蝉時雨、送り火と。

宵嵜

第1話

「あ。」


 八月の青い雲。坂道のいちばんてっぺんから見たのは、二つ並んだ飛行機雲だった。残暑に揺れる陽炎も、背を伝っていく汗も、左手のペットボトルから滴る雫も、その一瞬だけは全部忘れて、ただ、幼い少年みたいに言ったんだ。


「ねぇ、アキくん。飛行機雲。」


 わたしが指さしたほうをむいて、ふにゃって笑うアキくん。アキくんっていうのは、わたしが付けたあだな。アキくんを、アキくんって呼ぶのはわたしだけ。


「ほんとうだ。ふたつもある。」


 その顔が、夏に溶けるように笑うアキくんの顔が、わたしは大好きだった。



 田舎の夏休みはお盆で終わる。墓参りに駆り出されたかと思ったら、次の日は学校なんていつものこと。少なくとも、わたしのところはそう。

 もう八月も終わるというのに、元気に泣き喚くセミが鬱陶しい。けれど空き教室に向かう気力もなければ、そもそも椅子を引いて立ち上がることすら面倒くさい。

「セミって寿命が一週間しかないってゆーじゃん?」

「うん」

「ホントは一か月くらい生きてるらしいよ」

「えっマジ?」

 クラスメイトの会話よりセミの鳴き声が耳に障る。それにしたって今日は一段とうるさい気がしていた。まるで耳元にセミがいるみたいに、うるさい。向こうの林を睨みつけてやろうと、暑さで半ば死んでいる意識を左に移す。

 そこにはセミがいた。

「は?」

 そう、網戸に張り付いてミンミン鳴いていた。

「ちっっか」

 思わず呟いて、網戸に手を伸ばしセミを振るい落とす。「ミ゛ミ゛ッ」とかなんとか言いながら、セミは去っていった。

 ひとりには退屈な昼休み。話し相手もいなければ、読む本もない。ため息をこぼすことはもはや無意識で、たぶん癖になってしまった。首に巻いたままのヘッドホンをかけ直し、シャッフル再生のマークをタップしてから目を閉じた。



 鮮明な記憶。ところどころ抜け落ちているのに、覚えている光景は何故だか妙に生々しくて吐き気がする。

 いつもどおり帰りの遅い母親を待ちながら、夕飯を作っていた。家に誰もいないのをいいことに歌なんかを口ずさんで。野菜に火が通ったか確認しようと、菜箸が芋を貫いた瞬間、玄関から音がした。今でもはっきりと思い出せる。あのときの母親の表情を。帰ってきた母親は、ただいまとも言わずに、ただわたしの手を引いた。あのとき母親はどんな気持ちで、何を考えていたんだろう。掴まれたままの手が痛くて、何も言ってくれない母親が怖くて、でもわたしは何も言わなかった。言えなかった。ふいに母親は足を止めて、手はゆっくりと離された。母親は思い出したみたいにわたしを抱きしめる。どうしてあのとき抱きしめられたのか、今考えてもよくわからない。顔を上げた先に見えたのは、泣いている人と、立ち尽くしている人と、あとは、一人の名前を呼んでいる人。

 そのあとの記憶は白い箱。真っ白くて、綺麗な四角い部屋にいる記憶。よく知っている人が目の前に眠っていた。服まで真っ白なものを着て、顔まで覆っているものだから表情が見たくても見れなかった。誰もいなくなったその部屋に、わたしの声はよく聞こえた。


______夏の次が、いなくなっちゃった。



「アオイちゃん、授業始まっちゃうよ」

 隣の席の女の子に肩を揺らされる。寝ぼけた頭で感謝を伝えると、少しあきれた顔をしてノートを広げはじめた。

 懐かしい夢を見た気がする、と、記憶に浸っているうちに五限も六限も終わってしまっていた。授業の内容はこれっぽちも記憶にない。


 部活もやっていないわたしの足は、学校が終わると同時に家があるのとは反対の道へ向かっていた。学校の倉庫から持ち出した白い雑巾と新しいスポンジをカバンに詰める。赤い自販機で買ったスポーツドリンクを握りしめて、田んぼだらけの道を自転車で駆けた。

 途中、花屋に寄った。幼いころに一度来たことがあるらしいが、もう覚えていない。ただ、道だけはずっと覚えていた。緑色の家の横、細い路地を入って二つ目の角を曲がった先の崖の上に、その花屋はある。カタカナでフラワーと書かれたその文字は、少し錆びついていた。店の中にはいくつもの花。不思議と嫌な香りではなくて、誘われるように店の奥へと入った。

「すみませーん......」

「わっ」

「えっ、」

「あ、ごめんなさい、お客さん来ると思わなくて。びっくりしちゃいました」

 丸くて大きな眼鏡をかけた、顔立ちのいい女性だった。おそらく彼女がここの店主だろう。ほら、お盆も終わりましたから、と言って、店主は恥ずかしそうに頬をかいた。

「あの、夏の花をください。明るい色なら、なんでもいいので。」

「なんでも?」

「はい。」

 店主は少し悩んで、店の外に行ってしまった。その姿を追っていくと、ポリポットに入った一本の花を手にとっていた。黄色い花弁の大きな花。

「なんでも、ということだったので。向日葵なんかどうでしょう?ベタすぎますかね?」

「...いえ。ありがとうございます」

 大きな向日葵。美しく咲いたそれを持って、店をあとにした。自転車の籠に背の高い向日葵を乗せて走る姿は、はたから見れば不思議な恰好だが、幸いこのあたりで人とすれ違うことはなかった。

 歩くのには少し長い道のり。日が沈んでしまう前にと、さっきよりも急いでペダルを漕ぐ。揺れる陽炎、額に浮かぶ汗、麦茶の入ったペットボトルは結露でぼたぼた雫が零れていた。

 ほどなくして辿り着いたそこは、木々に囲まれた共同墓地だった。盆も過ぎた平日の今日、ここを訪れる人はいない。小さな小屋から水桶を拝借して、近くの水道もひねる。水面で反射した光は眩しくて、ちょっぴり綺麗で、何故か寂しいと思った。そういえば墓参りで向日葵は許されるのか疑問だが、ポリポット入りの花を持ってきた時点で間違いだったと気づく。しかし気づいたところで代案はないことにさらに気づき、今は良いことにした。

 まっすぐ向かった墓石には、案の定コケが生えていた。周りの雑草を抜いて、水をかけ、カバンから雑巾とスポンジを取り出して汚れを落とす。やはりしばらく人が来ていないらしい。幾分か綺麗になった墓石は、刻まれた文字もはっきり見える気がした。


『秋霜家之墓』アキシモケノハカ


 枯れた花を抜き取って藻が浮いた水を捨てた。買ってきた向日葵の茎を折ろうとして、やめる。やっぱりそのまま墓石の前の土に植えることにした。

 線香は生憎持ち合わせていない。とりあえず手を合わせてみるも、何を想ったらいいのかわからず、「お盆過ぎちゃってごめんなさい」と言っておいた。

 見上げた紅い空には飛行機雲。真っ白な一本の線は、夕日色に染まっていた。隣町の空港に向かっているのかもしれない。



 _____呼んだんだ、何回も。アキくん、アキくんって。そうしたらアキくんね、アオイちゃん?って。風邪引いてるときみたいに、ガサガサな声で。わからないけど、アキくん右目が無くってさ。アキくんの綺麗なちょっぴり碧い瞳、片方しか無かったの。どうして?って、だいじょうぶ?って、聞きたかったけど、でも、アキくんがまた、アオイちゃん、ってわたしを呼んだの。いつもみたいに、ふにゃって笑って。


「すきだよ」


 わたしも好きだよ。そう言いたかったけど、アキくんってば寝ちゃったんだ。



「ねぇアキくん。わたしの夏のその次は、もうずっと真っ白なんだよ。」

 独り吐いた言葉は、ぽたぽたと空気に溶けていく。

 

 辺りが薄暗くなった頃、太陽を失ったは、下を向いて泣いていた。

 

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蝉時雨、送り火と。 宵嵜 @yoisaki_438

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