第30話 海上の道(5)

 真結まゆいは潜れるのだ。潜ったことはあるのだ。何度も。

 「ほんとは二尋ふたひろ半よりももっともっと潜れるんだよね、真結は」

 「あ、その……たまたま……」

 「たまたまでも潜れればたいしたもの」

 相瀬は強く言う。

 「ね? 真結ってほんとはさ、ふさかやより潜れるし、ここの海のこともよく知ってる」

 そうだ。それなのに、真結はいままでその才を隠していた。

 「いや、知らない」

 どうしてだろう?

 真結はたしかに相瀬よりはずっと礼儀正しいけれど、礼儀としてへりくだっているのではなさそうだ。

 では、才があるところを見せれば難しい仕事を押しつけられるから?

 そうでもないと思う。

 では何だろう?

 「知らないなんてこと、ないよ、けっして」

 相瀬は柔らかい声で言ってみる。真結は激しくひとしきり首を振った。

 「知らない!」

 強情に言ってから、真結は声を落とす。

 「だって、相瀬さんに、わたしなんかが、ここの海のこと知ってる、なんて、とても言えない」

 それは遠慮というものなのか? 相瀬にはわからない。

 だから、またもう少し柔らかく言う。

 「だってさ、これから一年かけて知れば、いまのわたし以上に知ってることになるよ」

 真結は黙ってしまった。

 話しながら真結のほうに近づいて行ったので、真結のまっ白なおでこが相瀬の目の少し上にある。

 何とはなくくすぐったい。

 相瀬は、座り直して、少しだけ間合いをとった。

 「たださ、心配なのは、次のかしらになっちゃうと、頭と同じ、一生、この村から出られないって決まりを守らなければいけなくなるってこと」

 「うん……」

 「それ、いや?」

 「あ……」

 真結はことばに詰まる。

 「次の頭になるようにお願いするんだったら、これも言っておかないといけないよね」

 今度は相瀬がうつむく。

 「けっこう厳しい決まりだとは思うんだ。だって、村の外に好きな人ができても、その人のところには嫁げない」

 「うん……」

 相瀬は真結の顔を見ずに続けた。

 「ま、向こうからお婿むこに来てもらうのは、別にかまわないんだけどね。それにしても、なぜ村を出られないか、その理由は村の外の人には絶対に言えない。いや、村の人にだって言えないんだ。相手の人がそれを納得してくれなかったらめんどうなことになる。いま美絹みきぬさんのところがそれでちょっと揉めてるんだけどさ」

 「美絹さんが?」

 「ああ、うん。貞吉さだきちのやつがさ、佃屋つくだやさんに、養子にならないか、ってさそわれたんだって。佃屋さんって知ってるよね?」

 「うん。商人のおじいさんでしょ? 浜に来てて、よくわからないけど、ほかの商人さんたちのまとめ役になってみるたいな」

 真結が見ているところも相瀬とそう変わらないわけだ。

 「うん。で、貞吉がその佃屋さんに誘われて、ご城下に行くつもりになっててさ、それでひと悶着もんちゃくってわけ」

 「うん」

と真結は頷いてから、

「さっき、美絹さんに会ったときには、そんなこと聞かなかった」

 不満そうに言う。

 「それはさ、ほかの大人組の海女さんがいるところじゃ言わないって。娘組の頭でも、大人組に入ればいちばん下のほうだもん」

 「それ、貞吉さん、ひどいね」

 真結がぽつんと言うのに、ふだんならば「やっぱりそう思うよね」と応えるところだ。

 でも、いまはそういう話に持っていくわけにはいかない。

 「いや、だからさ」

 相瀬は、背を丸めて、真結の顔を見上げて言う。

 「つまり、真結にもいまの美絹さんと同じことが起こらないか、考えてほしいんだ」

 「相瀬さんは?」

 真結が顔を上げてきき返す。

 「相瀬さんは村から出られなくていいの?」

 「わたしはいい」

 間を置かずに相瀬は答えた。

 「この村の生きかたでちょうど合ってるから。おかの村に行っても何したらいいかわからないし、ほかの浜だってこんなふうに海女漁やってるとは限らないしね。わたしはここの外に出たらたぶんうまく生きられない」

 言って、相瀬はにっこり笑って見せた。

 真結も笑う。はにかんだように。

 これがいまの真結にはせいいっぱいの笑いかも知れない。

 「だったら、わたしもそう」

 あの細い声で真結は言う。

 「それに、わたしが断っちゃうと、ふさちゃんかかやちゃんのどっちかが、やっぱり村を出られなくなるんでしょ?」

 房と萱ならば房だろうな。萱は才は上だが、てきぱきと人を引っぱって行く子ではない。黙って何かをやって、それがあとで人の手本になるというような子だ。

 「……まあ、そうだけど」

 「じゃ、わたしがやる」

 言って、真結は顔を伏せた。

 顔を伏せたまま、上目で相瀬の顔を見る。

 白い顔に、まわりから射す明かりが照って、淡い色とかげをつくっている。

 よかった、と思う。でももういちど確かめなければすまないと思う。

 「ほんとうにいいの? 一生、村を出られなくなっても」

 学問をすれば、という条件は言わなかった。ひとに言っていいことかどうかもわからない。

 「うん」

 「房や萱や、ほかの海女に無理にでも言うことをきかせないといけないこともあるよ」

 「うん」

 「漁師組や大人の海女組や、ときには名主様にもたてつかないといけないこともある。いい?」

 「うん」

 「海鼠なまこ海星ひとでもつかまないといけないよ。いいね?」

 「うん」

 真結は何のためらいもなくぜんぶ答えた。

 それも、両方の黒目でじっと相瀬をにらむようにけんめいに見つめながら。

 いや、もう少し考えてみて、というのが正しいと相瀬は思う。

 真結は、最初は自分にはできないと言っていたのに、美絹の話を聞き、房や萱が次の頭になれば一生村から出られなくなるとわかって、自分がやると言い出したのだ。

 自分は海女として才がないから、そのぶん、自分より房や萱にかかる荷を軽くしてやろうという思いだ。

 そういう気もちだけで、次の頭を、やがて娘組の頭を務めるというのは、無理だ。

 せめて、

「村の人が知ってるより、ずっと厳しい仕事だよ。いいね?」

ときかなければいけなかったのだろう。

 考えているあいだも、真結はずっと自分を見つめている。

 いま、やっぱり考え直して、というと、真結はどう思うだろう?

 ふいに相瀬の体が動いた。

 相瀬は真結の体を抱いていた。

 胸を合わせ、手をきつく真結の体の後ろで組んでいる。

 やっぱり、自分の腕は太いと思う。泳いだり、もりふるったり、歳上の海女たちに負けまいと意地を張ったりしているうちに、そうなってしまった。

 真結の体は折れそうなほどに細い。

 でも、だいじょうぶだと思う。

 こうやってきつく抱いても、揺すっても、真結の体は折れたりしない。

 真結の髪の香りが相瀬の胸に入ってくる。ずっと外を歩いてきて、日に焼けたのだろう。二つに分けて結っているすなおな髪が、その先がちくちくと相瀬の頬を刺し、その荒っぽい香りが相瀬の胸を内側からさする。

 真結のあごが相瀬の肩の上に載っている。真結は自分の髪のあたりを嗅いで、いま何を考えているだろうか。

 もう、気の弱さも、遠慮深さも、漁の獲物を手でつかめないことも、どうでもいい。

 真結は海女組の頭になれる。いや、頭かどうかもどうでもいい。

 真結ならば、相瀬にいちばん近い役を務められる。

 真結でなければ務まらない。

 「それじゃ、頼んだよ」

 真結の耳たぶの後ろで、軽くささやくように、相瀬は言った。

 返事のかわりに、真結は、相瀬の背中に回した手の手首のあたりに力を入れて、相瀬の胸のあたりをきゅっと抱きしめてくれた。


(上巻 終わり)

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