第2話 大海蛇(1)

 日が強く照りつけている。

 相瀬あいせは舟の舳先へさきに肩のところを凭せかけ、両方の膝を両方のふなばたに軽く載せて寝そべっていた。

 磯着いそぎに覆われていないところの肌が焼けて火照り、そのうち焼けている感じもなくなってくる。水がたくさんしたたるほどに濡れたままにしていた磯着もほどなく乾いてしまうだろう。

 眠い。

 夜はやかましい決めごとに従って参籠さんろう所に籠もり、昼は沖で娘組の海女たちといっしょに漁に出る。

 娘組の頭の役割だからしかたがないけれど、その暮らしはやっぱり厳しい。

 最初は強い日射しを避けて目を閉じていたのが、体は懈く頭はぼんやりとしてくる。このまままどろみに落ちてしまいそうだ。

 体ももとは海の水に濡れていたのだが、いま首筋のあたりがくすぐったいのはもう汗のせいだろう。

 相瀬は白い磯着の右の襟を引っぱり上げて顎の下の首筋を擦る。そのまま目を開いて、海の上を見た。

 姉妹のように仲のよいふさかやは、立ち泳ぎしながら、浮かべた一尺四方ぐらいの板の上で、小さい蟹を戦わせて遊んでいる。どちらかの蟹が海に落ちると、拾い上げてまた板の上で戦わせる。

 この蟹は磯で拾ってきた蟹だ。もしここの海に沈んでしまえば、磯まで生きて戻ることはできないだろう。蟹は、房と萱に言われるままにはさみを振るい、横歩きして戦うか、海に沈むか、どちらしかないわけだ。

 磯で拾われ、海に沈むしかない――。

 思いに沈みそうのなるのを、相瀬は慌ててやめた。

 房と萱の向こうでは浅葱あさぎ麻実あさみが大きい桶を浮かべてそれにつかまっている。交互に水に潜っては、あわびを拾ったり、さざえを拾ったり、何も獲らなかったりしている。そうやって海女の仕事に慣れていけばいいと思うし、自分で食べるのだろうからかまわないけれど、ほんとうはああいう小さい鮑は拾ってはいけない。

 あとで大人の海女たちから文句をつけられるかも知れない。娘組が小さい鮑を獲ってしまうから自分たちにはろくな鮑が獲れないのだと。

 この二人は、海女として海に下りたのは去年で、まだ海女としては見習いだ。

 大人組から何か言われたら、知らないふりをするか、自分たちの不漁を娘組のせいにしないでほしいと言い返すか――。

 それより、浅葱も麻実も髪が黒い。海から頭を出したときにその黒い髪を水がしたたり落ちる。そこに日が照るとその髪が黒い宝玉のように艶々と光る。羨ましくてどうにかなってしまいそうなほど美しい。

 二人とも体のつくりが小さくて、陸の上ではそれがかわいらしく見えるのだ。

 自分はどうだろう。

 髪は長い。でもあんなに黒くはないし艶もない。背はそんなに高くないのだけれど、胸も、腕も、腿も豊かで、華奢きゃしゃというにはほど遠い。

 海ではそれでいいのだが、陸に上がれば、自分がその体の大きさをもてあましているようにさえ思えて、時にはそれがいやにもなる。

 腕で日を遮りながら、相瀬はまた目を閉じた。

 自分が海に潜っていられるのはいつまでだろう、と考えてみる。

 もり大小母おおおば様のように還暦という年まで潜っていられるのか、それとも、自分の母のように若いうちに潮で目がかすんで海女をやめなければいけなくなるのか。

 盛の大小母様といえば、大小母様は、前から相瀬を利発だといって、ふみを習うよう勧めてくれている。そんなことをふと思い出す。

 利発と言われればありがたいけれど、自分が利発だとは思えない。それに自分は文を習うようながらではないと相瀬は思う。潮を目に当てなくても、黒い墨で書かれた文字というのを日がな一日眺めていたら、ほんとうに目がどうかしてしまいそうだ。かな文字というのは川を描いたようにうねっていて、あれが読むための文字とはとても思えないし、唐文字からもじというのは見たところが黒くて、近くでよく見ると入り組んでいて、やはり読めるとは思えない。

 利発というなら、ほかの四人のほうがずっと利発なのに――。

 ――四人?

 相瀬は自分の思いに何かが引っかかったように感じる。

 相瀬は、もうまどろみに落ちかけながら、ふなばたに横たえた大銛おおもりに右の手を伸ばしていた。

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