第26話 海上の道(1)

 暑い。

 真っ青に晴れた空の高みから、日は強く照りつけている。

 ときおり風が吹き過ぎていく。強い風がかたまりで飛び入って来て、またかたまりで飛び去って行くように感じる。

 大小母おおおば様のところを出て、参籠さんろう所に行こうか自分の家に戻ろうかと迷った。

 それで自分の家に戻ってきた。戻って来てから参籠所のほうが涼しかったかも知れないと気づいたが、いまさら参籠所に出かけるのも億劫おっくうだ。

 井戸で水を飲んだあと、茣蓙ござも敷かず、肌着だけいいかげんに着て、相瀬あいせは板の間に腕を枕にして仰向けに寝ている。

 障子などはすべてはずしてしまっているから、壁のない三方は開け放しだ。

 今日はもう夜まで何もすることがない。

 ふさかや浅葱あさぎ麻実あさみは、自分の家で家の飯を炊いたり、網のつくろいを手伝ったり、もしかすると手習いで字を書いたりしているのかも知れない。でも相瀬にはどれも無縁のことだった。飯すら、参籠中は出されたものを食べるしかないし、それ以外は浜の飯場で炊いたものをもらっている。

 板の間が一間だけの家だ。屋根にはわらいてあるが、もうずっと葺き直しをしていないので雨が降ると漏る。梅雨のときなど、天井のあちらこちらから水が流れ落ちる。外にいるのとたいして変わらない。

 それでもたいして困らなかったのは、父が漁師、母と相瀬が海女で、たいてい家にいなかったからだ。

 三人で暮らしていたころには家は狭いと思った。親子三人で横になると部屋からはみ出たほどだ。

 夏はいいが、冬は厳しかった。障子の外に雨戸をつけても風は吹きこむ。家がもう傾いていて、壁にも床にも隙間があちらこちらにできている。それを父が一つひとつ襤褸ぼろ布でふさぎ、せめて眠るのには不都合がないようにする。それでも、激しい風で雨戸が一度に飛ばされたり、床下から吹き上がってきた風で床板が跳ね上がったりすることもあった。

 そんなところで親子三人寄り添って寝ていた。幼いころの相瀬は幾度も泣いた。

 でも、一人になってみると、この家は相瀬には広すぎる。

 斜めに寝て、それで手足を伸ばしても、隅の柱に届かない。

 相瀬は自分の家にいるときがいちばんさびしい。

 もう慣れたけれど。

 そうだ。

 自分よりさびしい子が、ここから村の岬を越えた向こうにいる。

 あの子はいまどうしているだろう?

 この明るい夏の日に、あの狭い部屋のなかでじっとしていなければならない。

 一人遊びでもしているのだろうか、それともずっと考えごとを続けているだろうか。

 考えるとして、何を考えているだろう。考えてもいまはつらいことしか思い浮かばないはずだ。父と慕った殿様はおそらく悪臣の手で毒を盛られ、乳母うばは自分をかばって死に――。

 それに、その父君は、この子が自分を殺そうとした疑いをかけられて追われているのをたぶん知っている。

 それを思って、あの姫君もまたどんなに悲しんでいるだろう。

 そして、姫君は、「鬼党きとう」という得体の知れないものについて、少なくとも相瀬よりはよく知っている。それも姫君にとっては恐ろしいことの一つであるらしい。

 「鬼党」とはいったい何だろう?

 地下に隠れ、そこから抜け穴を使って抜け出せる仕組みをこしらええた。拵えたのがいつのことか知らない。とても十年や二十年前のことではあるまい。百年か、二百年か。

 でも、それがいまでも動くのだ。

 それが地獄の鬼という者たちが地獄を抜け出し、この世にまで携えてきた細工なのだろうか。

 しかし、あの「街」を歩いているとき、相瀬はそこにいるのが「鬼」のような恐ろしいものとはとても感じられないのだ。

 どちらにしても、考えを先に進めるための手がかりはいまはなにもない。

 だから相瀬は別のことを考える。

 さっき思いついたように、姫様を江戸まで連れ出し、無事に公方くぼう様のところまでお送りすればよい、とする。

 でも、姫君をどうやって連れ出せばいいのだろうか。

 祭は二十三夜の月待ちで終わる。参籠はもう少し続いて、二十五日の朝に相瀬は参籠を解かれる。

 しかも月が細くなり、闇夜の時間が長くなる。

 その闇に紛れて、連れ出せないか。

 だが、どこに?

 陸のほうに連れて行くのは危ない。相瀬も陸のほうは勝手がわからない。

 海ならばわかる。でも、海づたいに江戸まで行くのか?

 それは無理だろう。

 船があれば別だ。でも、浜の船を勝手に動かすわけにはいかない。小さい舟ならば海女組の舟があるが、あれではとても江戸までは行けない。江戸も海沿いの街らしいから、浜に沿って舟を進めればいつかは着くだろう。しかし、たとえそうだとしても、相瀬が一人でぐ舟など、追っ手に追われればすぐにつかまってしまう。

 では、隣国まで舟で行って、そこから街道を行くのか?

 だが、手形はどうする? 手形がなければ関所は通れない。

 村の大人たちが権現ごんげん様参りに行くときに手形をもらっていた。権現様でもお伊勢いせ様でも、どこかにお参りに行くということにすれば手形はもらえるのか?

 でも、娘二人で遠くまでお参りと言っても、信じてはもらえないだろう。

 それに、最初から舟が使えないとしたら、どうする?

 あの姫は泳げるのか?

 泳げないとしたら、相瀬が負ぶって泳ぐしかない。それでどこまで行けるだろう?

 考え疲れて、相瀬は目を閉じた。

 ふいに、海の中ほどを流れる光がまぶたに映った。

 振り向いて見れば、あの大岬が、陸に貼りついて飛び出している小さな盛り上がりに見えた。すぐ隣が、いま自分がいなければならないはずの参籠所のある村の岬だ。筒島は、ここからは陸を背にしていて、その暗さにまぎれて見えない。

 こんなに遠くまで来たのは初めてだ。それも夜の夜中に。

 その海の水面の下、どれぐらい下かわからないけれど、そこを、光の筋が流れていた。

 何者だろう?

 魚の鱗か、烏賊いかか、それとも海の水そのものが光っているのか。

 見たことのない色だった。鮮やか、というより、この世のものではないように見えた。

 空に架かる虹のような色で、虹のように昼空にかかるのでないだけ、明るい。

 ここでいい、と思った。

 浜に戻って行く潮の流れの境はもう越えていた。海の水そのものが浜とは違っていることを相瀬は感じている。

 それでも、沖の流れでも、満ち潮に紛れてどこかで浜に流れこむかも知れない。それでもっと遠くまで出てきた。

 でも、ここでいいと思う。ここからならば、どこかに打ち上げられるとしても、この潮の流れのずっと先だ。そこはもう領内ではない。

 この虹のような流れに紛れれば、きっと往生できる。

 そう思って、相瀬は、まず、磯に散っていた持ちものを衣にくるんでそっと潮に置いた。

 そして、むざんに変わり果てた女を、背から放した。

 背が天まで浮き上がるように感じる。やっぱりそれだけ重かったのだ。

 はたして、あの女は、斜めにゆっくりとその鮮やかな色の流れへと落ちて行った。

 あの砕かれた体が清らかに海の中に吸いこまれていくように見える。

 空へと昇ることだけが浄土への道ではない。海の中にもたぶん浄土への道がある。

 そう思って、相瀬は胸が開いて温かくなるのを感じた。

 そうか。

 お父ちゃんだって、この道から、あっちへ行ったんだ。

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