第9話 海潮音(5)

 「そして、困ったことに」

 大小母おおおばは軽く息をついてから続ける。

 「いま玉藻姫たまもひめ様のいらっしゃいそうな場所で、まだ探索の手が及んでいないのは海辺だけなのだそうだ。つまり、探索にお追われになった、玉藻姫様とその乳母様は、海辺のどこかにひそんでいらっしゃるに違いないという」

 あっと声を立てそうになる。

 あの半月の下で見た大岬おおみさきの上の人影……。

 いままで、お姫様がかわいそうだ、お城の人たちは身勝手だ、サガラサンシューはほんとうに悪いやつだと憤りは持っていた。でも、それだけだった。

 それではすまなくなった。

 「いや、いや、そんなこと言っても……」

 「讃州さんしゅう様は網奉行あみぶぎょう

 大小母が相瀬の中途半端な言い返しを無視して言う。

 「もし海辺に姫様がいらしたなら、是非にでもその手でおとらえにならねばとご執心だ」

 「はぁ」

 「近々、お改め役のお役人がこの村にも来られることになっている。名主様のお屋敷に逗留とうりゅうしていただくことにしている」

 「はぁ」

 「言いたいことはわかる」

 相瀬にはかえってわからない。言いたいことがいっぱいありすぎて。

 「だが、浜から遠い名主様のお屋敷ならば差し支えあるまい。ともかく、海を預かる海女としては、ここでいささかでもめんどうを起こすことがあってはならぬ。しかもご祭礼の最中とあっては、なおさらだ」

 けっきょく、そのことか。

 「はぁ」

 相瀬は煮え切らぬ返事をしておいて、いちおう、考えていることを正直に言ってみる。

 「その……ご城下の大事、ということで、今年のご祭礼を取りやめる、なんていうことは」

 「あってはならぬ」

 べつに力を入れもしないで、当然のことというように盛の大小母は言う。

 ということは、またこれから参籠さんろうに行かなければいけないということだ。

 海女の娘組の頭の務めだから厭ではないけれど、重いものを何重にも背負い込んでの参籠は気が重い。

 潮の寄せ引く音は変わらず聞こえている。

 空は暗くなったのだろう。窓から空を見ただけではまだその暗さがよくわからない。

 でも、大小母の部屋の隅のほうはもう暗がりでよく見えなくなり始めている。

 大小母は低い声で言った。

 「お気の毒なことに、どこかで入水じゅすいなさったのかも知れぬな」

 「ジュスイ」というのが水に入ると書いて水に溺れて自害することだということは相瀬も知っている。

 海辺にいればその入水を図る人に年に何人かは出会う。ばあいによっては海女組がそれを救いに出る。泳ぐことにかけては男の漁師より海女のほうが慣れているから。

 相瀬は言い返した。

 「そんなことあるはずないです」

 言ってから、しまったと思った。

 でも、こういうときにはどうしても気もちが出てしまう。

 「何の悪いことをしたわけでもないのに殺されるなんて、姫様であっても小百姓こびゃくしょうの娘であっても、この世にぜったいにあってはならぬことです!」

 「そうであればよいがな」

 大小母は重い言いかたで言った。

 「しかし、いずれにしても、われらにはどうにもならぬこと、隠し立てはしてはならぬ、隠し立てをすれば村を滅ぼすことになると心得よ、生きておられても、あるいはお気の毒にも亡くなられた後であっても、姫様を見つけた者は、速やかに名乗り出よ」

 相瀬は口を結んだまま聞いている。大小母は、そこでことばを切った。

 そして、これまでとは違う、和らいだ声で続けた。

 「と、そのように海女の娘組の者たちに伝えておいてほしい」

 「わかりました」

 相瀬は頷いた。

 大小母は立ち上がった。障子紙の張っていない格子こうし窓のそばへ行き、立ち止まる。

 相瀬も腰を上げた。

 大小母はその場所から動こうとしない。窓の外をずっと見ている。

 ここはまわりを岩に囲まれている。格子窓からも窓のすぐ外の岩が見えるだけで、海は見えない。

 しかしこの窓の方角には浜の海が広がっているはずだった。

 もし岩を通して海を見ることができたならば、大小母の目は筒島つつしまをじっと見ているに違いないと相瀬は思う。

 相瀬がその大小母の後ろに立った。

 大小母が言う。

 「もうどのくらいになる?」

 「もうすぐ三年になります」

 相瀬がふた親を相次いで亡くしてからだ。

 「おまえ」

 大小母は同じほうをじっと見たまま、言った。

 「筒島様を恨んではおらぬか?」

 おごそかな言いかただった。

 筒島様を恨むなど、心に思ってもならないし、まして口にしてはならないことのはずだ。

 だが、と思う。

 「恨んでなどいません」

 相瀬はしっかりと答えた。大小母はまだ同じほうに目を向けている。

 その小さな目のうるみの輝きは、急に光を弱めている夕方の空の明かりでも見て取れた。

 「おまえの父の船はあの筒島で難に遭った。神様へのお勤めを一度たりとも怠ったことのない人であったのに。どうして浜の守り神様がそんな酷いことをなさる?」

 大小母様のことばではないと思う。

 もちろん大小母様の気はいまも確かだろうから、筒島様が寄りいて話をしているのではないだろう。

 しかし、これは、たぶん、大小母様の口を借りた、筒島様ご自身の相瀬への問いなのだ。

 相瀬が殺した海蛇が筒島様なのなら、自分を殺した者がどんな心根なのか、ここで聞いてみたいとでも思われたのだろう。

 相瀬は、だから、大小母様の見ているのと同じほうに目を向け、しっかりした声で答えた。

 「神様は人が見るよりもずっと高く遠くを見ていらっしゃいます。人一人にとってのどんな大事も、神様には少しも大事ではないかも知れない。人一人が正しいと思うことも、神様には正しくないのかも知れない。それでも、人は、人も自分も幸いになるよう、正しいと思うことをやっていくしかないんだと思います。それが、神様に守っていただけている、ということだと」

 大小母は、相瀬がそう言っても、しばらく同じほうをじっと見ていた。

 それから、ふと相瀬を振り向く。

 大小母様は、その小さい目をさらに細くし、笑っていた。

 優しく。

 「よい答えだ」

 だが、その笑いは、寂しそうにも見えた。

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