第11話 荒磯の姫君(2)
姫様は
「知っていたのですね」
微かな声で言う。海女どもがこんな声を立てたら「聞こえないよ!」と叱りつけるところだが、いまはこのほうが都合がいい。
この部屋はじかに別院のなかに音が響かないように造ってあるらしい。でも用心に越したことはないし、姫様が大きい声を立てていいのだと思ってしまっても困る。
相瀬は笑ってうなずいて見せた。
「ま、さっき知ったばっかりですけどね」
畳一枚を横にしたくらい隔てて、相瀬は姫の向かい側に座る。
姫は目を斜めに伏せたままだ。
「相瀬さんが知っていると言うことは、相瀬さんの村にも触れが回ってきたのですね」
「わかりません」
相瀬も声をひそめた。それでも勢いを弱く言えないのが相瀬の生まれつきの癖だ。
「わたしは字が読めないから。でも、
姫はいっそう顔を伏せ、下を向いた。
下を向いてしばらく、今度はゆっくりと顔を上げる。
相瀬の目をじっと見る。
「わたしをお城へお
その小さな唇で、細い声で、でもきっぱりと言う。
曳き出す、というのは、小百姓あたりが使う「突き出す」という意味なんだと相瀬は感心する。
「だめ」
相瀬は生意気に言った。
「だってさ、いっしょにいたのはお
言ってから、「お乳母様」なんて言わないのかな、と思う。でもどういえばいいのか、相瀬は知らない。
あれがお姫様といっしょに逃げ出した乳母だという証拠もない。しかしそれ以外には考えられなかった。
「はい」
姫様ははっきりと答えた。弱い声ではあったけれど。
「
カナエというのがあの乳母の名まえなのだろう。
「よく知らないけどさ」
相瀬はわざとぞんざいに言う。
「浄土っていうのは、なんか西のほうにあるんでしょ?」
「姫様が飛びこんだのは東のほうですよ。逆でしょ?」
姫は答えない。また顔を伏せる。軽く息を呑む。
さっきまで穏やかなところをみせていた姫がの目から涙が
そうか。
あれは、カナエという女だったのか。
相瀬は目の前にあの夜のあの姿がよみがえってきた。
でも、自分の身を無残に砕いたかわりに、その胸に抱いた白い衣の娘だけは、無傷で守り通していた。娘の頭をその胸と腕でしっかり守っていた。娘の腰と足は海に
自分の身がいま岩に砕かれるというのに、人はそこまで考えて身を動かすことができるものだろうか。
それがカナエという女のこの娘への思いだったのか。
この娘は、白かったはずの自分の衣が、ことにその肩から胸のあたりが、いまどうして薄く流れるように
海を大岬から禁制の浜まで泳いで、赤さが残らないぐらいには水を通したのだが、すべてが抜けるまでにはならなかった。
「そのカナエさんは、そう言わないとあんたが怖がると思って、そう言ったんですって。方便というものでさぁ」
勢いのいいはずの自分の声が、優しい言いかたに変わるのに相瀬は気づく。
「カナエって女の人は姫様を抱いて守ってくれてた。いっしょに行くつもりならば、そんなことはしないでしょ? だから、姫様には生きてほしいと思っていたんですって」
姫様は、両手を目のところまで持っていき、手の甲で目を
相瀬は自分の袖で
でも、やめた。小百姓の海女の肌着で高貴の人の目を拭うのは、やっぱり気が引ける。
姫様は顔を上げた。
声が出るのが遅れ、泣き声を抑えたのがわかる。
「でも、だれかが気がつく。そうすると、あなたにまで
「何が及ぶんですって?」とは聞かなかった。知らないことばでも、だいたいの意味はわかる。
「いいや」
相瀬は突き放す。
「何も残さなかった。カナエさんも、着物も、何もかも海に引き取ってもらいました」
「でも、流れ着けば? 海に流したものはどこかに流れ着くのでしょう? そうすればすべて
泣いていたくせに、考えることが理屈っぽい。
「そんな下手な仕事はしませんって」
相瀬はすぐに言い返した。
「海女なんだから。まだ若いと思うかも知れないけど、それでも潮の流れは知ってます。だいじょうぶ、まず流れ着いたりはしません。もし流れ着くとしてもほかの国の領地」
言ってから、相手は姫様なんだから、こんなにむきに言い返すことはなかったと思う。
でも、よかったのかも知れない。姫様は相瀬にその珠のような大きな目を向けると、くすっと笑ってうなずいた。
「あんたのカナエさんはちゃんと仏様になれたはずですよ。なんといってもあんたを助けられたんだから」
姫はしばらく黙っていた。
唇を横に引いて笑う。
笑い顔を作ると、この高貴の姫も普通の女の子らしい顔になる。
でも、やっぱりその肌は玉を彫って作ったように近づきがたく見えるのだった。
姫はどうしていいかわからなかったのかも知れない。やがて黙って手を合わせ、目を閉じた。
相瀬も柄にもないとは思いながら、同じように合掌した。
神様のお相手として参籠している途中で、ほかの仏様に合掌していいのかどうかはよくわからないけれど。
姫が手を合わせるのを終わって、相瀬を見て、軽く首を傾げた。こうするとこんどはほんとうに高貴の姫らしい。
言う。
「でも、いつまでもここにいるわけにはいかないでしょう?」
言われて相瀬は困る。
こればかりは何のあてがあるわけでもない。
夕方の話を聞くまでは、頃合いを見て盛の大小母様に話してみようと思っていた。入水して遂げられず、生き残った人を救ったことはこれが初めてでもない。
だが、娘の正体を知ってしまったからには、もうほかのだれかに話すことはできなくなった。もちろん大小母様にもだ。
「だいじょうぶ」
相瀬は、でも、心強げに言った。
「あと十日ほど待てないですか? そしたら、だれにも見られないように連れ出します」
姫様は口もとを緩めて笑った。
その姿はほんとうに手を
姫様の笑顔に見とれて、喉が硬くなったように相瀬は思う。それをおして、相瀬は言った。
「しばらく食べるものは
姫は笑顔のままうなずいた。
でも、その目もとにはまだ涙が残っている。
慰めの声をかけようとする相瀬に、姫は気丈に告げた。
「さあ、鳥が騒ぎ出します。夜が白むのももうすぐです。早くお戻りを」
親しく、しかし、貴さを失わぬように。
まだ半月はようやく山に沈もうとしているころだろう。これから夜がいちばん深まる。鳥が騒ぎ出したり夜が白んだりするのはまだ先だ。
姫様にはわからないのか。
違う。
姫様だって知っているのだ。相瀬に早く参籠所に戻り、朝まで休んでもらおうとして、こんな言いかたをしている。
たぶん。
この子こそ、この領地を継ぐにふさわしいと相瀬は思う。
このお姫様を死なせてはならない。
相瀬は、いたずらを咎められた子のように、少しだけ
「はい」
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