荒磯の姫君(上)

清瀬 六朗

第1話 夜

 半月はんげつ前の月は山のから海と空を照らしていた。もやのかかった空にその月の明かりが弱々しく映えている。

 相瀬あいせは、その空に向かって、手足から力を抜き、目を半ば閉じた。大きく息を吸い、その息をゆっくりと吐く。

 自然と頬が弛み、短く息をつく。

 ようやく一日の勤めが終わった。

 そう思ったとき、相瀬は遠くに異様な動きを見た。

 心地よさから引き戻される。

 目を凝らす。

 仄明るい南の空を遮って、南側の大岬が海へと突き出している。

 その大岬の上に小さく人の姿が見えた。

 二人いるらしい。二人とも女のようだ。

 夜道で迷って、そんな場所に出てしまったのだろうか。

 いや。

 二人のいる場所は岬の先だ。ほかのところへ行こうとして道に迷ったのならもっと手前で気がつき、引き返す。

 では、何をしに来た?

 答えは一つしかない。

 「もうっ!」

 短く声を立てると、相瀬はいきなり跳ねた。

 険しい岩場を、足もともろくに確かめないで駆け下りる。裸足の親指で岩の角をつかみ、下の岩と跳ぶ。手をついて岩を乗り越え、切り立った岩を二‐三段軽く跳ね下りると、そこはもう波打ち際だ。

 大人の丈の十倍はある高い崖をこんなふうに下りることができるのは相瀬だけだ。ほかのだれも、この崖を下りることができるなんてことすら考えつかないだろう。

 相瀬は崖の下から突き出した岩から、大岬の上の様子を窺う。

 ここまで下りると、二人のいるはずの場所は陰になって、姿が見えない。

 引き潮が小さな波を立てて磯の岩場を洗っている。

 大岬のほうからは、遠い海鳴りのほかに何の音も聞こえてこない。

 こちらの浜に寄せる波と少しずれながら、波が崩れ、寄せ、引き、残された水が泡となって消えて行く。

 それだけだ。

 体にだるさが戻ってくる。

 岩場の端にじっと立って聞き耳を立てていた相瀬は、潮の騒ぐ音を十何遍もきいてから、参籠さんろう所に戻ろうと足を引いた。

 この崖を登るのは下りてきたときのようにはいかない。それを考えただけで体の懈さはいや増す。

 「人騒がせな……」

 そう言い捨てて後ろを向いたとたんに、遠くから人の声がした。

 振り返る。

 大岬の先から二つの人影が絡み合いながら下へと落ちて行く。

 「ばかっ!」

 それがその二人の女のことなのか、さっきすぐに助けに跳びこまなかった自分のことなのか――相瀬には考えている余裕などない。

 相瀬は岩場を一つ飛び越すと、水へと躍りこむ。抜き手を切ってまっすぐに大岬の下へと向かう。

 着ているのは肌着一枚だけだ。その肌着が水をはらんで行き足に逆らう。

 あの女たちは、相瀬がこちらの岬の上の参籠所から波打ち際まで駆け下り、磯で様子をうかがっているあいだ、お経の一本も唱えて、来世でのやすらかな暮らしを祈っていたに違いない。

 あの二人がどうなったかは、泳ぎ着くまでもなくわかっていた。

 大岬はこちらの村の岬より高い。でも岬の下は深くなっている。その深いところに跳びこんだのなら、傷は負うかも知れないが、溺れる前に引っぱり上げれば命は助かる。

 けれどもその深い海の手前には岩場がある。相瀬ならば大岬の上から岩場を飛び越してその向こうまで跳ぶことができる。しかし、一目で見て女とわかる装束しょうぞくの二人の身にそんな力があるとも思えなかった。

 ――相瀬も女だけど。

 それに、あの二人は、どこに跳べば助かるかなんて考えもしなかっただろう。

 荒磯には血が打ちしぶいているかも知れない。酷い姿は見たくないと思った。

 ただでさえ、参籠所のある村の岬から向こう、大岬の側はご禁制の浜だ。

 秋の祭礼のとき以外は唐子の浜の者でも入ってはならない。もちろんほかのだれも。

 しかも相瀬は参籠中の身だ。ほんとうは夜に参籠所から抜け出すことすら許されていない。

 だが、助けられる命であるのならば、それを見過ごすことはもっとやってはいけない。

 相瀬は、まっすぐに、岬から跳び下りた女たちが落ちたはずの場所へと向かって、力を尽くして泳ぎつづけた。

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