第19話 鬼(2)

 姫様は、しばらく考えてから言った。

 「ところで、わたしは、あなたに助けていただいて、ここに連れて来ていただいて、気がついたときにはここにいました」

 「はい」

 何を言いたいのだろうと思う。

 「だから、ここの名、いまわたしのいる村の名を知りません。ここは、どこですか?」

 「ああ」

 そうか。

 無理もないと思う。

 あの乳母に連れられて、どこかわからないままここまで来て、岬から身を投げたのだろう。

 「村の名まえは唐子からこ

 相瀬あいせは多少の誇りを持って答える。

 「でも心配はありません。ここは唐子浜からこはまから岬一つ隔てた禁制の浜で、だれも来ないところだから。ここにこの建物があるのも村のひとで知っているのは一握りです」

 姫は目を細くして、両方の目で相瀬を見た。

 困ったような顔で。

 「やはり、そうでしたか」

 言って、長く息をついた。

 それから、言いにくそうに言う。

 「あの、申しわけないんですけど、手を洗わせてくれます?」

 相瀬は笑い出しそうになった。

 言うことが、かわいい。

 もじもじしていたのはそのためなのか。

 脂っこい大いわしと握り飯とよく水を通してもいない漬け物をじかに手に持って食べたので手が気もち悪いのだろう。

 この隠し部屋には床の下に小さい井戸までついている。しかも、井戸で水を使って流した水は、どういう仕組みか知らないが、この建物の外には流れ出ない。だから水浴びぐらいはこの狭い隠れ部屋のなかでできるようになっているのだ。

 その井戸の上の床に相瀬が座っているので、姫様は困ったのだろう。

 相瀬が床の戸を開けると、姫様は、もとから据えつけてあった焼き物の瓶で水をすくい、手を洗った。水音がほとんど立たないほどしずかに。

 やはり姫様は育ちが違うと思う。

 ところが、今夜は、姫様は手を洗い終わっても、井戸のある床下をのぞきこんでいる。

 どうしたのだろう?

 役人に床下から探られるかも知れないと不安なのだろうか。

 やがて、姫様は、首を上げ、左右に乱れたきれいな黒髪を肩の後ろに整えてから相瀬に言った。

 ずっと小声で話しているが、それよりさらに抑えた声で。

 「すみません。いまあなたが座っているところの床板も開きませんか?」

 「はい?」

 そんなことは考えもしなかった。最初にこの隠れ場所を見つけたとき、井戸があるのを見つけて感心して、それだけだった。

 姫様はその先まで考えていたのか。

 あたりまえかも知れない。姫様は、相瀬が海蛇と戦ったり、炭占いをしたり、美絹の話を聞いたりしているあいだ、ずっとここにいたのだ。そのあいだにいろいろ考えたことだろう。

 「開けようと思えば、開くと思いますけど……」

 相瀬は、場所を空け、音を立てないように床板を持ち上げた。

 何か特別のものが出てきたわけではなかった。ただ、井戸のまわりと同じような石組みが組んであるだけだ。

 目立つと言えば石畳の石一枚分の穴が開いているだけだ。たぶんその石の一つが崩れたのだろう。

 「相瀬さん」

 姫は井戸の横に床に音もなく足をつけた。

 「もしやとは思いますが、私が出てこなかったら、そのまま何もしないでここにいてください。お願いします」

 これまでになくまじめな顔で言う。

 相瀬は言われたことがよくわからない。

 「うん、いいけど……」

 「そして、そのまま戻って来なかったら、私はよい機会と見て逃げたのです。そう思ってください」

 「いえ、それは困ります。だって……」

 それより、どう逃げるというのだろう? 姫は相瀬のとまどいを抑えるように言う。

 「たぶんそんなことにはならなくて、すぐ戻って来ると思います。だから」

 「うん……」

 相瀬がためらいながらそう答えたとたん、姫は床に開いている穴に消えた。

 落ちた、というのか、吸いこまれた、というのか。

 あっ、と声を立てそうになるのを抑える。すると、下から石が上がってきて、いままで開いていた穴を塞いでしまった。

 「あ……」

 こんどは声を立ててしまってから慌てて引っこめる。

 そこには最初からきれいに組んだ石畳があるとしか見えない。穴があったことなど考えもつかない。

 どこに穴があったか思い出せないほど、きっちりと石ははまっている。

 その穴に消えた姫様が最初からいなかったのではないかと思うほど、穴があったことそのものが夢のようだ。

 だから、あんなことを言ったのか、姫様は。

 でも夢ではなかった。

 石畳の石の一つがまたすうっと下がり、穴がまたできた。ほどなく、どこかに足をかけて、姫様が上がって来る。

 相瀬が腕を貸した。でも、そうしなくても姫は一人で上がって来ることはできただろう。

 姫が小声で言う。

 「閉めましょう、井戸も」

 「あ、ああ」

 言われたとおりに、相瀬は、姫様といっしょにその石畳と井戸との上の床板を元に戻した。

 姫様は、元通り、床に腰を下ろす。

 相瀬は驚いていた。あれだけあちこちを見て回って、人の知らないものをたくさん知っている相瀬が、いまの穴の仕掛けには気がつかなかった。

 どうして姫様はそんなものに気づいたのだろう?

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