第5章 - 1 高尾山

 1 高尾山




「いい加減にしてください! いくら低山だって六百メートルですよ! 心臓が壊れかけているあの子に、そんなこと無理に決まってるじゃないですか!? あなたまで、いったい何を言ってるの?」

「わかってる。もちろん俺だって、本当はそんなことをさせたくはないんだ、しかし、しかしだな……」

「じゃあ、ダメだって、すぐ言いましょう! 簡単なことだわ。それによ、誰がどう考えたって、そうするのが当たり前だって誰もきっと言う筈よ! そうでしょ!? そうに決まってるわ!」

「お前の言っていることはよくわかる。もちろん、普通の病気ならそう考えるだろう。これからちょっとの間だけ、それが一年だろうが二年だろうが、その間、我慢していれば治るというのなら、俺だって、断固反対するさ、でも、優衣の場合はどうだ? 子供を生むことどころか、結婚だってできないまま……人生を終えてしまうかもしれないんだぞ!」

 ――そんなこと、どうなるかわからないじゃない! 

 美穂はすぐそう言い掛けて、先日聞いたばかりの医師の言葉を思い出した。

 ――このままなら、あと一年か、もしかしたら半年だってことも……ある。  

 その通りなら、秀幸の言うこと以前に、高校も通えないまま人生を終える。

「だからって、そんなことをしたら……」

「あの子は、わかって言ってるんだよ。そんなことは、きっとわたしら以上にだ」

「だったら……」

「だったらどうする? 先がないあの娘が、一番したいことだと言ってるんだ、彼と一緒にやってみたいと……そんな切なる願いを、わたしらが勝手に止めていいのか? ダメだなんて、言ってしまうことができるのか?」

「わたしは言えるわ! そんなことして、わざわざ寿命を縮めてなんて欲しくないもの! 一日、いえ、一時間、一分だって、あの娘には長く生きて欲しいから! だから、止めてちょうだいって、わたしは言えるわ……言って、やるわよ……いくらだって……」

 間髪入れずのやり取りが、ここで少しだけ間が空いた。

 そして小さな深呼吸の後、秀幸が吐息とともに静かに告げる。

「それは……後に残されるものの、わがままだろう?」

「わがままだっていいじゃない! とにかく、いやなものいやなんだから!」

 美穂はそう叫んだ後、秀幸がこれまで一度も見たこともないような激情を見せた。

 きっと心の奥底では、夫の言葉だって理解しているのだ。

 けれど理解はしていても、美穂という存在すべてが拒絶している。

 そんな激しい混乱が、それからしばらく続いたのだった。

 ところが次の朝、まだ夜が完全に明けきらぬ頃だ。

 いきなり美穂の声で起こされる。

 きっと一睡もしていないだろう顔を見せ、何事かと驚く秀幸に向けて彼女は告げた。

「わたしは山なんかに行かないから、あなたが責任もって、あの二人をしっかり見守ってください」

 わたしは付いて行かない。 

 それがすなわち、美穂の最後の抵抗だった。

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