第17話 炭占い(6)

 いまの季節、月と違って日は高いところから照らす。南側の障子の上半分も陰だ。締め切った障子をときどきがたがたといわせて、部屋のなかにも風が吹き抜ける。

 寝床に手をついて泣きながら美絹みきぬは話した。それを、床板の上にどんと腰を下ろして相瀬あいせが聞く。これではどちらが目上かわからないと相瀬は思う。

 「だいたいのことはわかりました」

 話をひととおり聞いて、相瀬が美絹に言う。

 「つまり、さだが、村を出たいって言うんですね」

 貞というのは、美絹の夫の貞吉さだきちだ。小さい子どものころに相瀬と組み討ちの大げんかをし、今朝、船の漕ぎ手として出て行ったのがこの貞だった。

 「うん」

 美絹はまだ涙声だ。さっき、事情を説明している途中で泣き出してしまったのだ。

 最初は、相瀬が自分の跡継ぎだからか、相瀬が参籠中でたいへんだということに気を配ってくれたのか、あの、優しい、ふんわりした声で話をしていたのに。

 「佃屋つくだやさんから誘われた、と?」

 「そう」

 佃屋主計右衛門かぞえもんというと、浜に魚の買いつけに来ているご城下の商人の一人だ。歳は六十がらみで、人当たりが柔らかい。何かあると商人たちのまとめ役を務めたり、商人と浜の人たちのあいだに立って話をまとめたりする。

 「でも、佃屋さんっていうと商人でしょう? どうして漁師の貞が?」

 「よくわからないんだけどね」

 美絹がうつむき加減に上目づかいで相瀬を見る。垂れた髪の毛越しの白い顔が美しくて、それだけに泣き顔なのが痛々しい。

 「最近は干しあわびとか干し海鼠なまことかの売れ行きがいいらしくて、江戸とか、遠くは長崎からまで商人が買いに来るんだって」

 「長崎……」

 ずっと遠くにそういう街があることは知っていたけれど、どれほど遠くなのかは相瀬にはよくわからない。

 江戸さえ、名はよく聞くし、公方くぼう様のお膝元とは知っているけれど、どんな街なのか相瀬には想像もつかない。

 「でも、佃屋さんのほうでは、そういうものに目が利く人がいない」

 「だから貞が、と」

 「うん。佃屋さん、ここの浜で取引なさるときには、貞をずいぶんあてにしていなさるみたいだから」

 「うん……」

 たしかに、相瀬が獲った魚や貝を持っていって見せると、すばやく、でもていねいに見て、これは高く売れる、これは売り物にならないなどと言ってくれていた。海女になりたてのころ、獲物は大きければいいなどと思っていた相瀬はよく貞吉に喧嘩を売った。でも、売れ行きは貞吉の言ったとおりだった。何度もそれで悔しい思いをした。

 いまでは相瀬もその区別がわかるようになったからいちいち貞吉に聞きに行ったりしない。でも、相瀬に魚や貝の値打ちの見かたを教えてくれたのは貞吉だ。

 しかし、村の人は、そんな貞吉の目の利きかたを重宝だとは思ってもわざわざ褒めたりはしない。

 佃屋は、それを褒め、あてにしてくれる。

 「で、貞は行きたがってる……」

 「うん」

 美絹は言って、立てていた膝を引いて座り直した。

 「あのね」

 美絹は、相瀬の顔をちらっと見ると、また目を伏せた。

 「あのひと、浜のほかの漁師衆とあんまりうまく行ってないみたいで。とくに若者組の組頭とは、ね」

 ああ、あの組頭か、と思う。

 林助りんすけという若者だ。いいかげんで、のんびりしていて、貞吉とは合いそうにない上に、意地っ張りというところだけは貞吉と同じだ。たしかにあまりうまく行きそうにない。

 しかも、娘は嫁ぐと娘組からはずれて海女の大人組に移るが、男は嫁を取っても婿入りしても、家の当主になるまでは若者組にいなければならない。いまの場合、歳下の頭に従わなければならないわけだから、貞吉が不満を持つのもわかる。

 「でも、舵取り任されてたでしょ?」

 相瀬は、十人もの男どもを乗せた船の櫓をとって、意気揚々と浜を出て行ったときの貞吉の姿を思い出す。

 晴れやかな顔だった。うまく行っていないなどとはとても思えない。

 「あれも不満なのよね、あのひと」

 美絹は低い声で言う。

 「自分を、ただの、体の大きい力持ちとしてしか見てくれてないって。でも、佃屋さんは、漁師として魚や鮑や海鼠に目が利くって扱ってくださるわけでしょう?」

 「それで?」

 だから、佃屋さんに声をかけられて心が動いた、と。

 そういうところが相瀬にはよくわからない。取引のある商人にほめられて嬉しいのだろうか。

 相瀬だって、浜に来る商人から、かわいいとか、最近は女らしくなったとか言われると、嬉しい。そんなことはたぶんないだろうと思っても嬉しい。

 でも、それはあまり商売とは関係のないところでの話だ。

 「だから、離縁するっていうわけ?」

 「離縁はしないって」

 「はい?」

 相瀬は驚く。

 「わたしも連れて行くって」

 「って、どこに?」

 「ご城下に」

 「はぁ……」

 やっと、美絹がいちばん悩んでいるところがわかった。

 「でも、貞は知ってるわけですよね? 海女の娘組の頭を務めたら、一生、村を離れられないって」

 「うん」

 美絹はまた涙声に戻りそうだ。

 「でも、そんなのは昔の決めごとだろうって。いまは世が変わった、それなのに、どうして、一生に一度、海女の娘組の頭を務めたってだけで、村を出られないんだ、海女でも大人組や、漁師の若者組でも大人組でもそんな決めごとはないのに。そんな決めごとがおかしい、って」

 「はぁ……」

 海女の娘組の頭を務めると、一生、村のなかで暮らさなければならない。嫁ぐにしても村のなかで嫁がなければならない。それが決まりだ。

 相瀬は、窮屈きゅうくつだけれど、それでいい。ここの暮らしが自分にはいちばん楽だと思うからだ。

 でも、相瀬がいま次の頭を決めかねている理由の一つがこれだった。

 それに、確かに。

 ほかの組にはそんな決まりはないのに、どうして、海女組の、それも娘組だけにそれがあるのか。

 しかも、娘組の海女なんて、海女の大人組に入る見習いのようなものだし、仕事も遊びのようなものだ。れ高が少ないとほかの組から厭味いやみくらいは言われるが、まあしかたないと思ってもらえる。

 その頭の役割なんてたかが知れているはずなのに。

 ――娘組の頭になると、一生、村を出られない。

 その理由はある。相瀬はもちろんそれを知っている。

 だが、それは、娘組の頭と次の頭とこれまでそれを務めた者たちだけしか知らない理由――それだけの者しか知っていてはならない理由だ。

 相瀬は大きくため息をついた。

 ため息をついたら肩のところの着物がどんと落ちたので、まだあの祭礼衣裳のまま着替えていなかったのだと思い出す。

 「でも、そんなこと、名主様が許してくださるかどうか。大人組の頭だって、それに、大小母様だって」

 「だから、黙って村を出ようって」

 「あ」

 そうか。

 貞吉にはそういうところがある。自分の言うことが通らないと、無理でも通して見せようとする。

 強情なのか、横着なのか。

 「あ、いや、それだめですだめです」

 相瀬は早口に言った。

 「そんなことしたらたいへんなことになりますよ。二度と村に入れなくなる。そうそう、だいたい佃屋さんだって二度とこの浜で商売できなくなっちゃう」

 「そんなことはないっていうのが、あのひとの言いぶんなのよね」

 言って、なんだか得意そうに笑って見せるところ、やっぱり美絹さんは貞が好きなんだと思う。

 「佃屋さんが浜に入れなくなったって、佃屋さんの商売には何も差し障りはない。でも、浜に佃屋さんが来てくれなくなったら、浜は困るだろう、って」

 「あぁ……」

 何を考えているのだろう。

 貞吉が自分でそんなことを考えたのだろうか?

 あの温厚な佃屋が貞吉にそう教えたのだろうか?

 とんでもない心得違いだと思う。差し障りがないも何も、村が魚も鮑も海鼠も売らなければ、商人は商売ができないのだ。

 そうなったら――と思って、相瀬ははっとした。

 浜が魚を売らないと言い張ったら、ご城下の商人には売らせる方法がある。

 網奉行あみぶぎょうにお書付かきつけをもらうこと――。

 つまり、あのサガラサンシューに、村は魚を売れ、と村に命じさせるのだ。こうなると、村は嗷訴ごうそでもしなければ拒むことができないし、サンシュー相手に嗷訴したらどうなるかはみんな知っている。

 しかも、お書付のなかみ次第では、値段すら決められてしまうかも知れないのだ。

 佃屋を通して、サンシューの手が村に伸び、それは貞吉を通して美絹や自分に届こうとしている。

 つまり、海女の娘組の頭のところまで。

 あの三人の役人だけではないのだ。

 「わかりました」

 相瀬はきっぱりと言った。

 「こんどの漁から帰ったら貞にはちゃんと話してみます」

 「悪いね」

 美絹は少し顔色がよくなったようだ。

 「歳下の相瀬ちゃんにこんなことを頼るなんて」

 「いいえ、美絹さんにはわたしのいろいろばかな喧嘩けんかを治めてもらいましたから」

 そうだ。美絹は気が立っている相手を穏やかな言いかたで宥めるのは得意だった。でも、貞吉には、相瀬がいきなり喧嘩をふっかけたほうが効くかも知れない。

 「それとね、相瀬ちゃん」

 美絹がしっとりした声で言う。

 「はい?」

 美絹は、顔を上げて、相瀬のほうを見て言った。

 「その衣裳、よく似合ってるわよ」

 くすっ、と笑って。

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