第5章 -  2  8月24日

2  8月24日




「わたし……涼ちゃんと、高尾山に登りたいの……」

 いきなり優衣がそう言葉にしたのは、慣れ親しんだ病棟に戻った日のことだった。

「優衣ちゃん! どこだ! どこにいる!?」

 あの夜、大声でそう叫んだ彼に、微かに聞こえ届いた優衣の声、それは静寂の中だからこその奇跡だろう。

 果たして意識して、涼太の名を呼ぼうとしたのか? 

 それともたまたま、意識を失う寸前の吐息であったか?

 とにかくそんな声のおかげで、涼太は優衣の姿を発見する。

 舗装された道から外れた土剥き出しのところで、彼女は膝を抱えてしゃがんでいた。

 丈の長いスカートで両脚をすっぽり包み込み、膝に頬を押しつけ、まるで眠っているようにも見えたのだ。

 すでに意識はなくなっていて、その息は弱々しくもせわしない。

 暗闇の中、白く浮かび上がって見えたのは、スカートの裾から覗く白い靴だった。

 それから待たせてあったタクシーまで運び、近くの病院で手当てを受ける。

 もし、後一時間でも遅ければ、かなり危険な状態だったと診察してくれた医師は言ったのだ。

 もう無理だと諦めて、地面に座っていろいろなことを考えていた。

 目を覚まし、そう言って笑う優衣の顔には、色濃く疲労の色が張り付いていた。

 それでも一週間後、優衣は転院を許可され、我が家とも言うべき病院へ帰る。

 その翌日、検査を終え、病室に戻るなり静かな声で話し始めた。

「お願いが、あるの……」

 秀幸が顔を出した日曜日、それはそんな言葉から始まったのだ。

 一方涼太の方は数日前に聞いていて、

「優衣ちゃんの両親がOKってなれば、俺は、反対なんかしないけど……」

 こう返していたのだが、もしも今回の行方不明騒ぎが起きてなければ、そう答えられていたかどうかはわからない。

 ――死ぬために行ったんじゃないの。死ぬ前に、どうしても登ってみたかった。ただ、それだけだから……。 

 登ってみたかったから……。

 そんな理由を口にした優衣は、今度は涼太と一緒に登ってみたいと言い出したのだ。

 ケーブルカーに乗って高尾山駅まで行き、そこから百メートルで終わってしまっても、それはそれで満足なんだと彼女は言った。

 しかし当然、医師の許可など下りる筈もない。

「どうしても登りたいとおっしゃるならです。わたしはこの話を、聞いていなかったことにさせて頂きますから」

 到底許可などできないと、担当医は秀幸に向けてそんなことを告げるのだった。

 それからひと月とちょっと後、まだまだ暑い盛りではあったのだ。

 それでも朝晩だけは涼しく感じ始めた頃だった。

 とうとう待ち望んだその日がやってくる。

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