第27話 海上の道(2)

 ふとだれかが近づいてきたのに気づいて、相瀬あいせは目を開いた。

 寝そべったまま顔を上げる。

 外は、道も道端の草も向こうの家の粗末な泥塀も真っ白く紛れてしまうほど明るい日が射している。

 そのなかから中腰のままこちらをうかがっているのは。

 真結まゆいだった。

 相瀬は勢いよく体を起こす。それでがたんといたきしむのがきまりが悪い。

 それで、朝方、クワエとこの真結がいっしょにいたのを思い出したのもすぐ忘れてしまう。

 真結は、困ったような、頼りなさそうな顔をしていた。もっとも、真結はそういう顔でいるときが多いので、さほど気にはならない。

 「どうしたの?」

 相瀬は言って手招きする。

 真結は早足で歩くと、部屋に上がった。そんなに見とがめられるのがいやなような歩きかたをしなくてもいいのに。

 真結はいつもそうなのだ。

 膝を揃えて横に折って相瀬の斜め前に座る。

 真結はまっすぐ入ってきた。相瀬が最初から斜めを向いていたのだ。

 真結はおかにいるのだからもちろん着物を着ている。相瀬のように肌着だけということはない。

 襟のところをぎゅっと握っているのは、脇腹につけられた傷を見せたくないからだろう。

 「美絹みきぬさんが見てくださって、もう海に出ていいって」

 真結がたよりなさそうに言う。

 そうか。真結は美絹さんのところに行ったのか。

 美絹はいま海に出ているから、浜まで行ったのだろう。

 「よかった」

 相瀬の頬にひとりでに笑みが浮かぶ。

 「傷が深くなくて」

 自分の頬の色がよくなっただろうと相瀬は思う。

 「うん」

 それでも真結の困ったような様子は変わらない。

 「どうしたの?」

 もしかして、と思う。

 「海に戻るのが怖くなった?」

 無理もない。あんな恐ろしい思いをしたのだ。

 まだ海女になりたてのころ、相瀬はさめに追われたことがある。泳いでも泳いでも引き離せなかった。息も絶え絶えになって砂浜まで泳いで何とか逃げ切った。血の気の引いた姿で浜でふるえていると、あの縞のある鮫は人は食わないよと言って歳上の海女たちに笑われた。相瀬を食いたいためにではなく、遊びのつもりで相瀬にくっついて来たんだろうという。恐ろしさと怒りと恥ずかしさでその場に倒れてしまいそうだった。

 そのあと、十日は海に下りるのが怖かった。それでもすぐに海に入ったのは、ただ、臆病風おくびょうかぜに吹かれたと歳上の海女たちに思われないための意地だけでだった。

 真結にそんな思いをさせたくない。

 しかも真結はあの人食い大海蛇に襲われたのだ。

 縞のある鮫とちがって、大海蛇は遊びのつもりなどではなかっただろう。

 怖いのなら、少し休ませてあげていいと思う。

 しかし、真結は細かく首を振る。

 「そんなのじゃなくて」

 無理をしているのだろうか。相瀬はわざとそっけなくきいてみる。

 「じゃ、何?」

 「今朝、あの桑江くわえ様っていうお侍さんに声をかけられて」

 「ああ」

 そうだった。

 相瀬に見られたことを、真結は知っているだろうか?

 「この村の南に何があるんだ、ってきかれた」

 「うん」

 相瀬は眉をひそめる。

 正しい疑いだ。

 クワエが探している相手は、たしかにそこにいる。それはけっしてさとられてはいけないことだ。

 わざとあけっぴろげにきいてみる。

 「で、なんて答えた?」

 「あそこはだれも立ち入ってはいけないご禁制の浜だって」

 「うん……」

 それも正しい答えだ。続けてきく。

 「それで?」

 「そしたら、あの桑江様は、そういうところにこそ姫君は潜んでいるかも知れぬから、見てみたいっておっしゃるからさ」

 真結は小さく笑った。

 「そんなの絶対に無理ですよ、道がなくて入れませんよって言った」

 「うん」

 だが、海からは入れる。

 クワエシンノジョーはそれに気づくだろうか?

 「それから?」

 「ところがさ、桑江様は、自分で見てみないとわからない、案内してくれっておっしゃるから、ほんとに道がないんです、って言ったら、そのいちばん近いところまで、っておっしゃって」

 おっしゃったわけだ。

 「で?」

 「で、南の尾根道をお教えしたら、いちどいらしたんだけど、戻って来られて、わからないからいっしょに来てくれっておっしゃって」

 「うん……」

 「で、お教えしたんだけど……」

 真結は上目づかいに相瀬を見る。

 「それ、よくなかった?」

 「いや」

 相瀬は明るい声で答えた。

 「へんに隠し立てすると、村は何か隠してるって思われる。そういうことはちゃんと教えたほうがいいよ」

 村の外に教えてはいけないことは村人も知らない。そういう仕組みにしてある。

 「よかった」

 真結は安堵あんどの笑みを浮かべた。そんなときでもあいまいな笑顔になる感じが真結らしい。

 「それで、どうなったの?」

 「南の尾根道までご案内した」

 「それで?」

 「桑江様は、柱石はしらいしのところから乾葉道ひいばみちのほうまでご覧になって」

 柱石はその尾根道が浜のほうで行き止まるところにある大きな岩、乾葉道は陸のほうの乾葉ひいばの町に向かう道だ。柱石の先は村の岬までずっと崖が続く。ここからはだれも下りられない。

 相瀬のように、下りかたを知っている者以外は。

 「何度も下りられそうなところを見つけてはお下りになるんだけど、崖地で進めなくなったり、蔓草がひどくて入れなかったりでそのたびに戻って来られた。藪を何間もいて行かれて、これは無理って言って戻って来られたり」

 真結がまた小さく笑う。

 「最後はくぬぎの枝を伝って行けないか、なんてこともされたんだけど、けっきょくだめで、こんなところに姫様が入られたとしても、二度と出てくることはできまい、って納得された」

 「熱心な人だねぇ」

 「うん。そう思う」

 真結の答えかたは何か嬉しそうに聞こえた。

 「海からは入れるって言わなかった?」

 言ってから、いまみたいな険しい言いかたをしてはいけなかったと思う。

 真結はけなげに答える。

 「それも桑江様はおっしゃって、でも、姫様は泳げないし、舟を漕ぐこともできないから、それは無理だって」

 ああ、泳げないのか、と思う。

 だが、クワエシンノジョーがサガラサンシューに見出されて武士になったころには、もう姫様は岡平おかだいらにいなかったはずだ。だから、クワエは姫がほんとうに泳げるかどうかは知らないだろう。いっしょにいたかなえという乳母も舟をげたかも知れない。

 よけいなことは言わないことにした。

 それより、さっきから真結がクワエのことを話すたびに自分の内側から何かがちくちくと刺さるように感じている。この感じは何だろう?

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