第18話 鬼(1)

 月明かりは、満月に向かって夜ごとに明るくなっている。

 その月明かりのせいで、この閉ざされた部屋も明るい。

 白い着物を着た高貴の姫様が、大きな握り飯を両手で持ってかじりついている。ときどき手の甲で唇の端を拭いながら食べている。握り飯を置いては大いわしを取る。さすがに相瀬あいせがやるように顔の前にぶら下げて頭からかじるようなことはしなかったが、やはり両手で持って、魚の油で手が汚れるのにもかまわずに唇でじかに身をかじっている。そのときの魚の身に吸いつくような口つきが何ともいえずかわいらしい。姫様がこんな食べかたをしなければならないのは相瀬が箸を持ってこなかったからだ。けれどもこんな姿が見られるならば箸を持ってこなくてよかったと相瀬は思う。

 姫様だって、最初は、不審そうな顔で見ていたのだ。焼きかたが雑で崩れた大鰯は、上下左右と裏返して見て、どうやら焼き魚の一種とわかってもらえたようだが、麦飯の握り飯には

「これは小豆を混ぜたのですか?」

と言っていた。でも、麦のふすまをきちんと取らないからそんな色なんだと説明すると、何も言わずにかじり始めた。

 姫様が食べているのを見ていると、胸のあたりが温かくなって、自分の血のめぐりもよくなったように感じる。

 相瀬がまだ小さかったとき、相瀬の母は、相瀬が行儀の悪い食べかたをするのを同じように見ていたのを思い出す。そうやってしばらく見ていてから、これ、もっとお行儀よくお上がりなさい、と叱るのだ。

 愛おしいというのは、こういう感じを言うのだろうか。

 握り飯を食べ終わって、姫様はきちんと手を合わせ、相瀬に向かって頭を下げた。

 「ごちそうさまでした。ありがとうございました」

 「あ、いいえいいえ」

 相瀬は慌てる。高貴の姫様に頭を下げられるなんて、もったいないというより、あるはずのないことだから。

 「朝にみんなで炊いたご飯の余りものだからさ」

 もちろん、余ったのではなくて最初に取って置いたのだが、細かいことは言わないことにする。

 月の光の漏れてくる明かりだからよくわからないけれど、姫様も血のめぐりがよくなったように見える。

 「こんなときに、悪いんだけど」

 満足するくらいに食べて嬉しいときに、いやな話を聞かされるのは相瀬も厭だ。姫様だって厭だろう。でもいまはしようがない。

 「姫様を探るためって、お役人が村に来ました」

 「覚悟はしております」

 姫はぱちっと一つまたたきしただけで答えた。相瀬は急いで言う。

 「あ、いや」

 だから突き出してくれなどとまた言われても困る。

 姫様は首を軽く傾げ、それまでと変わらぬ言いかたで言った。

 「もしその人たちの名をご存じでしたら、言ってもらえませんか? 私が知っている人かも知れない」

 「ああ」

 どんな名まえだっただろう。

 相瀬が眠いのをがまんしているのに、ずっとおしゃべりしていたような者たちだから、名まえなんかどちらでもいいように思って、きちんと覚えていないが。

 もり大小母おおおば様は何と言っただろう。

 「まず、頭はヨシイ……えっと、あ、ヨシイゲンスケ様」

 「お若い方ですか?」

 「あ、はい。とても若かったような」

 「だったら普請ふしん組の組頭だった吉井様のご子息かしら。いずれにしてもお会いしたことはありません」

 そう言われてもわからない。姫はさすがによくわかる、と思うが、領主のお殿様の家の姫君なのだから、あたりまえかも知れない。

 「それにキタムラセーゴ様」

 「この方はわかりません」

 「クワエシンノジョー様」

 「この方も」

 つまり、姫は三人とも知らないわけだ。

 これはいいことなのだろうか。

 姫はこの三人のうちだれかに出会ってもわからない。

 この三人のほうも、たぶん姫を知らない。武士でも身分が低ければ姫様にじかにお会いすることはなかっただろうし、しかも、姫様はずっと岡下おかしたにおられて岡平おかだいらにはいらっしゃらなかったのだ。

 人相書きは見ているだろうし、いま持っているかも知れない。だが、姫は、色が白くて、頬がほっそりしていて、目の色が黒いというほかに、これといってほかの娘と際だって違うところはない。

 たしかに浜や村では色の白い娘は少ないが、いないわけではない。

 たとえば、あの――。

 真結まゆいとか。

 もし姫が見つかっても、姫じゃないとあくまで言い張れば、あの連中はどうするだろう?

 向こうもそれでも姫だと言い張って連れて行くだろうか?

 いまの衣裳ならばすぐに姫とわかってしまう。でも、姫に相瀬の着物を着せれば……?

 「どんな方たちなのです?」

 姫がきく。相瀬は正直に答えた。

 「ヨシイ様とキタムラ様は、なんていうのかさ、とてもいいかげんな人で、お酒飲んでたり、お祭りのあいだずっとおしゃべりしてたり、ふまじめな感じの人」

 「まあ」

 姫様は口をとがらせたまま首を傾げる。

 家中にそういう家来がいるのが不満なのだろうか。だとしたらいまもこのひとは領主家の姫様なのだ。

 「では、桑江くわえ慎之進しんのじょう様は違うと?」

 姫様も考えることは相瀬と同じらしい。

 「ああ、なんか身分がいちばん低いみたいで。なんか熱心に取り組んでいらっしゃるって感じで、村の人たちに、姫様を見たか、とかきいて回ってるらしくて」

 「ご熱心ですね」

 姫様は人ごとのように言う。手を開いたり閉じたりして、もじもじしている。

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