第6話 海潮音(2)

 大小母おおおばが言う。

 「わたしらのような下々の者には関わりのないことと思うが、おまえは海女の娘組のおさだからな。話しておく」

 「はい」

 「かしら」ならまだいいが、長と言われると照れがある。照れを隠すために笑いそうになる。だが大小母はそんな照れを相手にする様子もない。

 よほど大きなできごとだったのだろう。

 ご城下の話に限らず、お武家の関係する話は難しくてよくわからない。でも、相瀬あいせは、ともかくも大小母の話をわかろうと努めることにした。

 大小母は唇を一度結んでから、話を始めた。

 「玉藻姫たまもひめ様……と言われて、おまえはわかるか?」

 「いいえ」

 前にきいたようには思う。

 殿様の家のお姫様だったと思う。何かいたましいできごとでその名を聞いた。

 盛の大小母は軽くまぶたを閉じてから話を続けた。

 「先の殿様で、江戸のお屋敷に蟄居ちっきょなさった大炊頭おおいのかみ様が」

 「ああ!」

 思い出した!

 「昔、そのお姫様のお母さんをなぶり殺しにしたって言うんでしょ!」

 そうだ。

 その玉藻姫というお姫様は、自分のお父さんに、自分のお母さんを殺されたのだ。

 しかも、むごたらしい殺しかたで、だったという。

 どうしてお武家というのはそういうかわいそうなことが平気でできるのだろう。

 大声で言った相瀬を、大小母は小さい目で厳しく睨みつける。

 「そうだ。大炊頭様の数あるご乱行らんぎょうの一つとされておる」

 ランギョーというのは悪い行いのことだろう。殿様のやったことだと、それにまで「ご」をつけなければならないのか。

 こういうのが相瀬には苦手だ。

 大小母は続ける。

 「それで、まだご幼少であられた玉藻姫様は、大炊頭様のおん弟君で、岡下おかしたの殿様になっておられた刑部ぎょうぶ様に引き取られ、育てられた。玉藻姫様は刑部様によく懐かれたそうで、刑部様をつねづね父上様と呼んでおられたほどだという」

 「はあ」

 相瀬はこれだけ聴いてもう聴くのが厭になっている。

 お殿様に、いや、お武家に関係する話は、ふだん聞かないようなことばがたくさん出てくるので、何が何かさっぱりわからなくなるのだ。

 いまはまだわかっている。

 玉藻姫は実のお父さんにお母さんを殺された。そのあと、この岡平おかだいらのお隣の岡下で、そこの殿様になっていた自分の叔父さんに引き取られた。この叔父さんがギョーブという人だ。

 その叔父さんのギョーブを自分のお父さんと呼ぶほどまでに懐いていた、ということだ。

 難しいことばをいっぱい交えた大小母の話は、容赦なく続く。

 「一方で、その後も大炊頭様のご乱行は収まらず、ついにご蟄居ちっきょ、刑部様が岡下領からお戻りになり、この岡平領のご領主となられたわけだ。しかし、そのとき、刑部様は玉藻姫様を岡下の永遠寺ようおんじにお預けになり、岡平のお城にはお連れにならなかった」

 チッキョというのは無理やり閉じこめられて隠居させられることらしい。オーイノカミは悪いことのし放題だったので、ついにそのチッキョにされてしまった。そして、玉藻姫様の叔父さんで育ての親で、オーイノカミの弟のギョーブ様が新しい殿様になった。

 そのギョーブ様が治めていた岡下という街には、相瀬は行ったことがない。

 それほど遠くはない。朝に出れば岡下で用事をすませて夕方にならないうちに帰ってくることができる。

 聞いた話では岡平のご城下に並ぶくらいの大きな街だという。岡下の商人もときどき魚を買いに来る。ほかの商人のようにひどく値切らず、鷹揚おうように買ってくれる。

 ヨーオンジという寺の名も知っている。岡下にある大きな寺らしい。どれぐらい大きいかというと、寺の中にまた寺があり、その寺の中の寺一つひとつが村のお寺と同じくらいの大きさだという。

 玉藻姫様は、自分を育ててくれたギョーブ様が岡平の殿様になったとき、いっしょに岡平には戻らず、ヨーオンジという岡下のその大きい寺に預けられたわけだ。

 「岡平のご領が刑部様のおかげでまずまず安楽にやってこられたことは、おまえも知っていよう」

 「はぁ」

 安楽にやってこられたのだろうか。

 相瀬にはつらいこともあった。けれども、それはたぶんいつの世でもあることだっただろう。生きられないほどの苦しみがあったわけでもない。

 ほかの子も同じようなところだろう。

 だとすれば「まずまず安楽」にはやってこられたのだろう。

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