尽くしてしまった。

 だが、無礼極まりない私にも異人の女性は、我が母国の言葉で自然な笑みを浮かべながら優しく語りかける。


「大丈夫よ、安心して。私は娼婦でも無ければ、盗賊でも無いわ」


 この言葉に、見惚れるさしもの私も立ち直り、麦藁帽を手にとって恭しく頭を下げた。この聡明なる人に、私は毅然と礼儀を払わなければならない。疑いの心など捨て去り、律しながら頭を下げる。

 しかし、彼女は私のこの対応に愉快を見出したようだ。彼女は私の礼儀を見ると、この国特有の活気ある笑い声を上げた。バザールでも、大通りでも聞いた、品が無くも原始的な魅力に溢れて魅かれる女性の高い笑い声である。


「そんな畏まった挨拶をしなくても大丈夫よ! この国の人は、皆堅苦しい態度が好きじゃないからね。貴方の国ではそうかもしれないけど、この国は適当な挨拶を交わせばそれで万事解決よ」


「それは、どうも見聞になった」


 私は彼女の言葉に、少々顔を赤くした。だが、こうした恥を感じることこそが一番の無礼かもしれない。郷に入っては郷に従えであろう。ならば、私は頭を上げて彼女と顔を合わせよう。

 下げた頭を上げて、私は彼女に向かって一つの知識を得たことに対する謝辞を述べた。彼女の言うこの国儀礼に従った手短で、なるべく親近感がわくような柔らかな口調で。

 だが、私なりの配慮は彼女の期待に、もしくはこの国の儀礼に当てはまらなかったらしい。彼女は、私の言葉を聞き終えると、やはり品の無い大きな声で私を笑った。しかし、やはり、その笑いは異文化を嘲笑する雰囲気は無かった。むしろ、異文化を愉快の加減と同時に迎合する様子であった。異文化である私の仕草から、私の中に眠る異国の情緒を見出そうとしているのかもしれない。いや、もしくは私の身に我が母国の文化的に沁みついている感覚が呼び起こす恥から来る幻想なのかもしれない。もっとも、校舎であれば私は、恥の中に本物の恥を見せているのだが。

 果たして私が、どちらを感じているのかは私にも分からない。計量不可である。なるほど、私には分からないのだ。すなわち無知である。私は、無知であることを理解した。そうであれば、私は一つの予測に基づいて、自分勝手ながら異国の女性に我が母国の情緒を伝えよう。


「無理に合わせなくも良いのよ。まだこっちに来てから間もないだろうし、無理やり異文化を身体に合わせなくても、こっちの人は貴方みたいな外国人に慣れているから大丈夫。ただ、少し深い会話をしたいならもう少し口調を柔らかくした方が良いわ」


「それはどうして?」


「貴方、どこか学者みたいですもの。大体、この国に来る学者っていうのは、人文学か考古学の人よ。そうした仕事には現地の人の協力が必要不可欠でしょう」


「なるほど、そう言うことですか。いや、しかし、私にその心配は無用です。私の仕事はそれら人類の叡智を調べ、後世に伝える仕事ではありませんので。私の仕事は、数字で鳥を創る仕事でありますから」


「飛行機?」


「そうです。飛行機です。私は飛行機の設計の仕事をしています。東洋の島国にて、孜々として美しい飛行機を創っています」


 どうやら私に対してのある種のお節介は、彼女の勘違いによるものらしい。納得である。異邦人、しかも初見たる私に対して緊密に接してきたのは、こうした理由なのか。

 しかし、言い方も悪いがこのような観光業ばかりに投資し、国民生活の基盤にかかわる教育にも力を入れていない文明に疎い国の一女性がどうしてこの国の見られ方に知っているのか私には気になって仕方が無い。加えて、彼女は私の言葉から飛行機を見出した。

 いや、それ以上にどうして彼女は我が国の言葉を喋れるのであろうか? 理解できるのであろうか? どうしてこの庶民の生活の中に身を投じているのだろうか? 私には気になる。


「そう。だから、固い喋り方なのね。あの人みたいに。数字を突きまわしている人は誰も彼も……」


「あの人?」


「私の夫よ。私の夫は、西の大帝国が支配する東南植民地で経理の仕事をしているの。砂糖やらジュードやらの収穫高と出費を計算したりするね。けど、仕事内容から察するに中々酷い性格よ。私が世間話をしようとすると仕事の邪魔だとキッと睨みつけて、けれどこっちが忙しいときは傲慢にお茶をねだったりね。女の愚痴よ。けれど、仕事の型にはまる前、まだ若くて文筆家を目指していた頃のあの人は、良かったんだけどねえ。私の話をずっと聞いてくれてねえ……」


 彼女は腕を組み、眉間に皺を寄せると思い悩ましそうに言葉を濁した。この国は、妻が夫の愚痴を公然と言うことに恥を感じないのか? 素晴らしい自由主義だ。しかし、理性的にそう感じようとも私は、どこかこの愚痴をむず痒く感じる。おおよそ、我が精神に宿る不自由な女性束縛の思想が、彼女の言葉を過敏に受け取り、うごめいているせいであろう。精神的後進性にも関わらずだ。

 私は恥ずかしさを覚えた。列強とも並べられる国の一国民、しかも国立の大学を出た(本当はこのような腹立たしい自称など使いたくないが)所謂、奢侈の生活に身を置く者が、精神的には独立したばかりの国の一国民に精神的遅れを取っているなど恥ずべきことである。豊かな身の上に、学習の機会を与えられ、新たなる社会を創造すべき人間が、古い慣習に囚われ続けている状況はあまりにも醜い。機械の放棄。心は童なり、されど身は大人。

 しかし、私は今、彼女からこの精神的後進性の醜さを学んだ。もはや、二度目の恥は無い。あるべき自由主義的精神を心に宿さなければならない。私は反省を胸にし、異国の新風を体に受けよう。


「それは酷くつまらないことですね」


「分かってくれるのね。まあ、飛行機なんて夢のある乗り物を創っているんだから植民地で数字とにらめっこしてるあの人とは違うものね」


「いや、それもまた仕事です。例え夫の仕事をつまらない仕事と思っていてもそれは生業です。ですから、本質的には誰彼の仕事に差異は無いんです」


「硬いことを言うのね。東洋人の貴方によく似合ってるわ。とりあえず、いつまでも立ちっぱなしって言うのも何だかは入って頂戴」


「では、失礼」


 私は自分なりの仕事に対する観念を彼女に告げると、彼女はどこか不服気にしながらも私を煤煙と不快臭の満ちる細い裏道から、それを妨げてくれる部屋へと案内された。無論、それを無下にすることなく私は彼女に従うがままに、この家へと入る。やはり、我が母国とは異なり、異国らしく家庭には土足で上がるようだ。慣れないことだが、風習に慣れるしかない。


 彼女の家は狭く、暗かった。どうやらここの家には、いや、この国の大多数の家には電気が通っていないらしい。また、無計画に家を建ててしまったせいで、せっかく取り付けてある粗末なガラス窓からも陽が差すことなく、部屋の中は陰鬱な空気と薄ら寒い暗がりに満ちている。生活にて生じる煤煙を出すための煙突も長年の使用のせいで機能していないのか、部屋の中は酷く煤臭かった。

 しかし、そのおかげか虫を見ることは無かった。この家に入ってすぐ右側に見える台所には、荒い麻袋の中に入れられた完熟し、珍しく乾燥していない鮮明な赤色を見せるナツメヤシがおびただしい数入っているが、その周辺に油虫の黒き影を見出すことや蟻の連なる細き列を見出すことは出来なかった。これだけの不衛生さからすれば、それらの生き物が見えても良いはずなのだが、はてさてどこにも害虫を見出すことは出来ない。我が母国では、酷く嫌われているかの虫らを見出せないのであれば、私としてはそれなりに心地が良い。

 しかし、煤に溢れかえり埃が舞う淀んだ空気と暗がりの陰惨な空間を梱包したこの粗末な箱の中で、生活しようとは、現代人な誰もが思わないであろう。それほどまでに、我らが国民、延いてはいわゆる列強の国の国民からしたら不衛生なのだ。都市部にもかかわらず、上下水道が無く、台所には土竈と素焼きの水瓶と使い古されて嫌な油が染みついている鉄鍋と汚れた茶器と焦げ付いたやかん、便所は外に共同のモノがあるらしく見当たらない。ただ、狭き台所を兼ねた玄関とおおよそ彼女が針仕事などをするであろう粗末な机と椅子が置かれた奥の小さな部屋、そして小さな部屋の中に、雑多な木材で粗末に作られたぼろぼろ階段を上り、唯一陽光に当たることの出来る部屋のみの家。このような惨めな家が、なるほどこの国の都市部の生活なのである。

 いいや、おおよそこの国の大多数の庶民はここに住んでいるのであろう。玄関奥に見える階段を上がらなければ、素晴らしき陽光に当たることの出来ない蟻の巣と何ら変わらない家に住んでいるのであろう。貧困的な家だ。

 しかし、私が幼少のころから望んだ家はこうした家だ。国が違えど、私が望んでいたのはこのような貧乏、いや赤貧に満ちた心苦しい生活である。口が裂けても言えないことだが、私はこのような家に住み、幼少のころ延いては現在の生活を送りたかった。だが、我が家はそれが許されない。奢侈の不自由である。


「まあまあ、あまり硬くならずここに座ってくださいな東洋の人」


「はい」


 彼女は私の中に眠る惨たらしい幻想を見透かすような、私からしたら心が酷く揺さぶられる微笑を私に向けると狭く薄暗き世界の中にひっそりと佇む、見た限り、建て付けの悪い粗悪な材木で組まれた粗い椅子へと私を誘った。座れば壊れてしまいそうだが、私は知りながらも座ろう。礼儀である。

 そして私を誘った彼女は、私のためにあの煤けた厨に向かい湯を沸かし始めた。あの汚らしい茶器で茶を飲むのは気が引けるが致し方ない。


「うん、やっぱり造りが甘い。よくこれで、これだけ持ったな」


 しかしそんな茶に対する心配など、この椅子酷く軋み、ぐらつきを感ずれば直ぐに無くなる。四足が見事なまでに安定していない。だが、どうにかして保たれているようだ。もしかしたらすぐに崩れてしまうかもしれないが、それもまた一興だ。この貧しき家庭に身を置き、未だ一度も経験したことの無い侘しさを感じることを感じ得るかもしれない。そうなれば、私の叶うことの無い醜い夢の一つを僅かながら叶えることが出来るだろう。

 あさましい夢だ。私がすべきことは、こんな自分の醜い夢のために貧しき家の家具一つを壊すことを願うことじゃない。それは貴族の遊びだ。陰惨なる遊戯に過ぎない。私がすべきはこの家具を直すことでは無いのか? それこそがこの招待に対する最大の礼儀では無いのか? 彼女から異国の文化なり風俗なりを学ぶにあたっての対価では無いのか? どうして、すべきことがこれだけ分かっているのにもかかわらず、私の頭は独善的な夢を弾き出すのだ? 不思議でならない。

 憤りを感じる私であったが、内面のこの感情を明確に表現することは出来ない。森を認識できたとしても、その中で命の営みを続ける生き物たちをこと細かく表せない様に、私は私自身のこの怒りを表現できない。恥ずべきということだけは分かる。しかし、分かることはそれだけである。このいわゆる部分的な感情のみが、私の認識として残り、それ以外は闇に包まれたままである。木陰あるいは群生する植物に覆われたままでいるのである。

 これもまた怒りだ。いや、怒りよりも苛立ちと言った方が良いだろう。この腹立たしさは言語に達しえない。苛立たしく、腹立たたしく、苛立たしい。


「どうして深刻に椅子を眺めているの?」


「いや、少し自分に腹が立ちましてね」


「変わった人」


 どうやら私の苛立たしさと腹立たしさは、彼女に伝わってしまったらしい。しかし、ある一つの性質を持った感情に汲々と囚われている私にとっては、彼女の言葉は救いの手であった。なぜなら、自己嫌悪は私の軽快かつ異文化に触れあおうという気概を奪ってしまう最悪の心持ちであるためである。

 そして私の集中は古ぼけて壊れかけている椅子から茶の香りに奪われ、下向いた視線は薄暗い中でもはっきりと分かる彼女へと向く。彼女は手に、汚らしい銀の茶器を真鍮か何かの盆に載せて持っている。全て金属製ゆえに、それなりの重さがある様に思えたが、彼女はそれを何ともなく軽々と持つ。彼女もまた、我が母国の女性同様に力強い。それから彼女は、見た限り重そうな茶器を古ぼけて今にも壊れそうな木机の上に優しく置くと、私の対面にあるやはり私の座る椅子と同様に壊れかけた椅子にどっしりと腰を掛けた。

 力強き彼女は座り私に向き合うと、薄暗い中でも澄明に分かるほど屈託のない笑みを向けた。揃った白き歯が暗がりの中では眩しく思えた。ただ私に対する眩さは当然、彼女に伝わるはずが無く、彼女は私が目をすぼめるところを見ると不思議がった。だが、異人たる客人には頓着せずに彼女は取っ手と側面が錆び付き、本来の輝きを失っている銀のティーポットを手に取り、貧しさを感じさせる一切の工夫が凝らされていない平坦なティーカップにその中身を注いだ。香りから察するに紅茶のようだ。


「ありがとうございます」


「そんなに畏まらなくても良いのよ。それで、貴方はこれからどこに行くの?」


 竹を割ったような性格の彼女は、右手にティーカップを持って頬杖をつきながら私のことを詮索する様に尋ねてきた。その雰囲気はさながら世紀の探偵のようであった。未開の文化が開けたばかりの野性味の中から醸し出される聡明の光は、後光にも匹敵するかもしれない。

 しかし私は聖なる衣を纏う雰囲気に置くすことは無い。頑強なる精神と現代文明を受け入れ、宗教のもたらす道徳的観念を捨てた国民性ゆえのことかもしれない。もしくは、彼女よりも聡明な人とたびたび会話を繰り返して来たという私の経験からかも知れない。ともかく、私は彼女の知的なる言葉と視線と仕草に対して、肝を冷やし、臆することは無い。


「私はこれから西に行きます。西に行き、勉強をしてきます」


「なるほどね。確かに向こうの国は科学が進んでいるしね。けれど、あそこは貴方みたいな異人を私たちみたいに歓迎してくれるとは思わないわ。夫の仕事で、貴方の国でしばらく暮らしていた時は貴方の国の人は優しくしてくれたけど、夫の母国では上手くいかなかったしね」


「そこもまた文化です。私の国とて、貴方に優しくしたのは本心からでは無いと思います。それはただ珍しい客人が、居たから優しくしただけだと私は思いますよ。我が母国の国民は、他人は冷たいが客人には優しいですからね」


 東洋西洋のどちらが優位なのかは、分からないがとりあえず私は彼女が我が母国に抱いている誤解を解いた。我が母国は、そこまで誇らしい国では無い。二百五十年の安泰を捨て、道徳と切り離され進歩を遂げた科学文明を受け入れる焦りの我が母国など、本当の文明国とは言えないのだ。しかし同時には、私はそんな歪んだ社会を愛おしくも思う。あれほどまで西洋に憧れを抱き、それに何とかして追いつこうとする不器用かつ急進的な国は、我が母国くらいしかないであろう。

 ただ国際関係において未成熟なのは変わりない。ゆえに異人に対する対応も、本質的な真心からでは無い。それは本当に珍しいもの見たさの興味でしかないのだから。それだから、私は彼女が我が国においてされた対応も、偽りに飾られた応接でしかない。もしかしたら、自分たちの好評を広めてくれることがあるという打算的な対応なのだ。もっとも、そう言った打算的なのは都市部に限られるであろうが。もし、農村部などの田舎では迫害的な的となるか、異常なまでの好待遇のどちらかであろう。

 我が母国の両極端な国民性は、私にも根付いているのであろう。この状況こそが、まさにそうである。見ず知らずの彼女を警戒し、言葉にしなかったが内側にはしたない女性であると軽蔑していた心が、彼女と話している間にすっかりなくなり、隔たりの無い会話を繰り広げているのだから。人はこれを信用と言うのかもしれないが、どうしても私には私という人格が愚かしい国民性に丸め込まれたとしか思えない。いや、これが我が母国では広義的な信用なのかも知れない……。


「そう、でもそれでも優しくしてくれたことは確かよ。それだけで十分よ。それに夫の国じゃ、私みたいな肌が浅黒い人種は大学にすら行かせてもらえないのに、向こうは快く私に学習の機会を与えてくれたしね。本音と建前が別でも、貴方と会話している今があるのならそれでいいじゃない」


「確かにそうですね。でなければ、このような数奇な出会いも無かったでしょう」


 内向的な我が母国の国民性を包みかさず話したが、彼女は紛い物を見せられた嫌悪や軽蔑を抱くこともせず、それは見えない結果に過ぎないと言った。そして、我が母国よりも先進的である西洋の国の後進的部分を示した。もしかしたら彼女なりの気遣いかもしれない。

 いや、違う。確かに彼女は自身の夫の国のことを快く思っていない。酷く先入的で、意味の無い考察になるが、彼女は夫の国自体嫌悪しているのだろう。世界の人々を虐げ、自国の利益になる様にだけ支配している彼女の夫の国が。そして、夫はその被支配地である弱き土地にて官吏として働いている。嫌悪すべき体制の中でも、もっとも忌み嫌う職に彼女の夫は就いているのだ。だからこそ、彼女は夫を嫌っているのではないか? 西洋本国の人の妻であれば、一国家公務員の妻など誉れ高き勲章であるが、つい最近まで被支配の現実に生きていた彼女にとって、官吏の妻ということは恥の象徴ではないか? 

 独善的な疑問であり、意味の無い考察である。しかし、私は鬱々と茫漠とした本音をこの薄暗き部屋と彼女のしたたかな笑みから見出した。見間違いということもあるかもしれない。私の見聞など当てにならない。探偵では無いのだ。

 そして私は自信の無さからか、彼女に発した言葉は、重心を置かないふらふらとしたものになってしまった。言うなれば、片翼の取れた飛行機だ。そんな酷い故障を起こしたくは無い。会話であればどうってことないが、技師としてそのような飛行機は創りたくない。私が創りたいのは、美しく、頑丈で、いつまでも蒼空を悠々と飛び続ける飛行機だ。


「貴方、飛行機のこと考えていたでしょ? 目が輝いていたわ。やっぱり、私の夫と違うわ。あの人はお金、貴方は夢だもの」


「ですから、仕事は仕事なのです。そこに変わりようは無いのです。農民の仕事であろうと、工作の仕事であろうと、土木の仕事であろうと、設計の仕事であろうと、全ての仕事は平等なんです。いや、平等でなければならないんです。全ての人は、より良き明日のために仕事をしているんですから。例え、自分の中でそのようなことを思っていなくとも、仕事の本質は明日のため、延いては人のために働いているのですから。むしろ、私の仕事の方があさましい。私の仕事は、技師という理想の高い芸術家が自身の理想を創るために莫大な金を浪費する仕事なのですから。自分の中にあるエゴを吐き出しているだけなのです。西洋へ私を送り、向こうから技師を母国に送る交換にも莫大な資金が関わっているんです。それも全ては、エゴのためです。良き飛行機を、良き芸術を生み出すため、しかも戦争に使われることを理解しながら、金を浪費するんです。それだけ、なんです。あさましいのです」


「そこまで語れるんだったら、貴方のエゴは許されるわよ。多分だけれどね。それに今は好景気よ。どれだけ金を使っても許されるわ。何時かは弾ける湧き立つ経済を利用して、学んだほうが良いわ。それこそこの時を自意識に苛まれて挫折するくらいなら、自分の独善を立てた方が良いわよ。私もそう。本当だったら、南洋の植民地の夫の下に行かなければならないけれどこの好景気を利用して、古巣に戻って、ここに居るの。母さんの弔いもあるけれどね。やっぱり、一人娘の手で、一人で海外の男に嫁いだ裏切り者みたいな娘の手でも弔ってあげたいじゃない。人情ね」


「人情ですか……」


 破滅的な創作の独善に苛まれ、呵責の熱波に虐げられる私であったが、彼女の悲しげな一言を聞くとそれは静まった。それどころか、私の独善的な自意識の非難は打ち砕かれた。若き彼女がその肩に背負っている重荷を見出したためである。

 私は天に咲く花が散りゆくのように見えた。良い香りの紅茶を靄の先に見える彼女の顔は、憂うペルセポネのようである。彼女にとってのザクロは夫なのだろう。ハデスは国だ。

 最愛の人から切り離された人間を私は目の前にしている。けれども、私に彼女は気丈に振舞う。どういうことであろうか? 先程まで私は彼女のことをこの国の代表のように感じていた。しかし今は同年代で、天涯孤独の身となってしまった寂しく悲しい生娘のようにしか見えない。

 いや、これは私の同情なのかもしれない。どこかわざわざ厭わしい母国を離れ、同胞の一人も見ないこの土地に来て一人ぼっちの寂しさを感じているからだろうか? 重荷の重さは異なるかもしれないが、それでも私は孤独に彼女と同じ点を見出したのか? もし、そうであったら私は非情な人間である。人の情につけ込んで、自身の傷を癒そうとしているのだから。私はエゴでは無く、私は空虚だ。虚しい人間だ。

 自身の醜さに私は口ごもってしまった。何とか発した言葉も、混在する感情により不安定となってしまった。おおよそ、感情の機微に聡い彼女であれば、私が今どのようなことを考えているのか理解していると思う。いや、これも私の独善であり、欺瞞だ。所詮私が彼女に対して抱く幻想に過ぎない。


「あんまり考え込まない方が良いわよ。私も夫の本国に居た時、母さんが危篤だって知らされて嫌悪感に苛まれたけど、こっちに来て母さんを看取ったら鬱陶しい気分なんて吹き飛んだしね。それに、これから大切な仕事があるんでしょう? なら、そっちに気を回した方が良いわ。だって貴方の仕事はそれでしょう? そしてその仕事に時間を費やして、人のため、世のため、貴方は独善の成就しなきゃならないんだから。だから、こんな所で自分の空に籠って鬱屈としちゃ駄目よ。貴方はどんな空をも飛ぶ素敵な飛行機を創らなきゃならないんだから」


「そうですね。確かに貴女の言う通りです。よもや、私も異国に来て人に悟られるとは思いませんでした。人間の想像の時間は限られ、資金はもっと限られています。そして信頼もです。貴女の言う通り、私は自己嫌悪で否定することなく、自己を見つめて未来に向けて行動せねばならない。ええ、なるほど私も本来の目的を確認できました。ありがとうございます」


「頭を下げないで」


「いや、ですがこれがこそが我が礼儀です。ですからどうか受け取ってください」


「そう……。まあ、それなら良いわ。それじゃあ、どうか退屈な私のことを思って、適当な話をしてくれる? ああ、煙草も吸っていいわよ。私も吸うしね」


「なるほど、ではそうさせて貰います」


 下げた頭を上げるとそこには微笑む彼女の顔が、闇を切り裂く月光のように輝いていた。後光は確かに輝いていた。そしてこの光の前では、全てを包み隠すことなく告白することが出来るであろう。ただ、その告白は信仰に対する懺悔では無い。だから私は、彼女に対して微笑み事が出来る。

 私の内面を見出すことの出来る彼女には、隠し事なしに全てをさらけ出すことが出来る。どの道、この機会だけだ。私は私の内面を彼女に吐き出そう。恥が後になって襲いかかってくることも無い。

 さあ、私の吐けることを全て吐いてしまおう。


 部屋は私がここに入って来た時よりも暗くなっていた。

 私たちは時間を忘れて長い間談笑をしていたようだ。いつの間にか、気付かぬうちに煙草を一箱吸いきってしまった。私の貴重な旅の友が一つ失われてしまった。ヘビースモーカーたる私には痛手だ。

 その代わり飾らない会話をすることが出来た。貴重な時間だった。茶と煙草を肴とした会話を思いの外はずんだ。おおよそ、この場に酔ってしまったのだろう。もっとも、私は下戸なので酔ったことなど無いが。酔う前に酒を飲むのを止めてしまう。飲みの席ではつまらない奴扱いであるが、私としては酒に飲まれている方がつまらないと思う。いや、宴会などの場であれば私の様な人間がつまらない者であろう。理性的に、はしゃぐことなど、我が母国の民たちが一番に苦手なことなのだから。


「さて、ではそろそろお暇させてもらおうかな」


「あら、寂しくなるわね。まあ、でも私も明日にはこっちを離れる予定だったから丁度いいお土産が出来たわ」


 自国の巻き煙草をふかし、煙をくゆらせている彼女は、私を見ながら別れを惜しみそうで惜しまない爽やかな表情で私の旅出を見送ろうと立ち上がる。彼女が灯した蝋燭は錆び付いた真鍮の燭台の上で、ほとんど私の親指程度の長さに変わっていた。消えかかる火は、ほの暗く異国情調をかきたてていた。

 去り際のロマンチックに私は、この場を去ることをはばかった。しかし、帰ると言った時分、約束は守らねばならない。だが、このまま何も無しに帰るのは不意に受け取った情緒に対する冒涜である。ならば、私もこの別れ際に土産を残そう。彼女に対する、名を最後の最後まで伝えてくれなかった彼女に対する最大の返礼である。


「では、最後にお土産をもう一つ」


「煙草? 素っ気の無いお土産ね。けれど、ありがたく受け取っておくわ。大切に吸うわね」


「ええ、そうしてください。それでは、さようなら。また、世界のどこかで会えたら」


「世界広しと言えど、ここで出会ったのは何かの運よ。またきっと会えるわ。それじゃあね。異国の人、東洋の人」


 私はトランクの中から私の大切な旅の友を一箱取り出し、彼女の手に握らせた。金口でも無ければ、良い葉を使っている訳でも無い庶民的な煙草であるが、気取った土産よりも彼女の様なさっぱりとした女性にはこちらの方が喜ばれる。そして、彼女は私の想像通り喜んでくれた。私の何気ないキザッたらしい、別れ際の挨拶にも殊勝な返しをしてくれた。

 野性味のある教養。私は彼女の中から、このような人間本来の知識を見たような気がした。人間が人間たる知識は彼女の中に包み込まれていた。羽毛の中に眠る無辜の赤子は彼女に宿っているのだ。

 満足である。

 そして私は、彼女に頭を下げ、木机の上に置いておいた麦藁帽を取ってそれを頭に被った。もはや、私もこの国の男であろう。そんな自惚れが私の中で巻き起こった。


「さようなら」


「さようなら。いつかね」


 彼女を背にし、私は建て付けの悪い木造の扉を開けた。頭上に照りつけていた白光は消え失せていた。異国の夕日は柿の色に近かった。鮮やかで、けれども熱をまだまだ送り続ける日差しが私を包み込んだ。夕食の刻になったらしく、外で遊んでいた子供たちはすでに居らず、砂に汚れ、縫い目のほつれたボールだけが転がっている。

 砂っぽく悪臭漂う庶民街を私は、庶民になったような、いや庶民として歩いた。もはや、私の夢はかなったのだ。憧れてならなかった生活を私はほんのひと時でも味わえたのだから。もう、あのような不埒を夢を思い起こすことは無いであろう。私は私の仕事に専念しなければ。彼女に言われた通り。

 私は仕事に対する抱負を胸に抱きながら、来た道を戻る。子供の声が静まり返ってひっそりとした街とは異なり、相変わらず一番の大通りは商人の活気と観光客の熱気が立ち込めている。

 さらば、私の愛おしい生活よ。私は仕事に戻らねばならない。西洋へと旅立たなければならない。美しい夢のため、独りよがりの夢のため、全てを破壊することとなるかもしれない夢を叶えるために!


 さようなら、さようなら……。

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異国記 鍋谷葵 @dondon8989

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