第3話 大海蛇(2)

 小さい悲鳴が海の上を渡り、相瀬あいせはすばやく半身を起こした。

 悲鳴はふさかやかどちらかだ。二人とも板に載せた蟹のことは忘れて、沖を見ている。そのうちどちらかが板に手をつき、板を傾けて、蟹を海の底に沈めてしまうだろう。

 海から頭を上げた浅葱あさぎが、あたりを見回し、やはり房と萱が見ているほうに目をやる。

 「真結まゆいっ!」

 相瀬は右手に大銛おおもりを握ったまま、舟から海へ跳びこんだ。そのまま左だけで抜き手を切り、沖へと泳いでいく。

 沖へ。

 筒島つつしまのほうへ。

 「四人じゃないって!」

 顔が見えた。筒島の手前だ。遠い!

 懸命に唇をすぼめて空へと突き出している。そのままその顔が水の下に消える。

 自分に苛立つ。

 ――もう一人、真結がいたのだ!

 真結は、歳は自分と同じか、少しだけ下らしく、残りの四人よりは歳上だ。

 だが。

 海女としてはどうにも才がない。

 いまだに海鼠なまこを掴むのを気もち悪がる。大きい鮑が手のなかでうごめいているだけでも気もち悪いらしい。

 だから獲物がとれない。房や萱はもちろん、去年海女になったばかりの浅葱や麻実あさみよりもだ。

 気が細かすぎるのだ。

 そんなことだから、歳下の海女たちに気兼ねして、いつも少し離れたところで漁をしている。

 その真結に何かが起こった。

 できる限り速く抜き手を切る。足で大きく水を蹴る。その場所が近づくと、だいたいの場所を確かめ、潜った。

 目が潮に慣れるまでしばらくかかる。目が慣れると、これだけ強い日が照っているだけあって、水のなかは明るい。

 水が変わる。流れも、温かさもそれまでと違う。村の岬の先を通り越したのだ。ここまで来ると水のなかからでも遠くにおぼろげに筒島が見える。

 筒島は浜の入り口にある小さな島だ。浜の守り神様の島とされていて、ほこらがある。

 筒島には決められたとき以外には近づいてはならない。しかも神様に仕えて参籠さんろう中という身だから、なおさら神様に禁じられていることはやってはいけない。

 だが、やっぱりしかたがない。

 黒いものが揺れながら上がったり下がったりしている。いや、下がっていく途中で、ときどき逆らって上がろうとする。黒い大くらげのように見える。

 真結の髪の毛だ。

 その下に見え隠れしている、かわいそうなほど白く透き通る細い体が、真結だ。

 その白く透き通る体から、赤いものがほとばしる。

 その白い体に、沈んだ黄色のような、奇妙なものがその白く透き通る体に寄りついていた。

 「ああ……」

 離れている相瀬の体にまで、ぞっと気味の悪い感触が走った。

 白い体は、白い衣を海のなかに美しくはためかさせながら、その黄色の奇妙なものと争っていた。黄色のものが執拗に白い体に迫る。身をくねらせ、翻し、小さく動いて、白い体の動きを封じようとする。

 その白い体と衣のあいだから、日の光を通して赤く見え、黒のまだらのあるきたないものが広がって行く。

 真結の血だ。

 相瀬は自分の血が一度に凍り、そのままたぎったように思う。

 水から顔を出して息を吸い、再び潜る。

 銛は使えない。真結の血で水が濁っている。見通しがきかない。銛を使うと真結を突いてしまうかも知れない。

 相瀬は銛を左手に持ち替える。赤黒い垂れ幕のような血のなかに潜りこんだ。

 やっと白い体が見える。そのすぐ横に自分の頭を突っこむ。とたんに肩から左腕、左脇腹のあたりに鱗が擦れる感じが広がった。擦れただけで痛い。相瀬は左の腕でその大きなものを力任せに押しのける。右腕で真結の白い体をつかむ。水面へと投げ出す。赤い水にさっと流れができて、真結の体は上へと去った。

 押しのけられた黄色い大きなものがそのあとを追おうとする。相瀬は水を蹴る。斜めから体ごとその黄色いものにぶつかる。重い! 止められない。ひとひろほど上に真結の足がある。相手は大口を開けてそこに取りつこうとする。相瀬はとっさに銛を大振りした。柄が相手の背に当たる。やっと相手が怯む。

 相瀬は真結とその相手のあいだに割って入った。

 相手が身を翻して戻って来ないことを確かめてから、上に跳ね上がる。息を継ぐ。

 息を継がなければならないだけ、人のほうが分が悪い。

 真結はまだ水面に顔を出して荒い息をしていた。もともと色の白い真結が血の気を失い、顔色が青黒い。

 真結がどれくらいのけがをしているのかはわからない。確かめている余裕がない。そろそろ相手がまた迫ってくる頃合いだ。

 浅く潜って銛を短く持つ。

 待つ。

 真結の身からは赤黒い血がまだ流れ下っている。相手はその血のしたたりを伝うようにして上がって来た。相瀬の横を無理やり通り抜けようとする。相瀬が力任せに銛を振る。狙いは過たない。相手の頭に当たる。

 重い!

 力を抜かずにぐ。

 相瀬が振り向くと、間近にその頭があった。

 その頭が相瀬の頭と同じくらい大きさだ。

 体が動かなくなる。

 「……やっぱりか!」

 でも相瀬とにらみ合って相手もひるんだらしい。また体を派手にくねらせながら海の底のほうへと戻って行く。

 相瀬は水を蹴って顔を水の上に出した。

 「真結! だいじょうぶ? 真結っ」

 真結はまだ胸と肩を大きく動かして息をしている。相瀬に何か言おうとしているようだが、ぜいぜいと息の音をさせるだけで、声が出せない。顔色はさっきより青黒さがなくなったようだ。でも気のせいかも知れない。

 相瀬はまた潜ってあたりを見た。

 あの黄色い大きなものは近くにはいない。

 下の砂地に潜んでいないかも注意深く見てみる。

 やはり、いない。

 相瀬は軽く上がって、真結の磯着の下を調べた。

 血が流れているのは右の脇腹からだ。左手に銛を持ったまま、おそるおそる右の手を当ててみる。塩水のなかで傷をさわられ、真結がびくっと身を固くしたのがわかる。

 深傷ふかでではなかった。

 ほっと息をつきたいところだ。水のなかでなければ。

 相瀬は水面に顔を出す。真結に深傷じゃないと言おうと思う。

 安心させたい。

 だが、その前に、舟の舳先が水を切る音が届く。

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