第8話 海潮音(4)

 サガラサンシューという名は、この唐子浜からこはまの村では小さい子どもでも知っている。

 悪臣だ。

 このサガラサンシューは、その悪い殿様のオーイノカミの時代に、海辺の村を治める役職として網奉行あみぶぎょうという役職を作り、自分でその網奉行になった。

 それ以来、海辺の村の年貢ねんぐは上がる一方だ。しかもそれを米で納めろと言う。山と砂浜しかない海辺では米などろくに穫れないのに、だ。でも、サンシューは獲れた魚を商人に高く売り、それで米を買えと言う。

 サンシューは、その魚商人、米商人と結託して私利を貪っているという。

 殿様はギョーブ様に替わったが、サガラサンシューはいまもその網奉行の地位にいる。

 海辺の村のなかにはお城まで訴えに出る動きもあった。しかしサンシューの仕置きは厳しかった。訴えのあった村の名主を家族ごと召し捕り、冬のあいだずっと牢に入れて返さなかった。春も遅くになって村に戻された名主はもとの面影もわからぬほどやつれ、子どもの一人は重い病で起きることもかなわなかったという。

 一時は一揆を起こそうという動きもあったらしいが、そのサンシューの容赦のないやり方に、その声も消えてしまった。

 そうなるとサンシューはやりたい放題だ。年貢が払えなくなった浜の村の人たちを追い払って、陸の村の作人さくにんにし、そのあとに相模さがみ伊豆いずや東駿河するがから連れて来た者たちを住まわせる。そうして住人が新しくなった村の年貢は安くとどめられているという。

 大小母おおおばはしばし間を置いて、言いにくそうに続けた。

 「そしてもう一つ、領内で言われている、根も葉もない噂を教えておいてやろう。もちろん、根も葉もない噂だから、信じたりしてはならぬ」

 「はい」

 だったら言わなきゃいいのに、と、以前の相瀬あいせならば思っていただろう。

 いまは違う。大小母の話をじっと聴く。

 「それは、玉藻姫たまもひめ様のほかにお子様に恵まれなんだ大炊頭おおいのかみ様が、なぜ、ご蟄居ちっきょの後になって主馬しゅめ様をお儲けになったのか、ということについてだ」

 「はあ。それはもちろん、ほかにやることがなくなってひまになったから……」

 「ばかっ!」

 大小母は一喝した。

 「おまえと話すと、すぐにそういうことを言うから、話の筋がすぐ狂う」

 「あ、はい、気をつけます」

 何をどう気をつけていいのか、わからないけれど。

 「そうではなく」

 大小母はいまいましそうに斜めに相瀬を見て、目を細めてから言う。

 「主馬様のお顔立ち、讃州さんしゅう様のお若いころにそっくりでいらっしゃるのだという」

 「それは、やっぱり同じ悪人面という……!」

 ここまで言って、相瀬にも大小母の言うことがわかった。

 「まさか!」

 親子だから似るとも限らない。

 相瀬は自分の母とはあまり似ていないと思う。母親は細面ほそおもてだったし、相瀬はというとまんまるな顔だ。それでも「母御ははごの面影がある」とか「母御の若いころにそっくり」とか言われることがある。

 似ていない自分でもそうだとすれば――。

 他人の空似そらにということもあることはあるだろう。でも、殿様の子が、自分が贔屓ひいきにしている家老の若いころにそっくりなんて、それが「空似」であるはずが……。

 「だって、そんな! ……いや、だって、そんなのないでしょ、だって、お武家様なのに。殿様と言えば、お武家様のなかでもお武家様なのに!」

 そんな言いかたしかできないのがもどかしい。相瀬は短く息をついて息を整えてから言った。

 「いや、だって、それ、ほら、村で、こないだとくさんが奥州に行ってたあいだに生まれたきょうちゃんのお父さんがほんとはつねさんか隆左りゅうざさんか、とかいう話ならわかりますよ」

 この春、村で、徳三郎とくさぶろうという男に男の子が生まれた。ところが、徳三郎は、去年はずっとご城下の商人のおともとして奥州を行商して回っていて、帰ってきたのはこうという妻が身重になった後のことだった。だから徳三郎はその子の父親であるはずがない。

 では、ほんとうの父親はだれか。徳三郎の友だちで、徳三郎が行商に行っているあいだその家のめんどうを見ていた恒七つねしちか隆左か。それとも名主の幸右衛門こうえもん様か。

 香はもともと海女だったこともあって、一時期、ふさかや浅葱あさぎ麻実あさみが一日も二日も三日も飽きずにその話ばかりしていた。

 だが当の徳三郎は恒七や隆左とこれまでと同じように仲よく友だちづきあいしている。もちろん徳三郎の妻の香も交えてだ。名主様とも普通におつきあいしている。

 そして、宗門しゅうもんあらためでは、京と名づけられたその子は、あたりまえのように徳三郎の子として届けられることだろう。

 宗門改めで父親ということになっている人と実際の父親が違う。そんなのは村でならいくらでもある話だ。

 「いや、でも、お武家って、そういうのにはすごく厳しいもんでしょ?」

 もりの大小母は黙っている。

 村ではそういういいかげんなことも通る。でも、家柄とかしきたりとかにうるさいお武家では、違う親の子を勝手に自分の子にしたり、自分の子を勝手に違う親の子にしたりなどということは許されないはずだ。

 だが、悪家老サガラサンシューの力をもってすれば、どうだろう。

 しかも、あの性格の悪いオーイノカミは、サガラサンシューをことのほかかわいがっていた。また、サガラサンシューも、オーイノカミをチッキョさせることに決まったときにもご家中で一人反対したという。

 「いや、たしかにそれなら筋は通ります」

 相瀬は、座り直して、腰を落ち着けたまま身を乗り出した。

 「だったら、サンシューにとって玉藻姫様はたしかにじゃまです。自分の子のシュメを殿様にするためには、玉藻姫様が、その、なんでしたっけ、ああ、岡下のダイゼン様のごシソクのシュゼン様と夫婦になって、そのダイゼン様の子が殿様になるというのは絶対に困る。だから玉藻姫様を!」

 「そのような噂を信じてはならぬ、と言っているのだ」

 以前の相瀬は、そう言われればすぐ真に受けるくらいのお人好しだった。

 しかし、違う。

 もしほんとうに信じてはならないことなら、盛の大小母は最初からわざわざ噂など伝えないはずだ。相瀬がその推測を言うことも許しはしなかっただろう。

 大小母はもちろんそれがほんとうだと思っている。相瀬もそう思うかどうか、それをいま試したのだ。

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