第5話 海潮音(1)

 遠くから海に波の寄せる音引く音が聞こえる。

 ここからは海は見えない。窓には障子紙が張っていないところがあり、そこから空が見える。

 浅い青に、浅い橙色に、あいだにあいまいに雲がなびいて、湿気の多い夕空だ。

 板間にじかに座った相瀬を、もり大小母おおおばがその黒い小さな目で見据えている。

 還暦まで海に潜っていたという老女は、それでもその顔立ちに艶っぽさのおもかげを十分に残していた。

 「真結まゆいの傷が軽くてよかった」

 大小母様が言う。

 「ええ。血がぱっと海に広がったときはびっくりしました」

 相瀬あいせが元気に言っても、大小母様の声は厳しい。

 「それにしてもだ」

 次に言われることの見当がついているので、相瀬は黙っている。大小母は、ふん、と鼻を鳴らした。

 「参籠中に、筒島つつしま様の鼻の先まで行って、それで海蛇退治とは!」

 相瀬は横座りしたままじっと盛の大小母の顔を見返す。

 「しかもその海蛇を食ってしまうとは」

 「いいじゃないですか」

 相瀬が言い返す。

 「海蛇だって、そのまま海に捨てられるよりは、食べてもらったほうが幸いってもんじゃないですか」

 「それに、海蛇は食うと旨いと聞いていた」

 大小母が仏頂面ぶっちょうづらで続ける。

 「そうだろう? 違うか?」

 相瀬は思わず顔がほころんだ。

 「そうです! そのとおり」

 そのままくすくすと笑い続ける。

 「愚か者!」

 大小母が叱りつけた。

 「あの大海蛇は筒島様のお使いかも知れぬのだぞ」

 声も凛としていてやはり艶がある。

 大小母はしばらく何も言わない。

 夕空の下、潮の音がずっと聞こえ続けている。

 たしかに相瀬だってそうは思ったのだ。

 大小母は「お使い」と言った。でも、それは口に出すのをはばかっただけで、ほんとうに言いたいことはわかっていた。

 相瀬は、筒島の神様を殺したのかも知れぬ。

 しかも、その神様に仕えるために身を清めて参籠している身でありながら。

 相瀬には言いたいことはあった。でも、大小母がきかないので、黙っていた。

 大小母だって、わかっているだろう。

 真結が襲われたから、やったのだ。襲ってきた相手を殺す以外に、いったいどんなやり方があっただろう。

 相瀬は真結を助けられた。それを助けなかったとすれば、そのほうがよっぽど大きい罪だと思う。

 「それで」

 大小母はゆっくりと息をついて、相瀬から目を逸らせてから言った。

 「おまえはまだふみを習うつもりはないのか」

 「はい」

 即座に答える。いまこれを言われるとは思わなかったが、こういうことは、すぐに答えて、大小母様の未練を断っておいたほうがいいと思った。

 大小母は目を逸らせたまま続ける。

 「もっと直截ちょくせつに言う。学問をする気はないか、と言っている」

 「学問ですか?」

 相瀬の声はうわずった。

 「学問」というものがあるのは知っている。

 だが、それが自分の身にかかわるところに出てくるなんて、考えもしなかった。

 「あ、いえ……いいえ」

 そう答えるしかない。

 文を習うことすら、空恐ろしくてできないというのに。

 そういえば、その学問とかいうものと、あの大海蛇と、どちらが怖いだろう。

 学問のほうが怖そうだ。大海蛇は目に見える。でも学問というものは正体がわからない。

 大小母はやっと相瀬の顔に目を戻した。まだ少し斜めに見ている。

 「まあ、よい。それで」

 大小母は、いかめしい顔つきのまま、じっと相瀬を見つづけた。

 「はい?」

 相瀬が首を傾げると、大小母は重い声で言った。

 「このたびのご城下の変について、おまえは何か知っているか?」

 「いいえぇ」

 わざとゆるんだ口ぶりで答える。

 ご城下のことなんか、知りたくもない。

 でも、そういう答えかたをしてから、大小母がじっと自分の目から目を離さずにいることに気づく。

 何か様子が違う。

 そこで、相瀬はあらためて居ずまいを正した。

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