第25話 ご城下の風(5)

 「それでも食える米が多くなったほうなのだ。先の貞吉さだきちの話、人が多くなって食うものが増えたのは江戸ばかりではない。この岡平おかだいらも、この近郷きんごうもみなそうなのだ。しかし」

 大小母おおおばはことばを切り、息を継いで続けた。

 「それだけに、貞吉もおまえも気づいておるように、商人の都合に合わせねば生きづらい世にもなった。われらの仕事は、神様の与えてくださったものを、人様にお渡しするのが役割、その人様の都合が大きくなって、商人がその大勢の人様を後ろにして前に出て口を利くようになった。しかしもちろんわれらは神様のご都合も考えねばならぬ。それが、古いしきたりだと言われて相手にされぬようになるとすれば、われらもまた考えねばならぬな」

 どこか寂しそうな言いかただった。

 「はあ」

 では、相瀬あいせは、どう考えればいいのだろう?

 「さだには、そんなにしきたりをばかにすると罰が当たると言っておきましたけれど」

 褒めてもらえるかと思ったら、

「では参籠さんろう所に行く前に大いわしと握り飯に食らいついている娘には罰が当たらぬかどうか、きいてみたいものだ。しかも炭占いの当日というに」

と怒られる。

 あのとき参籠所に行く前には何も食べなかった。夜まで祭壇の垂れ幕の下に隠しておいて姫様のところに持って行ったのだから。

 でもそんなことは言えない。

 だから、気まずく、あいまいに笑って、相瀬は黙る。

 大小母はその相瀬をじっと見た。

 「それで、おまえは、やはり学問をする気はないのか?」

 いまそれを言われたのは意外だった。でも答えは決まっている。

 「あ、ないです!」

 こういうことは、きっぱり言っておいたほうがいい。大小母は続けてきく。

 「では、おまえは、あの貞吉のように、この村を出たいと思うことはないのか?」

 どうしてそんなことをきくのだろう? でも答えは決まっている。

 「ぜんぜん、ありません!」

 「そんなことはなかろう!」

 ところが大小母は厳しく言い返してきた。

 「おまえは、子どものころから、目のまえに何かわからぬことがあるとすぐにそれをつついて調べようとした。そうやっておまえは知らなくてもすむことを知ろうとしてきた。それでおまえはこの唐子浜からこはまの海のことをだれよりもよく知る娘になった。海女組の頭として立派にやっていける娘に育った」

 「ああ」

 お褒めのことば、ありがとうございます、というのも、気が引けた。それに、この先、この話がどうつながって行くかがわからない。

 「ええ」

 相瀬はあいまいに答えて様子を見る。

 「でも、やがて、この浜のことを知り尽くして、ほかのことを知りたいと思うようになれば、おまえもまたこの浜の外に出たいと願うようになるだろう。そして、それは、佃屋つくだやさんのことばに感激してご城下に行きたがっている貞吉の思いより、ずっと根が深いに違いない」

 「いや、でも」

 ほかのだれかにこんなことを言われたら、勝手にわたしのこの先のことをあれこれ言わないでください、と返す。

 しかし、ほんの小さいころからずっと相瀬を見てきた大小母のことばなのだから、そう気安く言い返すこともできない。

 だから、別のことを言う。

 「海女組の娘組の頭を務めれば、一生、ここを出ないっていうしきたりですから」

 「だから学問をせよと言っておるのだ」

 大小母は思わぬところから切り返してきた。

 「はい?」

 「その」

 大小母はしばらく言いよどむ。

 「海女の娘組の長が外に出てはならぬのは、海女の娘組が村の大事に関わり、そのことを村の外の者に知られてはならぬからだろう?」

 「ああ、はい」

 やはりそうなのか。

 そうなのだろうとわかってはいた。

 でも、相瀬は、もっと、神様がそうお定めになった、とかいう高尚な理由がついてくるものと思っていた。別のもっともらしい由来があるなら、そろそろそれをきかせてほしいと思った。

 しかし、そんなことには触れないまま、大小母は続けた。

 「学のない海女は、村の外に出れば、その村の大事に関わりのあることを、その関わりをわからないまま話してしまうかも知れぬ。そのことがご公儀こうぎの耳に入ってはたいへんなことになる。だから村から出てはならぬというのだ。すなわち、学問をし、その分別がつくようになれば、出てもよいのだ」

 「いや、しかし、理屈はそうでも……許してもらえますかね?」

 正面から議論しても大小母に勝てるはずもないので、別のほうからきいてみる。

 「だってほら、たとえばわたしなんかが、学問をするって言って村を出て、実際は学問もせず、村の大事についてあちこちに言いふらして回ったりする、なんてことは?」

 「そんな心配はいらぬ」

 大小母はにこりともせずそう答えた。

 「学問をしたいという娘の引き受け手になってくださる方がいて、その方にはずっと話を通してある。したがって、その方が、そのような不届きのないよう、ずっと見ていてくださる」

 「はぁ」

 少しがっかりする。でもそれはそうだろうとは思った。

 大小母は目を逸らした。

 「ただ、わたしの知るかぎり、わたしが生まれてこのかた、そのお世話になる娘は一人もおらなんだ」

 これもそうに違いない。海女の暮らしと「学問」というものはそれほど縁遠い。

 大小母はため息をついた。

 「わたしも歳だ」

 そして、相瀬の目を見て、言う。

 「わたしの生きているあいだに、しかもほんとうにものごとを知りたくてたまらぬという娘に、学問をすると言ってほしいと、わたしはそう思っているのだ」

 そう言われても、やっぱり困る。

 昼間の日が高いところから照り、海のざわめきが伝わってくる。

 ああ、海は青く透き通って見えて――。

 そこのきれいな海に潜って、いま美絹みきぬさんたちが漁をしているんだな、と相瀬は思った。

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