第10話 荒磯の姫君(1)

 月の明かりが障子を照らしている。灯火を消した参籠さんろう所の部屋のなかも、夜半とは思えないくらいに明るかった。

 相瀬あいせは身体じゅうがだるかった。力を抜いて、肩を落として両手を床につき、揃えた膝から両脚を開き、板の間の上に尻をついて、ずっと座っていたかった。

 畳のところまで行って横になるのも億劫おっくうなほどだ。

 昼は海蛇と戦った。ふさかや浅葱あさぎ麻実あさみが、ほかの村人も呼び集えて海蛇をばらし、刺身にして食べているあいだ、相瀬は真結まゆいを連れて陸のほうに入った乾葉ひいばまで行き、医者に手当てをしてもらった。だから、話にはうまいときいている海蛇の刺身は、相瀬は食べていない。

 そして夜は長い神事だった。

 お神楽とか神主様の長いお祝詞のりととかが続いたあと、筒島つつしま様といっしょにいただくということで、椀の底に小さく盛ってある煮海鼠なまこと椎茸と大根のなますを食べた。でも、そんなものでは足りないし、神様の座と向かい合って、村の大人たちに見られながら食べたって、ものを食べた気がしない。しかも、昼に殺したあの海蛇は目の前の神様と関係があるかも知れず、神様と目を合わせればそのことを問い詰められそうで、目を上げているのがつらい。殿様がきのこの毒でせっておられると聞いたうえで、きのこの入ったものを食べるのも、あまり気が進まなかった。そのうえ少しだけだが酒も飲んだ。相瀬は酒に弱い。

 このまま眠ってしまおうか。

 だが、相瀬は、背をかがめると、両手に力をこめ、そっと立ち上がった。

 前で自分を見ているはずの神様に、首をすくめて軽く頭を下げる。

 この神様ならばわかってくださる、という思いが相瀬にはあった。

 ここに籠もる娘組の頭としては去年からのつきあいなのだ。長いとはいえないけれど、それほど短いつきあいでもない。

 村から見られないように注意しながら、参籠所を抜け出す。

 月は西の空へと移っていた。しかし、眼下に広がる禁制の浜は、打ち寄せる波が作る細かい泡の一つひとつまで見えるくらいに月明かりに明るく見えた。

 あの夜とくらべて、月は明るさを増している。

 この岬の上から禁制の浜に下りる道は、相瀬以外はだれも知らない。

 険しい崖で、だれにも下りることはできないと言われている。たしかに上からのぞきこむと、すぐ足もとのひろ以上も下に白い波がくだけているのが見える。下りられるはずがないと思うのがあたりまえだ。

 しかし実際にはこの崖にも道がある。

 海女の娘組の頭を務めた女だけはそのうちの一本は知っている。

 だが、この崖を通る道はその一本だけではない。崖には、岬の先端に通じる道や、陸のほうに通じる道など、いくつかの道がある。そのことは相瀬以外はだれも知らないだろう。少なくともいま生きている者のうちでは。

 そのなかに禁制の浜の林に下りられる道があった。

 相瀬は、岩陰づたいの道を選び、身を屈めて歩いた。

 少しずつ禁制の浜に向かって降りていく。驚いた船虫ふなむしどもが道を空ける。

 岩から、砂浜には出ないで、林のなかに入って行く。

 林という。

 たしかに上から見ると木が生い茂って林に見える。

 だが、この禁制の浜の林は、なかに入ってみると、どうもあたりまえの林ではない。

 石積みがある。それは石垣が崩れたように見える。築地のように固めた土くれが散らばる。その崩れた石積みのなかに、竹藪があり、木が大きく育っていた。

 草に覆われて見ただけではわからなくなっているが、き固め、しかも両側を石で押さえた道がある。それが碁盤の目のように規則正しく交わっている。

 ほとんど土と砂に埋まってしまっているが、まっすぐに続くくぼみがある。れ川というより、人の掘った溝だ。

 相瀬はこの林で瓦や焼き物の欠片も見つけたことがある。それも素焼きではなくて釉薬うわぐすりをかけたきれいな焼き物だった。

 ここは林というより村だ。いや、街なのかも知れない。唐子の村より広いのはもちろん、唐子からいちばん近い乾葉の町よりもずっと大きそうだ。石積みや築地や道や溝がどこまで広がっているか、相瀬も知らない。

 そんな街に、ただ、建物だけがない。

 これから行く別院べついん一つを除いて。

 昔は人が住んでいたのか。

 それとも、ここは神代の村で、いまも神様たちが住んでいるのか。

 月夜は神様の世では昼で、いま、相瀬が背をかがめて足早に歩いている横を、この世ならぬ神様たちが歩き、立ち話し、歌い、舞い、それを見聞きして手拍子を取っているのだろうか。

 さっき、参籠所に神様がいたとすれば、あの参籠所の神様よりもここの神様たちのほうがよほど思いのままに楽しく暮らしているように思える。

 あそこにいた神様も、あんがい、人の参籠につき合う番が回ってきて、しようがなくやって来たのかも知れない。

 相瀬と同じように。

 もちろん相瀬に神様たちの姿など見えない。しかし目に見えない命の力を感じると思う。それは、気味悪くもあり、でも、気味悪く思うのをやめれば清々すがすがしくもあった。

 だが、気をつけなければならない。神様のように感じさせて、それはじつは天魔てんまのしわざかも知れぬ。そうだとすれば、気を抜けば天魔にとらわれて気が触れてしまう。

 いや、参籠中の相瀬が抜け出してこの林を小走りに駆けていること自体が、人から見れば天魔のしわざに見えるだろう。

 だからぜったいに気取けどられてはならない。

 相瀬は、林のなかの道をくぐり抜け、林のなかにある別院に向かっている。

 この別院のお堂の周りと、その前、浜につづく道だけは、草が切り払われている。もっとも、苅ったのは去年の秋のことだから、もういっぱいに夏草が生い茂っていた。踏み固めたところだけが草がまばらだ。

 相瀬は背をかがめたまま別院のお堂の後ろに回る。

 別院の裏に小さく突き出たところがある。

 その壁を、人差し指と中指を揃えて、二度、とんっとんっと叩く。

 しばらく間を置いて、今度は三回叩く。

 中からは何の音も返らない。相瀬は壁板を押した。

 壁板は上に上がり、小さい四角い入り口が開く。肩幅の広い相瀬がようやくつかえずに入れるくらいの大きさの入り口だ。そこから、い、にじりながら入って、中から入り口を閉じる。

 中は、中ぐらいの背の高さの相瀬が身を屈めなければならないくらいの狭い部屋だ。白い素焼きの壺がいくつか置いてあるだけで、何もない。

 板壁の隙間から細い月の明かりが入っている。相瀬はその明かりをたよりに壁の棚に足をかけ、天井へと手を伸ばした。

 相瀬は天井板を押し上げ、天井板の上に手をついて、音をさせないように棚から天井板の上に出る。

 屋根裏だ。下の部屋の天井が低いだけ、屋根裏は高いけれど、とても立って歩くことはできない。首をすくめて膝歩きするのがやっとだ。

 相瀬は、自分の入ってきたところの床板、つまり下から見た天井板をきっちりと、音を立てないようにめなおす。

 部屋には何もない。

 相瀬は音を立てないように膝歩きすると、入ってきたのとは反対側の床板を軽く押した。床に切れ目があるようにも見えなかったのに、床が動く。

 床板をはずす。相瀬はその床板から下に潜りこんだ。下りてから床板をきれいに元に戻す。

 下には細長い部屋があった。

 天井との隙間から外の明かりが漏れている。

 普請ふしんがいいかげんで建物が歪んだのだろうか。

 そうではないと思う。この別院は相瀬の知っているどんな家よりも造りがきっちりしている。瓦屋根が傾いてつっかい棒を入れている村のお寺はもちろん、名主様の屋敷よりもしっかりしていると思う。

 外からは見えないように細い窓が仕組んであるのだ。

 そして、外からは、いや、別院の中からさえ、この部屋があることはまずわからない。

 ここは、別院の神棚のちょうど裏側に当たる。

 そして、その部屋のいちばん奥に、相瀬と同じように白い着物をまとった少女がいた。

 眠っていたのだろう。

 薄い茣蓙ござの上に座り、着物の襟を両手で覆っている。

 おびえた目で相瀬を上目づかいで見ている。

 髪の毛はあの浅葱や麻実よりもいっそう黒い。長い髪は後ろに垂らしているが、前髪はおひな様のように上げている。

 外からのほのかな明かりにも黒い目と白くて艶やかな頬だ。着ている肌着が絹だということを別にしても、この白い肌は自ら白い光を放っているように見える。

 人と知らずにこの子とここで出会ったならば、この女の子こそ神様と思ってしまうかも知れない。

 相瀬はどうしてこの子がこんなに神々しいのかわからなかった。ただ、こんなきれいな子もこの世にはいるのだと思った。そして、この子の美しさが、この子をあんな災厄に導いたのかも知れないと思っていた。

 だが、いま、相瀬はその理由を知っている。

 「玉藻姫たまもひめ様」

 高貴の人に名をそのまま呼んではいけないのだろうが、そう呼ぶしかない。

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