第4話 大海蛇(3)
見ると、
「来るな!」
房が口を開けた。どうして、とか、だって、とか言うのだろう。船脚を止めない。相瀬はさらに大声で呼ばわる。
「大海蛇だ!」
房には聞こえたはずだ。だが、房は櫓を持ったままわけのわからなさそうな顔をし、また船を漕ぎ始めた。こちらに向かって。
相瀬が声をひっくり返す。
「人食い海蛇だ! ともかく逃げて! あんたたちで
その声が、体を浸している海の水に吸い取られていくようで、もどかしい。
「相瀬さん!」
横に黄色い
油断した。
房たちに気を取られていた。
海蛇はその隙を衝いてきた。
「えいっ!」
とっさに頭を水に突き入れる。
海蛇に頭突きとは。
いや、頭突きした海蛇の頭がこんなに重いとは!
「相瀬さんっ!」
真結がまた叫ぶ。左の手首に痛みが走る。
はっとする。
左手が軽い。
危ないのはわかった上でまっすぐ水に潜る。
銛が水に沈んでいく。
そのゆっくりさが腹立たしい。ただ沈んでいく銛に、懸命に水を掻いても蹴っても追いつかないのだ、人の体というものは!
この大きくて凶暴な海蛇に、銛を持たずに勝てるはずがない。しかし、いま銛を取りに潜っていたら、そのあいだに海蛇に追いつかれてしまう。
相瀬の不覚だ。
しようがない。
相瀬は息を継ぐと、海蛇の正面に全身をさらした。
真結は守る。真結にはけっして近づかせない。
銛は使えない。だから、相手の懐に飛びこんで抱きつくなりなんなりして、相手を素手で殴り倒すしかない。
小さかったころ、
同じことをやってやる。大海蛇に通じるのかどうかわからないけれど。
ならば。
もういちど、息を継ぐ。
大海蛇は前を遮られて、いちど向こうへ戻った。
間合いをとっているらしい。
くるっと身を翻す。
身をくねらせながら今度は相瀬へとまっすぐに向かってきた。
相瀬の
身の長さは四‐五尺はある。相瀬の背丈と同じくらいだ。そして、人間では手足に分かれている力が、こいつはこの身一本で使える。
でも、人は、力が弱くても手と足を使えるのだ。何とかならないか。
あとひと息でかぶりつこうとするところが勝負だ。
横で何か白いものがすーっと下に下りていくのが見えたように思った。気にしている余裕はない。
海蛇の大きな頭が迫る。小さな目に大きな口――なかなか憎からぬ顔だ。
その顔が目のまえに迫ったところで拳で下からひと突きする。
当たった!
その手を放さない。身を翻して右手を添える。
息を詰める。
それで魚が死ぬか?
せめて背骨を折ることができれば……。
激痛が走った。
膝から下がすうっと冷たくなる。とっさに水を蹴る。二発めはなんとかかわした。
やはり大海蛇は強い。その尾で足を打ってきたのだ。
思わず
何をしていいかもうわからない相瀬の体の上で海蛇がぐるんと体を回した。
相瀬の喉へと迫る。相瀬はもういちど拳を握った。でもそれで勝てないこともわかっていた。
次は防げる。たぶんその次も。でもこのままだと追いつめられる。海蛇に上を押さえられている。そのうちに詰めている息が切れる。
ふいに目のまえを白いものが行き過ぎた。海蛇が遠ざかる。その白いものが押してくれたのだ。
天の助けだ。
あいまいに握っていた右手に何かが当たる。当たった何かを相瀬はつかむ。
海蛇をもう一つ押し戻す。
間合いが取れた。
相瀬は右手に銛を握っていた。
押し戻された海蛇は、あの小さい目と大きな口でこちらをうかがっている。
怒っているのだろう。
かまわない。こっちだって怒っている。
来い!
銛なしでここまで闘えた。銛があれば……。
海蛇は突進してきた。体をくねらせ、上下にも小さく動かし、頭を動かして口を左右にひねっている。
一撃で相瀬を殺すつもりだ。
間合いが
まっすぐ深く潜る。残り少ない息で、力を振り絞って海の底を目指す。勢いをつけて砂地ぎりぎりまで潜る。
海蛇はついて来る。もう追いついている。相瀬の腰の横にぴったりくっついている。
あとひと息で相瀬に食らいつく!
相瀬は、残り少ない息を溜めて喉の奥を開き、耳との息の通り道を開くと、砂地を蹴って上へ向かった。
海の水を蹴る。ありったけの力で。
五尋以上の海を駆け上がる。
相瀬の体はその勢いで海の上に跳び上がった。吸う息が甘い。磯着が急に重くなる。それが相瀬を水に引き戻す。
相瀬は短く持った銛を水面高くに掲げる。
来ないか?
来た!
海蛇が水面に出た。頭を上に上げ、口をぱくぱくさせている。苦しいのではない。相瀬が落ちてきたところに食いつこうとしているのだ。
「やあっ!」
絹を裂くような気合いとともに、相瀬は銛を突き出した。
銛が白く光る。まぶしい。
どうだ?
手応えはあった。
銛の柄をしっかり握ったまま、相瀬は背中から水に落ちる。
落ちたところに何かが襲ってくる!
だめだったか……。
いや。
相瀬に向かって押し寄せたのは赤黒い血の流れだった。
真結が流していた血よりも濃く、黒く、
銛は突き刺されば容易にはずれないようにできている。相手を突き刺したまま、相瀬は銛を引きずってその場を離れた。
相瀬の銛は、海蛇の口を切り裂き、たぶん鰓をも切り裂いて深く入りこんでいた。その長い背びれの横から出た銛の先に日の光がきれいに照っている。
相瀬は息をつく。
そうか。
明るくて、けだるくて、眠ってしまいそうな昼間だったのだ。
それはいまも続いている。
「相瀬さん!」
細い声を懸命に押し出している。
見ると、真結が、あの白い顔で相瀬をじっと見ていた。相瀬が振り向いたのを見て、こちらへと泳いでくる。
「相瀬さん……相瀬さん……!」
相瀬の顔がほころぶ。
自分がどんな顔色をしているだろうと思う。もともと日焼けして赤い頬が、いまはもっと赤くなっているだろう。
そうだ。
大海蛇と自分のあいだに割って入り、相瀬に銛を渡してくれたのは。
それもちょうどの位置にちょうどの間合いで渡してくれたのは。
真結だったのだ。
真結は、自分が手負いなのにもかかわらず、海の底まで潜って銛を拾ってくれたのだ。
ふだんは二尋半も潜ると苦しくなって浮いてしまう真結が、その倍以上の深さの海から銛を拾ってくれた。
「真結ぃっ!」
相瀬は、銛を左手に持ち帰ると、自分に向かって泳いで来た真結の首に右手でかじりついた。
「真結……」
さっき海蛇にやった以上にぎゅうぎゅうに絞め上げる。
細くて折れてしまいそうな真結の胸のあたりを。
真結も両手で相瀬に抱きついてきた。相瀬の肩から背中を斜めにぎゅっと抱く。
相瀬と頬を摺り合わせ、肩の上に顔を載せている。
細かく震えているのは、泣いているのか、嬉しくて笑っているのか。
自分の大きな胸の向こうに、真結の胸のふくらみが感じられて、それが海の波に合わせて押されたり引いたりしているのが、何とはなくくすぐったい。
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