ホームレスとミゲルくん

@oriko27

ホームレスとミゲルくん

 その日、私はいつものように始発の電車の、一番端の席に座ろうとしていた。


 コンビニで買った弁当を持ち、この間新調したばかりの通勤用の鞄に今日のカンファレンスの資料を入れ忘れていないかもう一度確認した。

 私は平生、発車十分前には車内にいる。この時間帯の乗客は少ないが、私と同じように出勤する人や恐らく朝練があるのであろう学生がちらほら見られる。一年もすれば顔を覚えてしまうが、新年度となるとやはり新しい顔ぶれだ。と電車通勤歴二十年の常連を気取る。


 発車五分前。私の目の前のボックス席に誰か入ってくる。中々見ない風采だ。男だろうか。

 じっと観察していると、その人は座席に新聞を、いやチラシを引きはじめた。

 少し分厚めのを二枚引いて、その上に両手に抱えていた大荷物をどんと置く。大きく穴があいていて、灰色の薄汚れたそれは、ドラマに出てきそうなほどの汚らしさだ。

 観光地によくいる、ご立派なスーツケースを持っているような観光客にはとても見えないし、かといって大きなリュックを背負った、いかにもといった感じの登山客のようにも見えはしない。


「一番線から電車が発車致します。閉まる扉にご注意ください」


 ふう。

 一息ついてスマホを手にし、ニュースを見はじめた。終点までこの電車に乗るので、時間は有効活用しなければならない。

 時事情報を一通り確認し終えたころ、腐卵臭のような気分の悪い匂いを鼻が捉えた。

 一番近いのは目の前のあの人だ。


 何なんだ、と思ってよく見てみる。

 その人は窓の外を眺めていた。白髪混じりの髪はちりぢりと肩まで伸び、これまた荷物と同じような薄い生地の、ぼろきれのような、脱色してしまったのだろうと思われる服を着て、クロッグスニーカーのようになってしまった穴あきのぼろい靴を裸足で履いて。

 黒く焼けた肌は手入れがされていないのかできなかったのか、もしくは乾燥したところにずっといたのか、カサついてひび割れていた。


 ホームレス、か?

 こんなところにもいるんだな……

 しっかし、臭い。

 異臭がするほど汚らしいから、座る場所に綺麗な敷物が必要だったんだな。駅員に頼み込んでもらったか、逆に駅員に敷けと言われたに違いない。どうりでそれだけ見た目と相反した持ち物なわけだ。


 停車駅でしばらく止まっている間に深く呼吸をする。冬の名残のある冷たい朝の風が吹き込んできた。あの扉が閉まれば臭い空気を吸わなければならないのだ。できるだけ今吸っておかなければ。


 また誰か乗ってきた。

 小学校低学年くらいの男の子で、手にうさぎの縫いぐるみを抱えている。外国の子みたいで、綺麗なブロンドの、顔立ちも整ったとても可愛らしい子だ。こんな朝早くに一人だろうか?

 少しきょろきょろと、どこに座ろうかと考えている様子で、隣にどうぞと声をかけてみようかと考えて、やはりそれは良くないと思い直す。


「ごほごほっ。ゲホッ」

 すごい音で目の前のその人は咳をした。じろりと批難するように見る。

 酷い咳だがまさかマスクを持っていないのか?全く。重い病だったらどうするつもりだ。移るかもしれないだろ。


 するとそこに

「だいじょーぶ?」

 拙い、可愛い子供の高めの声が車内に響いた。


 おいおい。

 保護者同伴でない小さな男の子が、身元もはっきりしてなさそうな人に近づくのは危険だろ……と思ったが、めんどくさい事には関わりたくない。

 どうして他にも席は空いてるのに、わざわざそこを選ぶんだ。半ば苛立って思う。


「おとなり、すわってもいい?」

 その人はのそりとこちらを向いた。

 思わず私はスマホをいじり、然も忙しいサラリーマンのように振舞った。

「ありがとう!あ、ちがった。ありがとうございます」

 敬語で話さないといけないんだった、なんてあわあわとした様子を見せる。

「おはようございます。ぼくはミゲルです。おばさんのよこ、しつれいします」

 律儀だな……え?女だったのか。

「きょうね、はじめてひとりでおでかけするの。いつもはママといっしょなんだけど、おとうとのおせわでいそがしいんだって」

「そうかい。えらいねぇ」

 その人は少し嗄れたような、低い声で話した。

「ふふ。それとね、これはないしょだよ」

 男の子、ミゲル君は小さな手でしーっというポーズをとる。

「ぼく、いつもがんばってくれてるママのために、ノンナのところでカレーのつくりかたおしえてもらうの」

「ノンナ?」

「うん。おばあちゃんイタリアじんなんだ~」

 やはり外国の血を引いていたか。それにしてもいまどき殊勝な子だな。

「そうかあ、そうか。お母さん思いなんだねえ。お母さんを大事にしておやり」

 彼女自身も母親というものに何か思うことがあるのだろうか……。


「あたしにもね、ぼくと同じくらいの年の息子がいた。もう何十年も前のことだよ」

 その人は語り出した。

「寒い寒い冬の日、夜遅くに仕事から帰ってきたら、その時間にはいつも家にいるはずの息子の姿が見えなくってね。家中探して、といっても二間もない狭い家で、それなのに息子は見つからない。焦って慌てて近くの交番に捜索願届けを出すと、翌日、川に落ちて冷たくなった息子が見つかった。もう疾うに息をしていなかったよ。どうして一人で凍えるような寒い冬空の下へ出ていったのかはわからない。今でも息子を家に一人残したことを後悔しているよ。……息子があたしの人生の生きがいだったから、それからのあたしは落ちぶれて、ずっとこんななりだよ」

 最後に無理にごまかしたような、乾いた声で付け加えられた言葉は、悲しみと疲れの色がにじみでていた。

 ああ私の何の変哲もない人生は、なんと不幸でないものなのだろうか。


「ぼく、おばさんのむすこさんにはなれないけど、きっとね、むすこさんはおばさんのことさがしにいったんだよ!」

「どうして?」

 ただの子どもの幻想話だろう。

「だってぼくたちこどもはみ~んな、ママとパパのことがすきなんだよ。おばさんのむすこさんは、よるひとりでいるのがさみしくなっちゃって、それでママをさがしにいったんだよ」

 その人はミゲル君の話に嬉しそうに微笑み、つーっと涙をこぼした。


 その人の乾いた頬を伝う透きとおった涙を見たとき。私は自分がいかに擦れた大人の、人間の、悲しいザマを曝け出していたかに気付かされた。

 新年度早々迷惑な乗客だなとしか思わず、心の中で悪態をついていた自分を、どうしようもなく酷く殴りつけたくなった。


「あっ、ぼくもうここでおりなきゃ。ひとりででんしゃのるのはじめてだったから、とってもふあんだったけど、おばさんがいてよかった!またね。バイバイ」

 小さな、私たちのこれからの星は、そう言って手を振り電車を降りた。

 その向こうの鳥曇りにも、光が差し込みはじめた。

 その人が見つめる車窓の外から差し込むその光が、いつもより眩しく私の目に映った。

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